歌舞伎の光と影 役者絵大流行の裏で売れない役者は陰間茶屋送り?
- 2024/11/05
歌舞伎は江戸中期最大のエンタメだった
歌舞伎の成立は江戸時代初期。慶長8年(1603)京都にて出雲阿国がはじめた「ややこ踊り」、別名「かぶき踊り」まで遡ります。 当初は女性が踊る「女歌舞伎」、元服前の美少年が踊る「若衆歌舞伎」とに分かれていましたが、双方とも風紀を乱すとして幕府に禁じられ、成人男性が全役をこなす「野郎歌舞伎」が興りました。これが現代歌舞伎のルーツです。
八代将軍・徳川吉宗の時代になり、世相が安定すると、芝居小屋には雨天でも上演可能な屋根が付き、立派な桟敷や花道がこしらえられ、大勢の観客を収容できるようになります。
色男を二枚目と称すのも歌舞伎由来。男女の恋愛が主題の演目において、美男子を演じる役者の木札を看板の二枚目に掲げた慣例にちなみます。一枚目は座長、三枚目は剽軽な言動で笑いをとる道化役でした。
歌舞伎が最盛期を迎えるのは江戸中期の元禄年間(1688~1704)。この頃に完成した歌舞伎は元禄歌舞伎と呼ばれ、荒事芸の達人・初代市川團十郎を筆頭に錚々たるスターを生み出しました。
歌舞伎は江戸っ子にとって最大の娯楽でした。推し活にハマる女性も続出し、いざ花形の出番ともなれば、黄色い悲鳴を上げてドミノ倒しに卒倒したとか。日本橋界隈には幟を立てた芝居小屋が犇めき、連日活況を呈していたそうです。
面白いのは当時から推し活グッズが出回っていたこと。熱狂的ファンは推しの絵が描かれた団扇を持参し、アイドルオタクがプロマイドを集める感覚で推しの大首絵を買い漁ります。歌川国貞『俳優楽屋双六』など、楽屋裏を描いた錦絵も人気を博しました。
髪型やコーディネートを真似るのは序の口。三代目中村歌右衛門ゆかりの芝翫茶(しかんちゃ)や二代目嵐吉三郎が好んだ璃寛茶(りかんちゃ)、さらには二代目瀬川菊之丞が『八百屋お七恋江戸紫』で纏った路考茶(ろこうちゃ)は、最先端の流行色として江戸の町を染め上げました。
市川団十郎の名前を冠する商品として、瓢箪屋(ひょうたんや)治郎左ヱ門の「団十郎歯磨き」や、成田屋常琳の「団十郎煎餅」に続け、とばかり、役者名を冠したグッズを手掛け、ひと儲けを企む商人も現れ出します。京橋で売り出された粉白粉「美艶仙女香」は、七代続いた女形の名跡、瀬川菊之丞にあやかっているそうです。
歌舞伎の世界には役者の家柄を示す定紋と役者個人のトレードマークとして親しまれる役者紋が存在し、これを羽織ることもありました。是が非でも推しとお揃いになりたいファンは帯や着物、手拭いや風呂敷に同じ紋を染めて観劇に繰り出します。市川團十郎の定紋・三枡(みます)は特に有名ですね。
さらに付け加えると、江戸時代は士農工商の武士以外は苗字を名乗るのが許されませんでした。故に役者は独自の屋号を用い、ファンも「成田屋」「伊丹屋」「萬屋」他、屋号を叫んで応援したのです。「日本一!」「三国一!」と褒めたたえるのも忘れてはいけません。
売れない役者は陰間茶屋でパトロン探し
歌舞伎の世界は華やかなだけではありません。光が強ければ強いほど、影が濃くなるのは世の習いです。もとより芸能と売色は切っても切れない関係で、女歌舞伎・若衆歌舞伎がお上に禁じられた理由もそこにあります。歌舞伎の語源の「傾き者(かぶきもの)」は奇抜な衣装と化粧を身に纏い、酔狂な言動で注目を浴びる遊び人の俗称。出雲阿国が旅の途上で見せて回ったのも、傾き者と色茶屋の娘が戯れる、艶っぽい踊りでした。
歌舞伎では男性が女性を演じます。彼らは女形(おやま)と呼ばれ、実際の女性以上に女性らしい、妖艶な振る舞いが求められました。
デビュー前の女形が媚態と色香を磨き上げる修行の場として送り込まれたのが陰間(かげま)茶屋。「陰間」の由来は舞台に出れない控えの役者=陰の間。そこは裕福な男性や未亡人が男娼を買い求める宿で、関西では「若衆宿」とも呼ばれていました。門前町に密集しており、僧侶がお忍びで来ることもあったそうです。
陰間茶屋で働く女形志望は女装せず、男の姿のまま客を取りました。揚げ代は一日三両と大変高額で、金持ちの道楽の側面が強かったのは否めません。デビュー後も引き続き陰間を兼任する者は、舞台子・色子、地方巡業に赴く飛子と呼び分けられました。駆け出しの売れない役者にとって、陰間の副業は貴重な収入源だったのです。後援者に顔と名前を売り込む、枕営業の役割も帯びていました。
初代中村仲蔵も若い頃陰間茶屋で働いていた一人。回顧録『月雪花寝物語』には、陰間茶屋で金持ちのパトロンを捕まえたものの、これを妬んだ兄弟子たちの策に嵌まり、かわるがわる犯された体験が綴られていました。
それでも仲蔵は幸運でした。陰間の盛りは十六・七、ハタチ過ぎれば引退に追い込まれます。年季明けまでに役者として成功を治めねば、路頭に迷って死ぬしかありません。故にこそ営業期間は月代(さかやき。額から頭の中ほどにかけて頭髪をそった部分)を剃らず、紅顔の美少年を好む客の求めに応え、可愛い稚児に徹したのでした。
越後国新発田藩七代藩主・溝口直温(みぞぐち なおあつ)も舞台子を愛でた男色家。宝暦8年(1758)刊行の『当代江戸百化物』曰く、若き日の二代目瀬川菊之丞を溺愛し、大金を貢いでいたと言います。
余談ながら平賀源内も陰間茶屋の常連で、菊之丞とは相思相愛の仲だったと語り継がれています。
蔦屋重三郎の秘蔵っ子・東洲斎写楽が手掛けた役者絵
江戸きっての版元・蔦屋重三郎は流行の仕掛け人でした。寛政の改革実施後の寛政6年(1794)、蔦屋は無名絵師・東洲斎写楽に『市川鰕蔵の竹村定之進』『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』『市川男女蔵の奴一平』を含む歌舞伎役者の大首絵28枚を発注。 背景は黒雲母刷りの豪華仕様となっており、喜多川歌麿の美人画を上回るコストが掛かっていました。黒雲母とは砕いた雲母に膠を混ぜた塗料で、高級感ある美しい光沢がウリです。
デフォルメを得意とする写楽の画風は、単なるプロマイドに過ぎなかった浮世絵の固定観念を覆し、大胆な構図と目ヂカラでもって人々を魅了しました。別個の役者絵を並べ、劇中人物の相関図を組み上げる試みもユニーク。
一方でアンチもいました。
歌舞伎役者はスター、故に美化して当然。しゃくれた顎は目立たぬようひっこめ、出っ歯は控えめに描くのが写楽登場前までの常識でした。そんな世間の風潮に断じて阿らず、しゃくれた顎はさらにひん曲げ、鷲鼻出っ歯はもっと誇張し……良くも悪くも個性を盛りまくった結果、賛否両論の炎上を招いてしまったのです。
『浮世絵類考』にて、写楽は
「これまた歌舞伎役者の似顔を写せしが あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば 長く世に行われず一両年にして止ム」
と言及されています。
活動期間十か月足らず、突然の失踪は人気がふるわなかったから……この指摘は的を射ているのでしょうか?不動の地位を確立した現在の評価を見ると、些か首を傾げざる得ません。
写楽の素性は一切謎に包まれているものの、葛飾北斎や喜多川歌麿をはじめとする絵師の別名義説も挙がっており、今もって興味が尽きません。
おわりに
以上、歌舞伎の裏側と幻の絵師・東洲斎写楽の紹介でした。彗星のように現れて消えた写楽は一体どこに行ってしまったのでしょうか?幻の絵師の行方にはロマンを感じますね。陰間茶屋で辛酸をなめた舞台子の出世は、苦労が報われたと喜びたいです。
【主な参考文献】
- 飯田 泰子『図説江戸歌舞伎事典1 芝居の世界』(芙蓉書房出版、2018年)
- 藤澤 茜『歌舞伎江戸百景: 浮世絵で読む芝居見物ことはじめ』(小学館、2022年)
- 安藤優一郎『江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』(カンゼン、2019年)
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