丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン
  • 豊臣秀吉
 2019/04/10

「細川忠興」ガラシャの夫は "短気で天下一" というほど苛烈!?

細川忠興の肖像画

細川忠興といえば、父の細川藤孝(幽斎)と並んで文武に秀でた戦国でも屈指の武将として名を馳せています。名門細川家の出身ながら、本能寺の変や関ケ原の戦いに巻き込まれてたびたび危機的な状況を迎える親子の生涯はまさしく波乱に満ちたものでした。

戦国末期という極めて不安定な時代に生を受けた忠興でしたが、結果的に細川家の家名を後世に残したのは彼の最大の功績といっても過言ではなく、大名としては高く評価されています。

しかしその一方で、こうした忠興の功績よりも著名になってしまっているのが、彼の「奇行」ともいうべき変わった行動や言動の数々です。生前から極めて短気なことで知られており、それが原因で妻ガラシャとは衝突を繰り返してしまいました。

そこで、この記事ではそうした「変人」と評価されがちな忠興の姿や教養人としての姿だけでなく、知名度が低くなりがちな「武人」としての姿を中心に、彼の生涯を振り返っていきたいと思います。
(文=とーじん)

若かりし頃は信長の家臣として活躍

忠興は、永禄6年(1563年)に細川藤孝と沼田光兼女との間に生まれました。

この頃、父藤孝は室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、幕臣という立場でした。

永禄の変で将軍義輝が暗殺された後は将軍の弟・義秋(のちの15代将軍足利義昭)の将軍職就任に奔走。永禄11年(1568年)には織田信長の力を借りて上洛を果たし、これを実現します。しかし、信長と義昭がすぐに対立を深めると、藤孝は義昭を見限って信長家臣に…。

このような背景から、忠興は若くして信長の家臣となりますが、史料からは早くから頭角を現していた様子が確認できます。

天正5年(1577年)に初陣を飾っていますが、その同年には藤孝と光秀が担当した松永久秀攻めにも参加。その戦で功を立てており、信長より自筆の感状を与えられています。大将が自筆で感状を与えるというのは名誉なことであり、忠興は信長から高く評価されていたといえるでしょう。

天正6年(1578年)には元服し、信長の息子である織田信忠から偏諱(名を一字譲られること)を受けて忠興を名乗りました。また、この際に信長の命令で光秀の娘明智玉子(細川ガラシャ)を正室に迎え入れました。

その後も父藤孝と行動を共にし、信長の主要な戦である石山本願寺攻めや荒木村重攻めに参加しています。

忠興と信長は年齢こそ離れていますが、信長から「近日上洛するので、顔を見られることを楽しみにしている」という書状が届くなど、良好な関係を築いていたようです。

本能寺の危機を乗り切り秀吉の家臣として厚遇される

ここまで信長家臣として順調に功を立てていた細川親子ですが、天正10年(1582年)の本能寺の変をきっかけに一転して危機的状況に陥ってしまいます。

皆さんご存知のように、本能寺の変を引き起こした首謀者は明智光秀ですが、その娘の玉子(ガラシャ)は忠興の正室です。つまり、細川家は「謀反人と姻戚関係にある」という立場に置かれてしまったのです。さらに、姻戚関係を結んでいることを頼りに、光秀からも救援の要請が届くなど、細川家は家名存続の分岐点を迎えるのです。

ここで親子が取った対応は、光秀との関係を断絶し対立する後継者候補であった羽柴秀吉に味方するというものでした。

本能寺の知らせを受けるや否や、すぐに髷(まげ)を下ろして信長を悼む姿勢を見せるなど、迅速な判断を下します。その後、光秀の救援要請を拒絶し、光秀の従者を明智家へと送り返して絶縁の姿勢を明確にしました。

ただし、肝心の正室玉子(ガラシャ)に対しては、幽閉こそするものの、明智家に送り返して新たな正室を迎えることはしていません。

こうして細川家から拒絶された光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れ、明智家は滅びます。しかし、早くから秀吉に接近していた細川家はその姿勢を秀吉に高く評価され、やがて厚遇されるようになります。

本能寺の変に際し、父藤孝は家督を忠興に譲り、合戦には同行するものの実際には参加しない「隠居武将」というような立場をとるようになります。そのため、秀吉に仕えて以降は、忠興が細川家を代表して秀吉政権下で行なわれた小田原攻めや九州平定など数多くの戦に参加、活躍しています。

また、文化面を政治の場でも重視した秀吉の方針もあり、文人としても戦国屈指の細川親子が彼ら自身の評価を高めるのにも大きく役立ちました。加えて、茶会や歌詠みの場において数々の有力者と交流をもったことが、後世において人脈の面で彼らを有利にしたとも指摘されています。

関ケ原の戦いは忠興とその周囲に多大な影響を与えた

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、後継者の座をめぐって徳川家康石田三成が対立を深めていきます。

忠興は豊臣家臣として功があったいわゆる「豊臣七将」の一員でしたが、早くから家康支持の立場を明確にし、三成の暗殺計画などにも加担しています。しかしながら、当時は敵味方の寝返りが頻発しており、家康から家康自身の暗殺計画に加担していると疑われ、必死の弁明を余儀なくされることもありました。

それでもなんとか家康の信頼を取り戻すと、慶長5年(1600年)、家康が号令を出した会津征伐に参加して会津へと出陣しました。この会津征伐は西軍にとっても予想済みであり、この知らせを聞いた西軍は東軍へと宣戦布告します。そして、これも織り込み済みであった東軍は軍を翻し、西軍との決戦に備えました。

これに際して、三成は東軍方につく諸大名の人質を大坂城に監禁することで、彼らを自陣営に引き入れようとしました。そこで目をつけられたのが、忠興の妻ガラシャでした。

ガラシャは三成の襲撃に遭いますが、忠興の「人質になるくらいならば自害せよ」という言いつけを守り、人質となることなく自害。この知らせを受けた忠興は大いに憤ったとされ、ガラシャを見捨てて逃亡した家臣の稲富祐直を追討しようとさえしたと伝わっています。

さらに、忠興の留守を預かる幽斎と弟の幸隆も西軍の襲撃に遭いますが、幽斎は圧倒的不利な状況ながら徹底抗戦を主張しました。しかしながら、幽斎が文人として現代でいうところの「人間国宝」級の評価を受けていたため、彼の死を恐れた朝廷や天皇の登場で危機を逃れ、やがて開城し講和しています。

こうして細川家そのものはたびたび危機的状況を迎えましたが、忠興の参加した東軍そのものは関ケ原の戦いに大勝し、『細川家文書』の伝えるところによれば忠興も大きな戦功を挙げたとされています。そのため、戦後は恩賞として実に約39万石が与えられています。

戦後は後継者決めや豊前の整備に尽力した

関ケ原は細川家全体に多大な影響を与えましたが、後継者の選定にもその影響が及んでいました。当初忠興の嫡男は長男の忠隆でしたが、彼の妻千世はガラシャと運命を共にせず屋敷から逃走したため、忠興の怒りを買いその影響で忠隆も廃嫡となってしまいました。

また、長男が廃嫡となったことで序列的には次男の興秋が家督を継ぐはずでしたが、関ヶ原の戦いぶりを見た徳川秀忠が三男の忠利に家督を継がせることを忠興に薦めたこともあり、忠興は忠利を嫡男として指名しました。しかしながら、忠利と忠興は対立することもしばしばあり、必ずしも全幅の信頼を寄せていたわけではありませんでした。

このように、戦後の細川家では家督の相続や家臣の行動をめぐって「お家騒動」が頻発しており、父とは異なり忠興の晩年は穏やかとは言い難いものでした。

また、晩年の忠興は新領地の豊前国を整備することに注力しました。豊前への転封は大幅な石高の増加をもたらしましたが、息子忠隆が出した書状には「思ったよりも遠国であった」という記載が確認でき、複雑な心境も顔をのぞかせています。

そして、元和6年(1620年)には家督を忠利に譲り隠居しています。その後寛永9年(1632年)には忠利が肥後国へと転封され54万石の領地を得たことで、忠興は隠居領として9万5千石を得ています。忠興は隠居した立場ではありましたが実権を持ち続け、この隠居地を一つの藩として立藩させることを目論んでいた形跡があります。しかしながら、正保2年(1645年)に忠興が83歳で亡くなったことによりこの計画が実現されることはありませんでした。

忠興の人柄はとにかく振れ幅が激しい

ここまで、忠興の大まかな生涯を振り返ってきました。その中で見えてくることは、非常に優秀で実直な人物でありながら、性格の激しさがいたるところに顔を出してくるという二面性であるように感じます。そこで、ここからは忠興の内包する功罪をそれぞれ見ていきましょう。

武人としては実直で忠義を大切にする

まず、武人としての忠興は戦上手で実直な人物として伝わっており、あくまで逸話ながら『細川家記』では領土や名誉にとらわれない人物であるという描き方がなされています。

また、関ヶ原に出陣する際には、江戸にいた人質の忠利に何度も何度も奉公の重要性を説き、なんとしても秀忠公に同行するよう申し送っています。最終的に同行の許可は出ませんでしたが、忠利の心がけを意気に感じた家康は秀忠の名から偏諱を与えるなど、忠義の厚さには定評がありました。

とにかく短気であることが欠点に尽きる

しかしながら、一方で忠興はとにかく短気であることが玉に瑕でした。家臣らからも「天下で一番気が短い」と評されているほか、同僚から降伏する者を殺さないように諭される一面もありました。

さらに、この気性の激しさは息子や妻などの家族にも容赦なく発揮されました。実際、妻のガラシャもあまりの短気に離婚を検討していたほか、長男忠隆とその妻千世・次男興秋らは忠興の逆鱗に触れ、廃嫡や離縁などの憂き目に遭っています。


【主な参考文献】
  • 米原正義編『細川幽斎・忠興のすべて』新人物往来社、2000年。
  • 安延苑『細川ガラシャ』中央公論新社、2014年。
  • 田端泰子『細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ―』ミネルヴァ書房、2010年。




おすすめの記事




 PAGE TOP