「光る君へ」藤原道長は金峯山寺になぜ参詣したのか?
- 2024/09/09
大河ドラマ「光る君へ」第34回「目覚め」において、藤原道長の金峯山詣での始まりが描かれていました。
金峯山とは、現在の奈良県吉野郡の山上ヶ岳を中心とする山々のこと。役行者が山上にて千日の修行をし、金剛蔵王大権現を感得した場所として有名です。蔵王権現をお祀りした金峯山寺は貴族のみならず、民衆からの信仰も集めました。
紫式部の夫・藤原宣孝が、当時の慣習に反して、派手な出立ちで金峯山詣でを行ったことが『枕草子』(清少納言の随筆)に記されています。道長は金峯山詣でに備えて、寛弘3年(1006)に精進潔斎をする心積もりでしたが、色々な行事の影響で時間がとれないでいました。翌年の閏5月頃からやっと潔斎することができ、8月にいよいよ金峯山詣でを行うことができたのです。午前2時という深夜に邸を立った道長。途中、石清水社や大和国の大安寺にも参詣。8月2日に都を立ち、同月11日に金峯山寺に到着することができました。そして複数のお経を経筒に入れて、金銅の燈楼を立てて、その下に埋納したのです(埋経)。
道長はこの時に備えて、前々から法華経一部を書写していました。それにしても道長はなぜ金峯山寺に参詣したのでしょう。参詣した寛弘4年(1007)は道長が42歳ということで厄除けの意味合いがあったのではとの説があります。しかし、道長はこの時、子守三所にも参詣しているのです。現在、吉野町には吉野水分神社が鎮座していますが、同神社は「子守明神」とも称されています。平安時代中期には子守明神として祀られていたようです。
道長の参詣目的には厄除けや自身の極楽往生祈願もあったでしょうが、子宝を授かることもあったと思うのです。一条天皇の中宮となった娘・彰子に皇子が授かるように、道長は祈念したのではないでしょうか。入内して8年経っても彰子に懐妊の兆しはありませんでした。彰子に皇子が生まれるように道長は祈念したと思われます。
【主要参考文献】
- 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
- 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)
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