大坂冬の陣勃発!豊臣家に集まった牢人たちの群像

大阪城内での軍評定の場面(『少年講談塙団右衛門』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
大阪城内での軍評定の場面(『少年講談塙団右衛門』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

牢人が多数あらわれた時代

 戦国時代は数多くの戦争が繰り広げられ、その度に敗れた大名から牢人を生み出すことになった。しかし、当時は戦乱の世だったので、すぐに新しい主人に仕える者も珍しくなかった。

 たとえば、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、主人を失った武田氏の家臣は徳川家康らに召し抱えられた。家康は彼らを井伊直政に預けると、井伊家は武田氏旧臣で構成された「赤備え」で知られるようになった。

 天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると、戦乱の世が終わり、牢人受難の時代がはじまった。平和な時代になったので、大名は新たに牢人を召し抱えることを止めたのである。豊臣秀吉は政策として、牢人に農民などへの転身を求め、そうでなければ村や町に住むことを許さなかった。

 慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦が勃発すると、牢人は日雇いとして大名に仕えた。少ない兵を補うためである。戦後、敗北した西軍の諸大名からは、さらに大勢の牢人が生まれた。彼らは仕官先もなく、存在自体が社会問題となり、中には仕官先を求めて各地を流浪する者もいた。

豊臣方に集まった牢人たち

 そんな牢人が注目されたのは、慶長19年(1614)に開戦した大坂冬の陣である。徳川方にすべての大名が味方する一方で、豊臣方に与する大名はいなかった。そこで、豊臣方は牢人に目を付けて、乏しい兵力を補充しようと考えた。

 豊臣家は真田信繁ら名のある牢人に対し、莫大な恩賞(一国を与えるなど)を提示してリクルートした。名も無き牢人に対しては、その場で金や銀を配り、当座の資金を給与した。普通、恩賞は戦後に活躍に応じて与えられたのだから、破格の条件である。

 こうして豊臣方には、10万とも15万ともいわれる牢人が集結した。集まった牢人たちに豊臣家への忠誠心があったのか不明であるが、豊臣家は十分な兵力を確保できたのだから、目的を達成したのである。

 豊臣方に与した牢人は、有名な真田信繁をはじめ多士済々だった。信繁は昌幸の次男であり、関ヶ原合戦では父とともに上田城に籠城し、西軍に味方するも敗北した。戦後、信繁は父とともに紀州九度山に蟄居を命じられ、貧困に喘ぐ生活を送っていたという。

大名・重臣クラスの牢人

 大名クラスでは、土佐を領していた長宗我部盛親が有名である。関ヶ原合戦で敗れた盛親は、改易となって京都に居を移した。上洛した盛親は寺子屋を開いて生活費を稼ぐ一方で、家康に赦免を乞うた。しかし、盛親の願いは通じず、大名復帰はならなかった。

長宗我部盛親
長宗我部盛親

 毛利勝永は豊前小倉の大名だったが、関ヶ原合戦で西軍に属し、戦後は改易となった。勝永は土佐の山内一豊の預かりとなり、平穏な生活を送っていた。大坂冬の陣が近づくと、勝永は秀頼からの出陣命令を受け、大坂城に入ったのである。

 大名の重臣クラスでは、後藤又兵衛が豊臣方に与した。又兵衛は黒田長政の重臣だったが、仲違いして黒田家を出奔する。激怒した長政は、又兵衛を召し抱えないよう諸大名に連絡し、仕官できないよう妨害したのである。

後藤又兵衛
後藤又兵衛

 キリシタン武将の明石掃部は、宇喜多秀家の重臣だった。関ヶ原合戦後、西軍に属した宇喜多氏は敗北。掃部の行方も知れなくなった。大坂冬の陣の際、秀頼は海外勢力の助力を得るため、戦後のキリスト教布教を認めた。そこで、掃部はキリシタン牢人を集め、大坂城に入ったのである。

多士済々な牢人たち

 塙直之も次々と主人を変え、世渡りした牢人である。主人の加藤嘉明から奉公構(仕官活動の妨害)をされ、各地を転々とした。一時は出家したこともあったというが、大坂冬の陣では豊臣方に与したのである。

塙直之
塙直之

 薄田兼相は小早川隆景に仕えていたが、隆景の死後は牢人になったといわれている。しかし、実際には豊臣家に仕官していたことが明らかとなり、その流れでそのまま豊臣方の陣営で戦うことになった。なお、兼相が諸国で武者修行したという話は、史実とは認めがたいと指摘されている。

 このほか、豊臣方には石川康勝、大谷吉治、南条元忠、仙石秀範、細川興秋など、多彩な経歴を持つ牢人が集まった。彼らは大名への復帰、あるいは大名への仕官を目指して、命懸けで戦うことになる。

敗北した牢人たち

 大坂冬の陣後、豊臣家と徳川家は和睦を結んだ。その際、徳川家は大坂城から牢人を退去させるよう、豊臣家に要求した。しかし、大坂城から牢人が退去する様子が見られず、逆に集まる様相を呈していた。豊臣家には、徳川家への徹底抗戦を主張する家臣がいたのである。

 慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣が開戦したが、大坂城は和睦の条件で堀などを埋め立てられており、裸城になっていた。もはや豊臣家は、大坂冬の陣のように籠城戦が不可能になっていたのである。

家康を最後まで追い詰めた真田幸村(『日本武将物語』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
家康を最後まで追い詰めた真田幸村(『日本武将物語』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 結果、大坂城は落城し、豊臣家は滅亡した。牢人衆は信繁や又兵衛のように戦死した者が多く、掃部のように行方知れずになった者もいた。戦後、江戸幕府は執拗な牢人狩りを行ったので、彼ら牢人の居場所はなくなったのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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