剣豪・佐々木小次郎の素性 出自の諸説、岩流の由来、撲殺の謎など…史料を吟味しながら考察してみた

小倉城天守閣前の広場にある佐々木小次郎のモニュメント(福岡県北九州市小倉北区)
小倉城天守閣前の広場にある佐々木小次郎のモニュメント(福岡県北九州市小倉北区)
 巌流島の戦い(1612)で 宮本武蔵が佐々木小次郎に勝利したという話を知らない人はかなり少ないだろう。そういう意味で佐々木小次郎という名は有名ではある。しかし、その素生はと聞かれると、はっきりとした記述がほとんどないため、謎だらけである。

 今回は、伝承や郷土史の側面からも史料を吟味することでリアル小次郎に迫ってみた。

謎だらけの出自

 佐々木小次郎の出自は、はっきり言ってほとんどわかっていないが、主に2つの説がある。

 1つは、豊前国田川郡副田庄(現在の福岡県田川郡添田町)の豪族・佐々木氏の一族であるという説。そしてもう1つは、『二天記』に記されている越前国宇坂庄浄教寺村(現在の福井県福井市浄教寺町)出身説である。

 越前説については、小次郎が越前の中条流富田勢源、もしくはその弟子の鐘捲自斎のもとで修行したとされているからであろう。

 この越前説をとると、巌流島決闘時点の小次郎の年齢にも影響が出てくるのだという。例えば、富田勢源に師事したとすると、巌流島決闘時点ではかなりの老齢ということになってしまうのだ。『二天記』では小次郎は十八歳となっているが、七八歳を誤記したという説があるくらいである。

 私は、諸々の理由から豊前国田川郡副田庄の豪族・佐々木氏の一族説を取りたい。これについては、後述する。

岩流小次郎の名の由来

 「岩流」は小次郎が創始した流派であるが、通常は「巌流」と表記されることが多いのではないだろうか。そもそもは「岩流」ではなかったか、と私は睨んでいる。というのも、豊前添田の土豪・佐々木氏の居城が岩石(がんじゃく)城だったからだ。

 この城は山岳修験道の修業場として有名であった岩石山(がんじゃくさん)の山頂に築かれており、小次郎が岩石城主であった佐々木氏の一族だとすると、岩石山で剣の修行に勤しんだとしても不思議は無いように思えるのだ。この岩石山にちなんで「岩流」と名付けた可能性はないだろうか。

 越前出生説では、越前の一乗滝で燕返しを会得したことになっているのであるが、岩石山にも滝が複数存在するので、本当はその滝で会得したのかもしれない。

 ここまでは、私の勝手な推測である。

 コラムだから、このまま書き進めていっても支障ないのだが、何か少々引っかかる点があった。それは、小次郎の名が1600年代の史料には明記されていないということだ。

 例えば、『小倉碑文』では単に岩流としか記されていないし、『沼田家記』ではかろうじて小次郎と記されている有様である。

 武蔵に敗れたとはいえ、小倉藩の剣術師範だったとされている小次郎の名が当時の史料にはっきりと記載されていないのは何故なのか。私の脳裏にふと、『沼田家記』のある記述が浮かんできた。

 『沼田家記』によると、巌流島での戦いに小次郎は敗れたが、武蔵が去った時点ではまだ息があったらしい。その後、潜んでいた武蔵の弟子たちが小次郎を撲殺したというのだ。

 私は、この結末にふと違和感を覚えた。師である武蔵が「勝負あり!」と判断してその場を離れたというのに、弟子たちがその判断を反故にするような行動に出るだろうか?

 これらの謎の背景には、小次郎の出自が大きく関わっているのではないか。ここは、やはり豊前佐々木氏説を検証せねばなるまい。

 これに関する史料をあちこち探したが、中々見つからず難儀した。郷土史関係の記述を探せば何とかなるかと思い、その方面を調査したところ、興味深い情報にたどり着いた。

 英彦山の西にある福岡県嘉穂郡嘉穂町馬見には「尾谷柿」という特産品があるが、これが別名「小次郎柿」と呼ばれているらしい。この地の伝承によると、この柿の原木は小次郎が播磨から持ち込んだのだという。

 さらに、『筑前名所図鑑』には「佐々木巌流ここに蟄居す」との記述があり、小次郎が何らかの理由で尾谷の地にて蟄居していた可能性を示唆している。小次郎の本拠地と思われる添田庄ではなく、少々離れた尾谷で蟄居していることを考えると、豊前国人一揆との関連性が想起されよう。

 豊前国人一揆は天正15年(1587)、天下統一を突き進む豊臣秀吉を前に、一旦は臣従した国人たちが、これまでの既得権益が認められないことに反発して起こした一揆である。

 岩石城に籠城した佐々木雅楽頭種次をはじめとする一揆勢は、豊臣方の大軍に攻められてあえなく落城し、700名もの一揆勢が討取られたようだ。この一揆で佐々木氏は散り散りとなったが、滅ぼされることなく何とか命脈を保ち続けたという。

 なぜ滅ぼされなかったのか? 徹底的に粛清されなかった背景には、英彦山の僧兵の存在が大きかったのではないかと私は睨んでいる。

 僧兵と言っても、英彦山の場合は修行の一環として武芸に励んでいた山伏が武装化したものであり、最盛期には数千人の僧兵がいたというから驚く。英彦山の僧兵は、自ら軍事活動を起こすことは無かったが、落ち延びてきた者などを匿ったと伝わる。そして、ひとたび攻撃を受けると反撃に転じ、激しく抵抗したという。

 豊前佐々木氏と英彦山との関連性は深く、もし粛清しようとした佐々木氏の残党が英彦山に逃げ込んだりすると厄介なことになろう。一揆の首謀者でもない佐々木氏を徹底的に粛清する必要など無かったのではないか。

 そしてもし小次郎がこの一揆に参加して降伏したとすれば、蟄居する十分な理由になりはしないだろうか。

 『筑前名所図鑑』を調べると、尾谷の地で、弟子たちに剣術を指導している絵が載っていることがわかる。ということはおそらく、この時点で既に燕返しを会得していたのだろう。なぜなら、豊前国人一揆が起こる前、小次郎は剣術修行の旅に出ていたという説があるからである。

 小次郎の燕返しが、中条流の秘技「虎切刀(こせつとう)」とそっくりだという事実を考えると、小次郎は越前の中条流を学んだ可能性は高い。相違点は中条流は小太刀、小次郎は長刀というところだが、中条流の秘技を長刀でやってのけてしまうところに小次郎の凄まじさがあると言えよう。

 ただ、岩流は英彦山の山伏が修行していた武芸の流れをくむとする説があるところをみると、小次郎の武芸のルーツは、添田にあると私は考えている。やはり、岩流の名の由来は、岩石山及び岩石城にありそうだ。

 おそらくだが、蟄居が解けて弟子たちの数も増え、道場を構えることになったのを機に「岩流」を名乗るようになったのではないだろうか。

駆け引き

小倉藩の剣術師範へ

 関ヶ原合戦(1600)の後、細川忠興(ほそかわ ただおき)は豊前に移封されて中津城(大分県中津市)に入り、次いで慶長7年(1602)に居城を小倉城(福岡県北九州市)に移した。

小倉城復興天守と堀(福岡県北九州市小倉北区)
小倉城復興天守と堀(福岡県北九州市小倉北区)

 小次郎を小倉藩の剣術指南役に推挙したのは家老の岩間角兵衛と言われている。この推挙は小倉に移ってから、ほどなくして行われたと思われる。

 無論、小次郎の剣の腕が見込まれたという側面は大きいが、背後には豊前佐々木氏、そして、英彦山の僧兵がひかえている小次郎を召し抱えることで、彼らを懐柔しようとしたのかもしれない。移封早々に一揆など起こされては堪ったものではないからだ。

 ところがその後、当の細川家で厄介な事態が生じてしまう。忠興の後継問題である。

 忠興の正室であった細川ガラシャとの間には、長男・忠隆、二男・興秋、そして三男・忠利がいた。当初は、忠隆が嫡男であったが、関ヶ原の合戦後に廃嫡されてしまう。そして、慶長10年(1605)、江戸で徳川家の人質となっていた忠利が後継と決まると、興秋は代わりに人質となるべく江戸に向かう途中で出奔し、その後は京で出家してしまった。

      細川幽斎
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幸隆 興元 忠興 
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忠利 興秋 忠隆

※参考:細川忠興の略系図

 興味深いのは二人とも、京で隠居していた祖父・幽斎のもとに身を寄せたという点である。二人の身が安泰であることはすぐに知れたと思われるが、これが後の騒動をより大きくしたようだ。

武蔵の招聘は小次郎排除のため?

 この後、元和7年(1621)に忠利への相続が実際に行われるまでの17年間もお家騒動が続いたという。歴史家の原田夢果史氏によれば、小次郎の道場には小倉藩士が何人か在籍していた可能性を指摘しているが、私もその通りだと考えている。

 もし、反忠利派の家臣たちが小次郎の道場に集まるような事態になると、状況は深刻である。岩石山の僧兵と佐々木氏が、この反忠利派と結ぶと厄介この上ないことは明らかだろう。これを憂慮した藩の上層部が小次郎の排除を考えたとしても不思議はないと私は睨んでいる。

 宮本武蔵が小倉に招聘され、道場を開いた背景には以上のような事情があったのではないか、と前出の原田氏は述べているが、巌流島の戦い以降の武蔵への待遇からみるとその可能性が高いのではないか。

 小倉藩の上層部の思惑通り、武蔵道場と小次郎道場の弟子たちは、やがて互いの師匠の強さについて諍いを起こすようになったという。こうなると、それとなく両者に仕合を行ってはどうかという話を持ち掛けるだけでよい。

逃げる武蔵

 巌流島の戦いは慶長17年(1612)、4月13日に行われたとされている。小倉碑文によれば、「両雄同時相会」とあり、武蔵は遅刻していない。武蔵の記事でも触れたが、勝負は武蔵の一撃で終わったという。

巌流島の武蔵・小次郎像(山口県下関市彦島)
巌流島の武蔵・小次郎像(山口県下関市彦島)

 問題はその後である。

 小次郎にはまだ息があり、それを島に潜んでいた武蔵の弟子たちが撲殺したという『沼田家記』の記述である。私はこの「弟子たちが」という件に違和感を持ったことは先にも述べた。

 原田氏は、弟子ではなくて細川家の家臣数名が撲殺したのではないかという説を延べていて、私は思わず膝を打つほどに納得してしまった。武蔵は弟子達とは風体の異なる者たちをみて、全てを悟ったのかもしれない。

 小次郎の弟子たちの襲撃を避けるべく、武蔵は門司まで逃げ、門司城代の沼田延元に匿われたという。その後、鉄砲隊に警護されながら豊後の新免無二の元に送られたと『沼田家記』に記されている。

 これらの記録は巌流島の戦いの数年後に記されたとされているので、その信憑性はかなり高いだろう。勝者であるはずの武蔵が散々な目に合っていたというのは意外である。

あとがき

 ここまで書いてきて、何故『小倉碑文』や『沼田家記』で、小次郎の名字が記されなかったのかが薄っすらとわかってきたような気がした。

 小倉藩は藩のためとはいえ、剣豪・宮本武蔵まで利用して佐々木小次郎を亡き者にした事実を公にしたくなかったと見える。それに対する忖度が、様々な方面からなされて佐々木姓が闇に葬られたのではないかと私は思っている。

 昨今、様々な説が「陰謀論」として却下される事象が割と起こっている。ひょっとするとその中には、稀ではあるが真実が含まれている可能性がありはしないかと思った次第である。


【主な参考文献】
  • 原田 夢果史『真説宮本武蔵 』(葦書房、1984年)
  • 永岡慶之助『<剣豪と戦国時代>剣に生き剣に死す 上泉信綱 佐々木小次郎』(学研プラス、2015年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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