宮本武蔵の生涯は謎だらけ? 史料からリアルな武蔵像へのアプローチを試みる
- 2024/08/23
実は、現存する史料がそれほど多くないため、実際の武蔵像は極めて曖昧だという。今回は、存在する史料という点をつなぎ合わせてできるだけリアルな武蔵像を描こうと努めた。
新免無二は実父?養父?
武蔵の兵法書である『五輪書』によると、“生国播磨” とある。生年は、その記述から追うと、天正12年(1584)ということになるが、武蔵の養子である宮本伊織方の系図によれば、天正10年(1582)だという。父親が新免無二(しんめん むに)であることは、比較的よく知られていると思われるが、同時代人に当理流(とうりりゅう)を開いた宮本無二がおり、この二人は同一人物であると言われている。
唯一気になるところは、新免無二が「十手術」の使い手であるのに対し、宮本無二は「当理流」の開祖であるという点だ。念のため、当理流の目録を調べると、一刀剣法、二刀剣法等に加え、十手術も含まれていた。特に十手術が得意であったとするなら別段矛盾もないように思える。よって、この記事では「新免無二 = 宮本無二助」として話を進めることにしたい。
ここまで書いてきて、私には早々と意外な感が沸き起こってきている。実は、私は井上雄彦の漫画『バガボンド』にはまった時期があり、武蔵にはそれなりに詳しいと思い込んでいた。
『バガボンド』は吉川英治氏の小説『宮本武蔵』をベースに描かれているらしいことはわかっていた。彼の著書『随筆 宮本武蔵』を読むと、小説『宮本武蔵』にはかなりの脚色が施されていることがわかる。私は迂闊にも、その脚色の大部分も事実だと思い込んでいたのだった。新免無二にしても、武蔵は彼の実子だと思い込んでいたのであるが、養子であったという説もある。
とりあえず、無二と武蔵の生国に注目しよう。
前述の通り、武蔵の『五輪書』には “生国播磨” と記されている。一方、無二の生国は美作国(現在の岡山県東北部、兵庫県佐用郡佐用町の一部)と言われている。
実子説をとれば、無二と美作国新免氏の家老である平田武仁は同一人物であるという。この平田武仁が晩年に播磨(現在の兵庫県南西部)に移り住んで生したのが武蔵というのだ。
これらは『東作誌』等にみられる記述であるが、大きな問題点が1つある。平田武仁は天正8年(1580)に死去しているが、これは武蔵が誕生する前のことであるからだ。この点を鑑みれば、養子説のほうに分があると考えてよいと思う。
ただし、平田武仁の亡くなった年が間違いで、もっと後ということになれば、実子説にも説得力が出て来るだろう。このあたり、新史料の発見を待ちたいところである。
二刀流も父から?
武蔵養子説を取れば、武蔵は播磨の田原家に生まれたが、9歳までに美作の新免家臣・宮本無二の養子となったようだ。その後、無二は戦で手柄を立てたことで新免姓を名乗ることを許されたという。前述の通り、無二は当理流の開祖であり、二刀剣法をも修めていたというから、武蔵が養父・無二から二刀流を学んだ可能性は高いと思われる。
『バガボンド』などでは、宍戸梅軒との死闘の最中に二刀流に開眼するという筋書となっているが、どうも真相は違うようだ。おそらくであるが、武蔵は十手術を始めとする当理流の技術を一通り学んだのではないか。その中でも、特に二刀剣法がしっくりきたと推察する。
そう思う理由は武蔵の身長である。『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、武蔵の身長は約6尺(約180cm)だったとされ、腕力も並外れて強かったらしい。
片手で刀を振るうことなど、彼にとって造作ないことだったに違いない。後に武蔵が二天一流を開き、当理流を継がなかった理由がここにあると私は考えている。
偉丈夫であるだけではなく、武蔵の剣は尋常ならざる速さであったという。武蔵の養子である宮本伊織が承応3年(1654)に建立した小倉碑文には、巌流島の戦いについて次のように記されている。
「岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。」
巌流小次郎を倒した一撃は電光よりも速かったというのだ。
体格・パワー・スピードと三拍子揃っていた武蔵は、それだけでもひとかどの武芸者足り得ただろう。しかし、武蔵を天下無双たらしめたのは「見切り」の極意であったと思われる。
武蔵曰く、「一寸の見切りとは、相手の太刀がまさに当たらんとする一寸のところで体をかわすことである。」
どうやら、武蔵は見切りの達人であったようだ。
彼の逸話に「五分の見切り」がある。これは、額に米粒をつけた状態で相手の太刀筋を見切り、米粒しか斬らせなかったというものだ。私は、この逸話は大いに話を盛りすぎていると思っているが、それ程に武蔵の見切りが凄かったということだろう。
「本位田又八」も「お通」も実在しない?
本位田又八
「本位田又八」は、『バガボンド』では、武蔵の恋人である「お通」とともに幼馴染として登場する。 どちらかというと小狡く立ち回り、あまりパッとしない男のように描かれている又八であるが、よくよく読むと、かつては剣の腕前もかなりのものだったことがわかる。実は、迂闊な私でも又八は架空の人物だろうと思っていた。
小説やドラマでは、大衆やある種の人物群に語らせるために、架空の人物に仮託して描かれることがある。私にとって印象深いのは、1982年の大河ドラマ『峠の群像』であった。
松平健演ずる石野七郎次は赤穂藩の塩田開発に奔走する家臣であったが、前半部の活躍ぶりは大石内蔵助を凌いでいたくらいだ。結果として赤穂の塩は市場を席巻するブランドとなったのであるが、この石野七郎次が架空の人物と知って驚いた記憶がある。
しかし、よくよく考えれば、赤穂の塩のブランド化に成功した家臣たち全体を描いてしまうと、ストーリー展開に締まりが無くなってしまうようにも思えた。まだ若かった私は、“上手い手法があるものだな” と妙に感心したものである。それ以来、小説やドラマで行われる「仮託」に割と敏感になってしまったようだ。
話を元に戻そう。
前述の通り、又八は決して無能な男ではない。智恵も回るし、かつては剣も達者だった。ところが、食べるために情夫に身を落とし、人生が上手く回らなくなってしまったのだ。
我々一般庶民は、ストイックに初志貫徹という厳しい人生に憧れたりもするが、大抵は凡庸なラインに落ち着いてしまうものだ。又八ほどの男でも、そんな人生を送ることは難しいと示すことで、武蔵の狂気を帯びたストイックな人生がいかに尋常ならざるものだったのかを示したかったのではないか。
お通
幼馴染にして恋人のお通にしても、吉川英治氏が創作した架空の人物であるという。もっとも、こちらの方はモデルとなった女性がいるらしい。「小野お通」という女性である。彼女は生年が永禄10年(1568)らしいことはわかっているが、没年は寛永8年(1631)とも、元和2年(1616)とも言われ、定まっていない。
その生涯には謎が多く、出自からして諸説ある。美濃の斉藤道三の家臣・小野正秀の娘だという説や、美作押入下村の岸本彦兵衛の娘だとする説もあるようだ。
九条稙通に和歌を学び、寛永の三筆の一人の近衛信尹に書を習い、和歌・書画に秀でた女性だったことは事実らしい。慶長3年(1598)の醍醐の花見で詠まれた和歌の短冊をまとめた『醍醐花見短籍』に、小野お通の和歌が二首残されていることから、醍醐の花見に参加していたことが確認できる。
この花見に参加するには莫大な衣装代がかかったことから、小野お通がかなりの身分であったことが窺い知れよう。美作押入下村の出である可能性を考えて、お通のモデルにしたものと考えられる。
吉岡一門との死闘の謎
若き武蔵の剣術修行最大の山場は、慶長9年(1604)の吉岡一門との死闘であろう。小倉碑文によると、戦いの経緯はざっくり言うと次のようなものであった。
「まずは、洛外蓮台野にて当主吉岡清十郎と戦い、木刀の一撃で清十郎を破った。
清十郎の傷は回復したが、出家した。その後、五尺の木刀を携えた吉岡伝七郎と戦ったが、武蔵に木刀を奪われ打倒された。伝七郎は絶命した。吉岡の門弟たちは吉岡亦七郎と勝負させると偽り、門下生数百人で武蔵を襲撃する計画を立てた。武蔵はそれに気づいたが、決闘場所である洛外下松に向かい、一人でこれを打ち破った。」
この話を吉川英治は元にして『宮本武蔵』を書いたので、これが定説のようになっているが、これにも諸説ある。
小倉碑文の次に古い貞永元年(1684)成立の『吉岡伝』によると、武蔵は吉岡直綱(清十郎か?)の一撃で額から大出血し、直綱勝利と引き分けという両論がでたという。また、正徳4年(1714)成立の『本朝武芸小伝』では、吉岡方と武蔵が引き分けたことになっている。
ただ、『吉岡伝』には信憑性を大いに失墜させる記述がある。武蔵のことを、松平忠直の家臣にして無敵流を名乗る二刀流の名手とし、北陸奥羽で有名だと紹介しているのだ。
私は、吉岡清十郎との戦いで額に軽い傷を負ったものの、武蔵が勝利したと見立てている。というのも、この戦いの翌年に、武蔵は『兵道鏡』を記していて、その中で自らを「天下一」と称しているからである。
さらに、晩年に書かれた『五輪書』には、「二十一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記されているのだ。
天下の兵法者は吉岡一門のことを指しているというのが定説のようだ。小倉碑文の内容は、かなり話を盛っているところがあると思われるが、勝敗については正確に記しているのではないだろうか。
巌流島の真実
慶長17年(1612)に舟嶋(後の巌流島)で行われたとされる戦いは、武蔵にとってこれまで磨き上げてきた兵法の集大成と言ってよいであろう。 小倉碑文に記されている内容を要約してみよう。
「巌流と名乗る達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ際に、あなたは真剣を使って構わないが、私は木刀を使おうと武蔵は言った。舟島で両者は対峙した。巌流は三尺の真剣を使い奮戦したが、武蔵の余りにも速い木刀の一撃で絶命した。」
かなりあっさりした記述であるが、よく知られた内容と類似している。私が注目しているのは、この試合当時に豊前の門司城代だった沼田延元の子孫が、寛文12(1672)に編集した『沼田家記』だ。豊前は細川氏が治める国であるから、巌流島の戦いに関する記述は一次史料と考えて差支えないだろう。
これも要約すると、
「宮本武蔵が豊前に来て二刀流の師となったが、その前から小次郎が巌流の師となっていた。これら両派の門人たちの諍いが絶えなかったため、武蔵と小次郎は試合をする事となった。結果、小次郎が敗れた。両派とも弟子を連れてこない約束であったのに、武蔵の弟子たちは舟島に潜んでいた。小次郎が蘇生するや、この弟子たちは小次郎を打ち殺した。」
といった、何とも強烈な話であるが、これにはまだ続きがある。
「これを知った小次郎の弟子たちは島に渡り、武蔵に復讐することにした。武蔵は門司まで逃げて沼田延元に匿われ、後に武蔵の親である無二の元に送られた。」
武蔵を匿った沼田延元の記録であるから信憑性は高いと言ってよいであろう。
しかし、ここで疑問が残る。
小次郎の弟子は舟島に上陸しなかったのであるから、武蔵に復讐するため島に渡ったのでは、逃げられてしまうことは明らかである。小次郎の弟子たちが舟島近くの海上にて船に乗って待機していた可能性はないだろうか。
そもそも、互いに弟子を伴わずという約束を双方がしっかり守るとは限らない。武蔵方も小次郎方も互いを疑い、舟島もしくはその近辺に弟子を配置した可能性は0ではないと思われる。
巌流島の戦い以降、武蔵は真剣勝負の世界から遠ざかっていく。大坂の陣(1614~15)や、島原の乱(1637~38)にも参陣しているが、これは自らの兵法が集団戦でも通用するか確認したかったのではないか。
寛永20年(1643)、熊本近郊の金峰山の霊厳洞で『五輪書』の執筆を開始。死の一週間前に完成したと言われる。そして正保2年(1645)5月19日、熊本の千葉城の屋敷で武蔵は没する。享年62と伝わる。
あとがき
実は二天一流では、常に二刀を用いるわけではないという。一刀が適切でない場合は二刀で戦えばよいという柔軟な教えであったようだ。このような戦いの手法があって、その先に見切りという極意が存在するのだろう。私は文章を書く際、どうも書きすぎてしまう傾向があり、書く内容と字数のバランスを見切ることが難しいと思うことが多い。願わくば、修行を重ねて執筆の見切りを会得し、切っ先鋭い文章を書けるようになりたいと思う今日この頃である。
【主な参考文献】
- 魚住孝至 『宮本武蔵 五輪書 わが道を生きる』(NHK出版、2021年)
- 長尾剛『宮本武蔵が語る「五輪書」』(PHP研究所、2008年)
- 秋榴ゆう・宮本武蔵『兵道鏡 円明流伝書 武術の秘伝書コレクション』武術暗器研究会、2022年)
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