豊臣秀吉の子孫は根絶やしか?豊臣家の血脈を徹底解説!

全国各地にある秀吉を祀る豊国神社。その総本社、京都の豊国神社にある秀吉銅像
全国各地にある秀吉を祀る豊国神社。その総本社、京都の豊国神社にある秀吉銅像
歴史の通説に従うならば、豊臣秀吉は子宝に恵まれず、唯一成人した実子秀頼も大坂の陣での敗戦後に大坂城で自害して果てたとされ、秀頼の実子である国松も大坂城を脱出したものの、徳川方の捜索によって捕縛され処刑されたという。つまり、秀吉直系の子孫は絶えてしまったとされているのである。

しかし、俗説と言われるものまで調べてみると、血脈は絶えていないという話もかなり残されていることがわかる。最近では秀吉の子孫であるタレントがいるという噂まであると聞く。史料が紡ぎ出す物語とはいかなるものなのであろうか。

秀吉の血脈は絶えたか?

秀吉は幼年期に罹ったおたふく風邪によって、子種のない体になったという説もある。

それはともかく秀吉が子宝に恵まれなかったのは事実である。数少ない秀吉の実子は、史料で確認できる範囲では3名いる。生年順に挙げてみよう。


羽柴(石松丸)秀勝

秀吉には「秀勝」という名の子が3人いるが、この石松丸秀勝以外は養子である。石松丸秀勝は、秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承はあるが、生年は不詳で生母も諸説あり、定まっていない。

一説には、側室南殿の子であり、女児も1人もうけたという。ハッキリしているのは側室の子で、1576年に死没しているという点のみである。

しかし、長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2(1574)年に秀吉に男子が誕生したのを祝って始められたという伝承があるのを考えると、秀吉長浜時代に生まれた男子というのは本当なのかもしれない。

鶴松

鶴松は天正17(1589)年に、山城の淀城で側室淀殿を母として生まれた男子である。秀吉はこのとき53歳であったという。当時としては高齢での男子誕生に、秀吉は狂喜乱舞したと言われている。

待望の嫡男誕生であるが、秀吉はその長寿を願って「棄(すて)」と名付けたというが、これは「棄て児は良く育つ」という民間信仰によるものであった。その後、棄は「鶴松」と名を変え、傅役として老臣の石川光重が任じられたという。

秀吉は鶴松が生後4ヶ月の時には後継者にしようと考えていたようで、淀殿と共に大坂城に迎え入れている。鶴松は体が弱く、何度か生命の危険にさらされているが、3歳の時に発症した病は治癒せず病没してしまう。

秀頼

秀頼は文禄2(1593)年に淀殿を母として大坂城で誕生した。秀吉57歳の時の子だという。

豊臣秀頼の肖像画(養源院 蔵)
豊臣秀頼の肖像画(養源院 蔵)

子種がないと言われていた秀吉と淀殿の間に、鶴松・秀頼という2人の子が産まれたことから、2人とも父親は秀吉ではなく、大野治長ではないかという噂が当時から囁かれていたらしい。

このとき、すでに甥の秀次に関白の位を譲っていた秀吉は3代目の関白として秀頼を考えていたという。このことが後の秀次事件の発端となるのであるが、秀次事件についてはここでは割愛する。

秀次が切腹し、一族がほぼ抹殺されたことで秀頼の継嗣が確定する。秀吉は秀頼を補佐する体制を整えるべく五大老・五奉行等の組織を導入する。

慶長3(1598)年、秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ大坂城に入った。

関ヶ原の合戦で西軍が敗戦した後は徳川家康の謀略により、太閤蔵入地を勝手に分配されてしまう。これにより、豊臣家は65万石の一大名へ転落することになる。

大坂の陣では、大坂城に全国から浪人が集結するも、徳川幕府軍の勢いには勝てず、秀頼は1615年大坂城内で淀殿とともに自刃して果てたとされる。享年23歳という。

では、秀頼に子はいたのであろうか。

国松

豊臣秀頼には正室の千姫との間には子がなかったが、側室との間に儲けた男子がいたのである。名を国松という。

国松は大坂夏の陣で大坂城落城の際に、傅役の田中六郎左衛門・乳母と共に脱出した。しかし徳川方の捜索によって捕縛され、六条河原にて斬首されたとされる。

天秀尼(てんしゅうに)

国松には年子の奈阿姫という妹がいたとされる。女児であることや、千姫の助命嘆願もあり、仏門に入ることを条件に処刑を免れた。奈阿姫は千姫の養女であったという。

奈阿姫は8歳にして鎌倉の縁切り寺である東慶寺にて出家し、天秀尼となったとされる。その後、和尚となった天秀尼は1645年2月7日に37歳で死去したという。

仏門に入った天秀尼には子がなく、この時点で、秀吉の血脈は表の歴史としては絶えたということになる。

求厭(ぐえん)

求厭は江戸初期の浄土宗の僧である。

『続日本高僧伝』によれば、臨終の際に求厭は自分が国松の弟であり、大坂夏の陣では衛士が江戸に匿ったことで処刑を免れたと語ったという。

出家した求厭には当然子はなく、この話が本当であれば、求厭が死去した1688年までは秀吉の血脈は続いたということになる。

おねの血脈

秀吉の血脈は絶えたが、豊臣家の血脈を考えるならば北政所おねの方も考える必要があるだろう。

実は大坂の陣の後にも、「豊臣」を名乗っていた一族が存在するのである。秀吉の義理の兄、つまりおねの実の兄である木下家定の一族である。


家定は、もともとは杉原姓を名乗っていたが、秀吉が出世していくとその家人となり、木下姓をなるようになったとされる。天正15(1587)年には羽柴姓が与えられ、次いで豊臣姓も下賜されている。

この木下家は関ヶ原の合戦及び大坂の陣では徳川方についているが、家の存続のためには仕方がなかったのかもしれない。

この家定の子である利房が備中足守(あしもり)藩を、延俊が豊後国日出(ひじ)藩を開いた。両藩とも江戸幕府から豊臣姓を名乗ることを許され、廃藩置県まで存続したという。

秀吉の血は入っていないものの、北政所おねの系統の「豊臣氏」は絶えていなかったのである。

秀吉の姉の血脈

秀吉には智(とも)という姉がいたが、彼女は豊臣秀勝を産んでいる。

秀勝は浅井長政の娘お江と結婚し、お江は完子(さだこ)を産むが、この完子は後に九条忠栄の元に嫁ぐこととなる。

大正天皇の皇后であった九条節子様は、この九条忠栄の子孫であるから、今上天皇陛下には豊臣氏と浅井氏の血が流れているということになる。

国松は生存していた?

歴史学的に言うならば、表の歴史こそが「歴史」なのだろう。しかし、表があれば裏もあるのが世の常というものである。

当然裏の歴史は史実として立証されない可能性が大であるが、それが「口伝」として代々語り継がれていたとしたらどうであろう。限りなく真実に近くはないか。

先ほど述べた日出藩木下家は現在も続いているが、その19代当主木下崇俊氏は、国松は真田信繁(幸村)の嫡男大助らに伴われて、薩摩に落ち延びたという口伝が代々受け継がれてきたと言う。

その後、国松は日出藩に移り住み、2代目藩主となる俊治の弟として延由(のぶよし)と改名する。さらには日出藩から5千石を分封され、立石藩主になったとされている。厳密には、1万石未満であるから立石「藩」ではなく、立石「領」と言うべきであろう。

実際、延由は大名ではなく参勤交代を行う旗本である「交代寄合」とされている。その際、羽柴姓も与えられたという。

崇俊氏の父は10歳の頃に、この一子相伝の口伝を伝えられたというが、祭壇の前に正座させられ、毎日のように繰り返し暗唱させられたというから驚く。これほどまでに、厳格に口伝が受け継がれているところを見ると、国松は本当に生存していたのかもしれない。

ちなみに、『甲子夜話』などには豊臣秀頼が真田信繁・大助親子に伴われて薩摩に落ち延びたという伝承も存在するが、木下家の口伝ではそれについては触れられていない。

おわりに

表の歴史、すなわち歴史学的に立証された歴史においては、豊臣秀吉の血脈は完全に絶えたという結論に達する。豊臣氏の血脈で考えるならば、秀吉の親族の子孫が今でも存在しているということがわかった。

一方、伝承や口伝などの形では、秀吉の血脈は現代まで続いているとされている。伝承や口伝は検証が難しく、そのため歴史学者はその内容に懐疑的なことが多いのは事実であろう。しかしながら、石田三成の次男石田重成が津軽氏のはからいで、津軽へ落ち延びたということが判明したケースもある。

今後の研究でもっと様々なことが判明していくであろうが、伝承や口伝には何か歴史のロマンを感じさせるところがあり、信憑性度外視で信じてみたくなるのも無理からぬことであろう。


【主な参考文献】
  • 早瀬晴夫『豊臣氏存続』(今日の話題社 2006年)
  • 前川和彦『秀頼脱出―豊臣秀頼は九州で生存した』(国書刊行会、1997年)
  • 松浦静山『甲子夜話』(徳間書店、1978年)
  • 木下俊熈『秀頼は薩摩で生きていた』(新峰社、1968年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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