知れば知るほど奥が深い…「江戸落語」の世界

 現在も根強いファンを持ち愛されている落語。NHKでドラマ化された雲田はるこ『昭和元禄落語心中』や週刊少年ジャンプで連載中の『あかね噺』、佐藤多桂子『しゃべれどもしゃべれども』など、落語をテーマにした作品は枚挙に暇がありません。されどその成り立ちや上方落語との違いは、意外に知られてないのではないでしょうか?

 今回は江戸独自の発展を遂げた江戸落語と、現代に語り継がれる人気の演目をご紹介します。

江戸落語のはじまり 創始者・鹿野武左衛門

 落語家の祖と言われるのは平安時代の説教師。彼らは容姿と話芸に優れた僧侶で、人々を楽しませる様々な噺(はなし。物語のこと)を語りました。清少納言『枕草子』にも登場しています。

 寛永3年(1626)に小瀬甫庵が書いた『甫庵太閤記』では、武将・豊臣秀吉が召し抱えた800人の御伽衆(おとぎしゅう)に言及されています。彼らは主君に乞われ、為になる雑学から笑い話まで、様々な講釈を説きました。御伽衆の1人・安楽庵策伝(あんらくあん さくでん、1554~1642年)は「落とし噺(おとしばなし)」の達人と呼ばれ、選りすぐりの小咄1000本を収録した『醒睡笑』(せいすいしょう)を出しました。

※ 落とし噺

 終わりに、しゃれや語呂合わせなどで、「落ち」を付けて、面白く結ぶ話。

(出典:コトバンク)

安楽庵策伝 像
安楽庵策伝 像

 それから時を経た元禄時代。日蓮宗の僧侶・露の五郎兵衛(つゆの ごろべえ)が還俗し、京都の北野や四条河原、真葛が原などで「辻咄(つじばなし)」を始めます。

※ 辻咄

 町の辻や社寺の境内などで、滑稽な笑い話などを聞かせて銭を得ること。また、その話。

(出典:コトバンク)


 大阪の米沢彦八は神社の境内に「当世仕方物真似」の小屋を掛け、編み笠や湯呑茶碗などの小道具を巧みに用い、大名を演じて人気を博しました。

 両者の台頭と前後し、江戸で頭角を現したのが鹿野武左衛門(しかの ぶざえもん、1649~99)。武左衛門は江戸落語の祖と言われる人物。もとは大阪出身の塗師でしたが、大仰な身振り手振りを交えた「座敷仕方咄」が大当たりし、江戸中の座敷に招かれるようになります。貞享3年(1686)には江戸落語の基礎となる噺本『鹿の巻筆』を出版しました。

『鹿の巻筆 5巻』より(鹿野武左衛門 作、古山師重 画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『鹿の巻筆 5巻』より(鹿野武左衛門 作、古山師重 画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 順風満帆に見えた武左衛門ですが、破滅の足音はすぐそこまで近付いていました。元禄6年(1693)のコレラ蔓延に伴い「南天と梅干の実が特効薬」とデマを広めた疑いで捕まり、大島に流されてしまったのです。

町人の人気を集めた寄席

 武左衛門の島流し以降、江戸の落語ブームは下火になるものの、天明・寛政年間に烏亭焉馬(うてい えんば、1743~1822年)が登場し、再び盛り返しました。

 彼の本職は大工。一方で「鑿釿言墨金」(のみちょうなごんすみかね)と称す狂歌師の顔を持ち、戯作者としても活躍。向島の料亭を借り切り、新作の落とし噺の会を開きました。焉馬主催の落とし噺の会は30年間も続き、料亭の2階は大変盛り上がります。聴衆には5代目市川團十郎や浮世絵師の歌川豊国など、錚々たる顔ぶれが揃っていました。

 寛政3年(1791)には岡本万作(おかもと まんさく)が神田に「寄席(よせ)」(落語や漫談等の古典芸能を上映する大衆的な演芸場のこと。)の看板を出して興行を打ち、大成功を収めています。

 三笑亭可楽(さんしょうてい からく、1777~1833年)こと山生亭花楽も江戸落語の発展に寄与した一人です。彼は客からお代をとり芸を見せる、現在の落語のスタイルを確立しました。文政末期には125軒もの寄席が江戸に犇めき、庶民が気軽に通っていたそうです。

江戸後期の落語会の様子を描いたもの(『春色三題噺 』より。出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ)
江戸後期の落語会の様子を描いたもの(『春色三題噺 』より。出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ)

 文政の落語ブームを支えた初代三遊亭圓生は木戸芸者上がりの噺家。変幻自在の声色を持ち、鳴り物入りの芝居で人気になります。初代林家正蔵は怪談噺(かいだんばなし)の達人で、おどろおどろしい仕掛け人形を操り、「怪談の正藏」の異名をとりました。

 江戸落語と上方落語の違いとしてまず押さえたいのが動作。江戸落語では最低限の小道具しか用いません。扇子と手拭いのみで情感を表現するのが江戸落語の真骨頂でした。

 片や上方落語は派手やかな面白さ重視、扇子と手拭いに加え、見台・小拍子・膝隠しを使うことに抵抗がありません。膝隠しとは膝を崩した状態を隠す布のこと。江戸の噺家には正座が求められましたが、上方では胡坐が許されていました。三味線の伴奏が割り込む「ハメモノ入り」の演目が多いのも、賑やかしが好きな関西人らしいですね。江戸落語は江戸言葉、上方落語は上方言葉(関西弁)なのも大きな違い。

実在の有名人も登場!?今も愛される落語の演目を紹介

 日本テレビの長寿番組『笑点』は政治・芸能・事件・スポーツなど、旬の時事ネタを取り入れています。これは江戸落語も同じで、当時の世相に紐付いた有名人が多数登場しました。

 落語『三方一両損』に登場するのはあの大岡越前守忠相、遠山の金さんのモデルになった名奉行。『三方一両損』では落とし物の財布を巡るトンチキな駆け引きで、大岡裁きを披露しています。

 判官贔屓の江戸っ子たちが大岡越前の活躍に溜飲を下げたのは想像に難くありません。当時の大岡人気は凄まじく、お奉行様が勧善懲悪の裁きを下す大岡政談シリーズが生まれました。『紺屋高尾』には伝説の花魁・高尾太夫が登場。遊郭が舞台の落語は廓噺と呼ばれ、遊女を演じる噺家のたおやかな素振りが見所。初代中村仲蔵も落語に顔を覗かせています。

 落語を彩るのは芸能人に限りません。『城木屋』のヒロイン・お駒のモデルは江戸日本橋の材木問屋、「白子屋」の娘・お熊。落語ではお駒に懸想した下男・丈八の逃避行の顛末が語られますが、実際のお熊は淫乱で浪費家な悪女。金目当てで引き入れた婿養子の夫を疎んじ、下女に殺害を命じるも未遂に終わり、挙句母と共謀していたのがバレて処刑されています。しかも実母公認のもと手代と密通していたというのですから、被害者に同情を禁じえません。

歌舞伎の演目「恋娘昔八丈」のお駒(『五衣色染分 』より。出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ)
歌舞伎の演目「恋娘昔八丈」のお駒(『五衣色染分 』より。出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ)

 余談ながら『城木屋』も大岡政談に連なり、白洲に引き立てられた丈八と大岡越前が珍問答を繰り広げています。

 以上の人気演目をご覧になればわかるように、江戸っ子たちはほろりと泣ける人情噺を好みました。特に支持されたのが長屋が舞台の長屋噺で、夫婦愛や親子愛を軸に話が進みます。片や上方で好まれたのは笑える滑稽噺。怖い話を語る怪談噺、お芝居仕立ての芝居噺からも数々の名作が生まれています。

おわりに

 以上、江戸落語の成り立ちと人気演目を紹介しました。小道具を活用する上方落語に比べ、扇子と手拭いだけで演技する江戸落語は随分ストイックに感じますね。実在の人物や事件がモデルの落語も多く、生で聞いてみたくなりました。


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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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