あの肖像画の正体は? ~君は誰やねん!~

 筆者が学生だった頃に使っていた歴史の教科書に載っている偉人達の肖像画の中には、近年の研究により、“その人の肖像画ではない” 可能性が指摘されるものも少なくありません。

 そこで今回は 「じゃあ、君は誰やねん!」 と思わずツッコミたくなる、“誰もが知っているあの人はその顔ではない?” 4枚の肖像画をご紹介します。

1枚目の誰やねん 〜1万円札にもなったあの人〜

『御物 聖徳太子像』宮内庁所蔵

聖徳太子二王子像(『日本美術名作集 第4輯』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
聖徳太子二王子像(『日本美術名作集 第4輯』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

  聖徳太子の肖像画として有名ですよね。両側に童子(山背大兄王と殖栗王)を従え、笏を持った顎髭の長い人が描かれています。

 この肖像画は「唐本御影(唐人が描いた絵のこと)」として法隆寺に伝わってきましたが、明治11年(1878)に皇室へ献納され、現在は宮内庁侍従職の管理下にあります。

 なお、作者不詳ですが、鎌倉時代に法隆寺の僧だった顕真は『聖徳太子伝私記』において、百済の阿佐太子が描いたという説を紹介しています。

現状と見解

 例えば最近の教科書では、「聖徳太子と伝えられる肖像画(東京都宮内庁蔵)」のように微妙な表現で紹介され、聖徳太子だという断定を避けています。

 平安時代、大江親通は『七大寺巡礼私記』にて

「太子の俗形の御影一枚。この像は唐人の描いたものと思われ、あやしく異様である。よくよく吟味してみるべきである。」
『七大寺巡礼私記』より

と既にこの絵が聖徳太子であることに疑問を呈しています。

 そして、昭和57年(1982)当時、東京大学史料編纂所長だった今枝愛真がこの太子像に装幀されていた絹地に「川原寺」の文字があることを発見します。

 川原寺は天智天皇が飛鳥時代(670年頃)に創建したお寺です。一方で、聖徳太子は622年に亡くなったと言われています。

 「没後50年経って造られた川原寺と聖徳太子には深い関係は無く、肖像画を置くことはおかしい」
 こうした疑念が生じ、「この絵の像主は聖徳太子ではない」と言われるようになったのです。

 また、この絵に描かれている服装や漆紗冠、笏などは聖徳太子の生きている時代にはなかった物のため、これも聖徳太子ではない説を後押ししています。

 一方で聖徳太子の死後、「太子信仰」として後世の人が聖徳太子を描いた絵である、という説もあります。

真の像主は?

 残念ながら、現在も聖徳太子なのか別人なのか真偽ははっきりしていません。

 本当は誰の絵なのでしょう?

2枚目の誰やねん 〜イイハコ?イイクニ??つくったあの人〜

『伝源頼朝像』神護寺(京都府)所蔵

神護寺蔵  絹本着色伝源頼朝像(『新古画粋 第14編 (大和絵)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
神護寺蔵 絹本着色伝源頼朝像(『新古画粋 第14編 (大和絵)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 源頼朝の肖像画として教科書にも掲載されていました。黒色の袍を着た束帯(公家の正装)姿の源頼朝を描いたと言われ、似絵の作者として有名な藤原隆信の作と言われています。

 神護寺にはこの絵を含めて3人の肖像画が残っており、寺伝によると、源頼朝、平重盛、藤原光能とされています。

 また、14世紀に書写されたとされる『神護寺略記』には、「後白河法皇、平重盛、源頼朝、藤原光能、平業房らの肖像画が藤原隆信によって描かれた」という記述があります。

現状と見解

 しかし、現存する3人の肖像画には「誰を描いたのか」という像主を示す記述はどこにもありません。もちろん先述の『神護寺略記』にも「どの絵が誰なのか」までは書かれていません。つまり、像主を示す明確な根拠がどこにもないため、現在は『伝源頼朝像』『伝平重盛像』『伝藤原光能像』と紹介されています。

 歴史学者の米倉迪夫は以下の内容を指摘しています。

  • 「足利直義が神護寺に兄の尊氏と自分の肖像画を奉納した」と書かれた文書がある。(『東山御文庫文書』)
  • そのうえで、複数の肖像画がセットの場合、上位者が向かって右側に配置されるので、尊氏が右側で直義が左側に置かれるはず。
  • 『伝源頼朝像』だけが右向きの絵だから、左側に置かれるはず。
  • 左向きの絵のうち、『伝平重盛像』は、足利尊氏を描いた他の絵と幾つかの共通点が見られる。(京都等持院や大分安国寺、尾道浄土寺など)
  • 左向きの絵のうち、『伝藤原光能像』は京都等持院にある足利義詮の木像とよく似ている。

 これらを根拠として、この絵は源頼朝では無いという説を挙げています。

真の像主は?

 米倉説によると、

  • 『伝源頼朝像』→足利直義の肖像画
  • 『伝平重盛像』→足利尊氏の肖像画
  • 『伝藤原光能像』→足利義詮の肖像画

となり、この説を支持している研究者もいますが、これもあくまで「可能性」を示しているにすぎません。事実として分かっているのは、「誰の絵なのか、肖像画には書かれていない」ということだけです。

 本当は誰の絵なのでしょう??

3枚目の誰やねん 〜黒馬に乗った立派な騎馬武者〜

『守屋家本騎馬武者像』京都国立博物館所蔵

騎馬武者像(『とちぎ県民だより 2012 (10月』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
騎馬武者像(『とちぎ県民だより 2012 (10月』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 足利尊氏として昔の教科書に必出の肖像画でした。黒馬に乗り、高級感ある鎧姿に立派な太刀を持った騎馬武者が描かれています。作者は不明ですが、騎馬武者の頭上に室町幕府二代将軍の足利義詮(あしかが よしあきら)の花押があります。

現状と見解

 現在はこの絵が足利尊氏であることは否定されています。

「他の尊氏像と全然違う」

「彼の愛馬は栗毛であって黒毛ではない」

「武具や馬具に描かれた家紋が足利家とは違う」

等々…。

 また、軍忠状の証判(部下の軍忠を認めた証に書くサイン)同様の意味をなす花押があるということは義詮より目下の者を描いたと考えられます。故にタイトル通り、室町時代の騎馬武者像として紹介されるようになっています。

 研究者たちは、武具や馬具に描かれた家紋が「高(こう)氏」のものだったことに注目しました。そして義詮の花押があることから、義詮と深い関係にあった人と推測することができます。よって、尊氏の執事を務め、義詮の擁立に活躍した高師直(こう の もろなお)の肖像画ではないか、と言われるようになりました。

 しかし、近年では高師直ではなく、その子・高師詮の絵ではないかという説もあります。その理由は「肖像画に描かれている人の様子」です。

 立派な鎧をまといつつも髪は結わずに垂れ、抜刀、折れた矢を担いだ姿が描かれています。高師直は『太平記』で「清ゲナル老武者」と書かれています。しかし、肖像画に描かれた顔はお世辞にも「清ゲ」でも「老武者」にも見えません。

 一方、師詮は観応の擾乱後に難を逃れて片田舎に隠れ住み、後に足利義詮に味方して出陣しますが、西山吉峯の戦いで大敗を喫し、敗走する途中で切腹します。この絵はその敗走時の様子を描いたのではないか、というのです。

真の像主は?

 上記の通り、少なくとも足利尊氏ではなさそうです。高氏である可能性は高いでしょうが師直か師詮なのか、未だ確定はしておりません。

 本当は誰の絵なのでしょう???

4枚目の誰やねん 〜高野山にあるお髭の武将〜

『絹本著色 武田信玄像』高野山成慶院(和歌山県)所蔵

成慶院藏  武田信玄像(『日本近世名画大観 上巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
成慶院藏 武田信玄像(『日本近世名画大観 上巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 風林火山でお馴染みの武田信玄の肖像画と言われてきました。脇に太刀とハヤブサを携え、立派な髭を蓄えて安座する武将が描かれており、長谷川等伯の作といわれています。

 そもそも成慶院が武田信玄の菩提寺であり、以下2つの理由から武田信玄の肖像画として認知されていました。

  • ① 「信玄の子である勝頼が成慶院に生前の信玄像を寄進した」と書かれた書状(『成慶院文書』)が残っている。
  • ② 江戸時代の古器物図録『集古十種』に、武田信玄像として成慶院画像の模写が紹介されている。

現状と見解

 しかし最近は、この絵は信玄ではないとして高野山持明院の『絹本著色 武田晴信像』など別の絵が用いられるようになっています。

「この成慶院画像が武田信玄とする史料的証拠は不十分」
(by 藤本正行)

というのがその理由のようです。信玄ではないとする主な根拠については以下の2点です。

① 家紋

 腰に刺している刀と脇に立てられた太刀には「丸に二引両紋」という家紋が描かれています。この家紋は、足利将軍家とそれに連なる細川、今川、吉良、斯波、畠山などが用いていますが、武田家は違います。よって、像主はその中の誰かであって武田信玄ではないということになります。

 なお、足利将軍家はこの二引両紋より高位の桐紋を使う頻度の方が圧倒的に高かったため、足利将軍家は候補から外れます。

② 作者

 作者は桃山時代の代表的絵師である長谷川等伯であることは間違いないだろう、と言われています。

 この絵は等伯がまだ「信春」という名で絵を描いていた永禄年間〜天正年間の物と思われます。そして、この頃の等伯の作品は石川県や富山県に多く残っていることから、等伯は石川・富山を中心に仕事をしていたことが推測できます。

 ちなみに、長谷川家は能登の七尾出身で、等伯の父は能登守護で七尾城主だった畠山氏の家臣でした。一方の信玄は石川・富山へ足を踏み入れたことはなく、等伯との接点を示す史料は見つかっていません。故に、信玄である証拠が不十分なのです。

真の像主は?

 結論として、この成慶院画像に描かれている髭の武将は「能登守護の畠山氏の誰か」である可能性が高くなりました。

 時代的には畠山義続の可能性が最も高いですが、等伯が義続を描いたとされる『法華経本尊絵曼荼羅』(京都府妙傳寺)の顔とは全く別人なため、確定には至ってません。

 本当は誰の絵なのでしょう????

最後に

 今回は「君は誰やねん!」として、“誰もが知っているあの人はその顔ではない?” のに教科書に掲載されている(されていた)肖像画4枚を紹介しました。

 写真の無い時代、その人の顔を残す肖像画は非常に重要だったと思います。でも、別人の顔で残されていたとしたら…

 「卒業アルバムの写真が別人の写真になってた」くらいショックですよね。

※文中、敬称は省略させていただきました。



【主な参考文献】
  • 山本博文ほか『こんなに変わった歴史教科書』(新潮社、2008年)
  • 黒田日出男『肖像画を読む』(角川書店、1998年)
  • 笠原一男、児玉幸多『日本史こぼれ話』(山川出版社、1993年)
  • 笠原一男、児玉幸多『続 日本史こぼれ話』(山川出版社、1999年)

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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