なぜ冬至にゆず湯? 歴史と風習を知り、心も体も「春」へ整える
- 2025/12/22
冬至。それは一年で最も夜が長く、昼が短い日です。「冬至」という響きからは、凛とした冬の冷気と、湯気に包まれたあたたかいお風呂のイメージが同時に浮かんでくるのではないでしょうか。
そもそも冬至はいつから定められ、どのような習わしを経て現代の形へと変化していったのでしょうか。今回は、日本における冬至の歴史と、各地に伝わる風習について紐解いていきます。
そもそも冬至はいつから定められ、どのような習わしを経て現代の形へと変化していったのでしょうか。今回は、日本における冬至の歴史と、各地に伝わる風習について紐解いていきます。
冬至の歴史
冬至は例年12月21日、あるいは22日頃に訪れます。天文学的には、一年のうちで太陽の南中高度が最も低く、日照時間が最短となる日を指します。寒さのピークはもう少し先ですが、夕暮れの早さに冬の深まりを最も実感する時期と言えるでしょう。「冬至」という言葉は、古代中国で考案された「二十四節気(にじゅうしせっき)」に基づいています。これは1年の太陽の黄道上の動きを24等分したものです。古代中国で使われていた太陰暦は、閏月を加えるために実際の季節と年月がズレてしまうため、年月を示す暦とは別に、季節を太陽の動きにあわせて決める必要があったのです。
二十四節気の中でも、冬至・夏至・春分・秋分の4つは「二至二分(にしにぶん)」と呼ばれ、それぞれの季節の分岐点として極めて重要視されてきました。
この太陰暦と二十四節気が日本には7世紀(飛鳥時代)頃に伝来したとされ、明治の改暦を経て太陽暦となった現代でも、季節の指標として深く根付いています。
冬至の習わし
日本では、古くから冬至の日に特別なものを食べたり、神社へお参りしたりするという習わしが行われてきました。これは、冬になって弱まった太陽の光が、冬至の日を越えることで再び強まり、早く春になってほしいという、人々の願いもこめられているように思えます。農作業を営む家が多かった時代において、太陽の力はそれほど大切にされていたとも考えられます。
「と」がつくものを食べる
冬至の日、名前に「と」がつく食べ物を食べると、風邪や中風 (ちゅうぶう/脳卒中などによる麻痺)にならないという言い伝えがあります。「と」がつく食べ物とは、「唐茄子(とうなす)」のこと。唐茄子とはカボチャのことで、主に関東地方で使われていた呼び方だそうです。
実は、カボチャは日本に古くからあった野菜ではなく、16世紀頃(天文もしくは永禄頃/1532~1559年頃)に海外から輸入されたものでした。当時のカボチャはポルトガル語でカボチャをあらわす「アボボラ」から、「ぼうぶら」という名前で呼ばれていましたが、カボチャを運んできた南蛮船がカンボジア経由でやってきたことから、カンボジアがなまって「カボチャ」になったという説があります。
また、他に「と」がつくものとして「豆腐」や「唐辛子」、「ふきのとう」を食べるといった地域もあります。
「ん」がつくものを食べる
冬至には、名前に「ん」がつくものを食べるという風習もあります。代表的な食べ物は「こんにゃく」です。こんにゃくは、一年間で腸にたまった老廃物(煤や砂とも言われる)を取り去るために食べて、お腹の調子をすっきりさせる目的があるとのこと。
なぜ「ん」のつく食べ物か、ということについては、ひらがな五十音の最後が「ん」であることから、冬至をひとつの区切りとして、次の日からまた新たに出発するため、という説があります。
他にも「ん」が二つある食べ物は「運がつく」として、大根・人参・南瓜(なんきん/カボチャ)・レンコン・銀杏・寒天・うどん(うんどん)の七種類の食材を食べると運を高められるという話題もあるようですが、こちらは最近広まった風習のようですね。
「と」がつく食べ物に加えて、こちらにもカボチャが出てきますが、岡山県などでは、「なんきん」は「難を着ない」という験担ぎ(げんかつぎ)の語呂合わせが伝えられている地域もあるとのことです。
ゆず湯に入る
冬至が近くなると、テレビやスーパーなどでもよく見るのは「柚子(ゆず)」。ゆず風呂に入ると風邪をひかない、病気にならない、ひびやあかぎれが切れなくなるといったことは、昔からの習わしとして知っている方も多いかもしれません。
ゆずはとても良い香りで、ゆず風呂に入るとリラックスでき、精油成分は体をあたためて保湿する効果もあります。寒い季節における、人々の知恵がうかがえる習わしですね。
また、ゆずを縁の下に投げ込んだり、かまどの灰に埋めたりすると火事にならないといった風習や、冬至の日にゆずを味噌漬けにして、大晦日もしくは節分の日に食べると良いという風習もあり、ゆずは魔よけや邪気払いなどの効果をもたらすとも考えられていました。
冬至と大師講
冬至の時期に行われる古くからの民間行事として「大師講(だいしこう)」があります。大師講とは、大師(だいし/高僧)をまつるもの。特に、平安時代初期に真言宗を開いた弘法大師空海のことを指すことが多いようです。21日は弘法大師の月命日であり、旧暦11月21日(~23日)の冬至の夜には、大師が各地の家を訪れるとされ、人々は小豆粥(あずきがゆ)やお団子をお供えしていました。
ただ、この冬至に訪れるという「大師」については、弘法大師以外にも、比叡山中興の祖とされる天台宗の高僧・元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)を指す場合や、地方によって「太子様(たいしさま/聖徳太子)」とするところがあります。
また、冬至の頃に、山の神もしくは田の神をまつり、赤飯やお神酒、お餅などを供える地域もあるということです。
これらをまとめると、冬至にカボチャやこんにゃくを食べることは、太陽や自然の力が衰える冬のさなかに、野菜を食べて健康を保つという目的や、神さまをまつる際にお供えとして用意した食事を皆で分けて食べるといった風習から来ていると考えられます。
穴八幡「一陽来復」のお守り
東京都にある穴八幡宮(あなはちまんぐう)では、冬至祭が行われる毎年12月の冬至から翌年2月の節分までの間に頒布される「一陽来復(いちようらいふく)御守」が有名です。「一陽来復」とは、「陰のあとに陽が生まれる」といった意味を持ち、陰の気がきわまる冬至を頂点として、冬至のあとは再び陽の気が育っていく様子を示すものです。
この言葉は、もともと紀元前8世紀頃の古代中国において成立した儒教の経典のひとつ、『易経(えききょう)』から来ています。
『易経』は、当時の政治においても非常に重要視されていた、占いの解釈などを説明するもの。
「一陽来復」は、その占いの解釈に使われています。
古代中国において、冬至は一年のうちで一番太陽の力が弱まる日だと考えられており、冬至を過ぎると日が長くなっていくことから、運気などにおいても「悪いことのあとに良いことが生まれ、万事が滞りなく進む」といった意味でとらえられています。
確かに、冬至の日はすぐ夜が来てしまって、なんだか寂しさも感じられますね。だからこそ、その日を節目として、次第に日の長さが伸びていく兆しとしてとらえる思想が生まれたのかもしれません。
おわりに
日本の季節は、気温や天候などの差はあっても、毎年めぐってくるものです。であれば、やがて訪れる春にかけての期間は、なるべく悪いことが起こらないように願いたいし、元気に過ごしたい…。冬至の歴史とは、冬から春へ無事に季節がうつりかわり、息災に過ごせるよう願う人々の心のいとなみであるように思います。冬至の日にカボチャを買い、ゆず湯を沸かし、温かい食事を囲む。かつての人々が冬至を大切な区切りとしたように、私たちもこの節目を慈しみ、心身を温めながら穏やかに春を待ちたいものです。
【参考文献】
- 谷口貢・他『年中行事の民俗学』(八千代出版 2017年)
- 福田アジオ・他編『日本民俗大辞典 下』(吉川弘文館 2000年)
- 柳田国男『歳時習俗語彙』(民間伝承の会 1939年)
- 安達巌『たべもの伝来史 : 縄文から現代まで』(柴田書店 1975年)
- 山口察常『易の根拠と応用 : 易経全文解釈と占筮』(大東出版社 1937年)
- 坂戸市教育委員会『坂戸市史 民俗史料編 1』(坂戸市 1985年)
- 桂又三郎『岡山県の食習俗 : 岡山県における食習俗調査報告書』(岡山県 1961年)
- 新谷尚紀(監修)『季節の行事と日本のしきたり事典ミニ』(マイナビ出版 2019年)
- 『デコ活HP:「身体の芯まで温まる入浴法」を実践。』
- 板倉町史編さん室『板倉の民俗と絵馬(板倉町史 別巻 8 資料編)』(板倉町史編さん委員会 1983年)
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この記事を書いた人
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。
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