大河ドラマ「光る君へ」 紫式部は藤原道長の娘・彰子になぜ仕えることになったのか?
- 2024/09/02
大河ドラマ「光る君へ」第33回は「式部誕生」。
夫・藤原宣孝を亡くした紫式部は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮・彰子に仕えることになります。しかし、式部がいつ彰子に仕えることになったのか、具体的な年は分かりません。『紫式部日記』の寛弘5年=1008年12月29日の箇所には、式部が初めて宮中に出仕した頃の思い出話が記載されています。それによると「12月29日に里(実家)から内裏に参上した」とあり「初めて宮仕に出たのも12月29日の宵のことでした」とあるのです。
その直後には「すっかり宮仕えに馴れてしまって」の一文もありますので、式部が彰子に仕えるようになった月日は「12月29日」ということは分かります。出仕年は「馴れてしまって」の言葉から、寛弘5年(1008年)の前年ではなく、約2・3年前と考えるのが妥当ではないでしょうか。寛弘3年(1006)か寛弘2年(1005)頃に式部は出仕したと思われます。夫の宣孝が死去したのが長保3年(1001)のことですから、それから4・5年経っての宮仕えということになります。
式部は清少納言と比べて、引っ込みがちで内向的な人柄とよく評されます。そのような式部がなぜ宮仕えをすることになったのでしょう。それは時の権力者・藤原道長の要請があったからだと言われています。道長は、式部の父・藤原為時を前から知っていましたし、交流もありました。その為時の娘(紫式部)が素晴らしい才能を持っていると聞いた道長が為時に「娘を女房として出して欲しい」と要請したと考えられています。為時はその要請を断ることはできなかったでしょう。出仕前には、式部は既に『源氏物語』を書き始めていたと推測されています。その数巻によって式部の文才・才能が評判となり、その評判を聞いた道長が出仕の要請をしたというのが、宮仕えに至るまでの大まかな流れになると思われます。
【主要参考文献】
- 清水好子『紫式部』(岩波書店、1973年)
- 今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985年)
- 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
- 紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010年)
- 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄