幕末の脱藩大名・林忠崇の数奇な一生 脱藩してまで徳川のために働こうとしたが…
- 2025/01/15
幕末のころ、国中が佐幕だ勤皇だと沸き立ち、日本は政治の季節を迎えていました。己の信念に従って行動するために坂本龍馬をはじめ、吉田寅次郎や高杉晋作、中岡慎太郎など、脱藩を決行した者は何人もいます。しかし藩主自ら藩士を引き連れての脱藩はこの人ぐらいでしょう。請西藩(じょうざいはん)藩主、林忠崇(はやし ただたか)のことです。
請西藩主・林忠崇
上総国請西藩は現在の千葉県中央部に位置する一万石の小さな藩です。幕末にこの藩の藩主だったのが林忠崇でした。小藩ではありましたが、忠崇は宝蔵院流の達人として聞こえた伊能一雲斎に槍や剣を学び、和歌も詠みと文武両道の若者でした。二十歳にして江戸城菊の間詰めの譜代大名として登城もしています。世は勤皇・佐幕と騒がしいころ、慶応3年(1867)10月14日には徳川慶喜が二条城で大政奉還を明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇の勅許が降り、政権は徳川家の手を離れます。これを受けた朝廷側の動きは素早く、同日中に10万石以上の大名に上京を促し、10月21日には1万石以上の大名も京へ呼び寄せる事にしました。
しかし事の急変に「はい、そうですか」とはいかない大名たち。まずいくつかの大藩の大名が、
「官位は朝廷より頂いたものだが、知行は徳川家から頂いている」
として、朝廷からの召命には従えぬとの文書を差し出します。続いて忠崇たち中小の大名も、上京断りの文書を出しました。
「我々がこんにちあるのも全て徳川家のお陰、政権が奉還されたのも将軍家の英断によるものではないか。我々は今後も徳川家を主君と仰ぐ」
現れた遊撃隊
そのころ、京の二条城にいた慶喜が兵を引き連れて大坂城へ移ります。忠崇も少数と言えども兵を引き連れてこれに合流せんと画策しますが、船の手配や天候に邪魔されてもたもたしているうちに、慶応4年(1868)1月3日には鳥羽伏見の戦いが始まります。幕府軍はあっさり敗退、これにも間に合わなかった忠崇は歯噛みするばかりでしたが、そのうち慶喜まで江戸へ戻ってきてしまいました。このように徳川に心を寄せる忠崇の前に現れたのが、佐幕派諸隊 “遊撃隊” です。中核を構成する隊士たちは幕府講武所で武芸を修めた旗本御家人たちと、草莽諸隊の中ではエリート部隊です。
遊撃隊は鳥羽伏見の戦いに参戦、敗れたのちは隊を去る者や慶喜を警護して水戸へ赴く者など居ましたが、「まだ戦う」との意気を持った者が結成したのが “徳川(とくせん)遊撃隊” です。その中心にいたのが第一軍隊長の人見勝太郎と第二軍隊長の伊庭八郎でした。彼らは同盟者を求めており、徳川家に心を寄せる忠崇の噂を聞いて部隊を率いて木更津に現れます。
一方、何とか徳川のために働きたいと思っていた忠崇、一時は幕臣・福田八郎右衛門が率いる“撤兵隊”と手を組もうと思っていましたが、その隊員の乱暴狼藉振りにこれを断念、そこへ現れたのが “遊撃隊” でした。
“撤兵隊”で懲りている忠崇は、今度は慎重に見極めようと4月28日、伊庭・人見両名を陣屋に招いて会見します。忠崇の感想は
「遊撃隊の両氏を見るに剛柔相兼ね威徳並行の人物なり。隊下の兵士はよく命令に従い、いずれも真の忠義者なり」
と手放しで褒めています。
安心した忠崇は「ここに至りて固く約して同心す」と話は進み、3人はいつしか隊士募集の方法やこれからの戦略まで前のめりで語り始めるのです。
藩主脱藩
忠崇が“遊撃隊”と同盟したのは良いのですが、なんとここで脱藩して参加することを決めてしまいます。徳川家のために働くのですから藩主のままでも良いと思うのですが、忠崇の考えは違いました。これは忠崇が晩年になって答えているのですが、
忠崇:「脱藩せずに新政府相手に戦えば、慶喜公と申し合わせての行動と取られるかもしれない。脱藩すれば徳川家と縁のない浮浪人だから、誰の命令も受けないし誰の迷惑にもならない」
続けてこうも言っています。
忠崇:「慶喜公は財産を捨て政権を捨てて将軍職を辞した。それをなお朝敵として討伐する新政府の行動が自分にはわからない、だから脱藩してまで戦った。自分が世間知らずのお坊っちゃんだったのかもしれないが、一万石の青二才でさえ発奮してやるのだから大藩はより力を入れると思った」
そして忠崇は自分の志を藩士たちに打ち明け、共に行動する者を募ります。もちろん藩主のこの仰天の行動を諫めようとする者もいましたが、説得できないことがわかると同行する事にします。
出立
慶応4年(1868)閏月4月3日明け六ツ、忠崇と主君に従った藩士65人は、“遊撃隊”と共に真武根陣屋(まぶねじんや)から出立します。1万石の藩ですから藩士は70人余りでしょう、ほぼ藩主・藩士を挙げての脱藩です。その時に撮影された忠崇の写真が残っています(冒頭のアイキャッチ画像参照)。その出で立ちは兜・鎧は身に付けず陣笠を手に、額には幅広の鉢巻きを締め、長袖の陣羽織を羽織り明るい色の袴を身に付けています。
表門が開かれ、大砲一門が引き出されて一発轟音が響きます。これを合図に行軍しますが、庶民は土下座して見送りました。竜馬たちの脱藩とは違って堂々としたものです。
この後、彼らは幕府海軍の支援で館山から相模湾を渡り、箱根戦争や小田原戦争に参戦、奥羽越列藩同盟加盟を目指して奥州へ道を取りますが、すでに同盟は事実上瓦解していました。なおも忠崇たちは榎本武揚らの船で蝦夷地へ渡ろうとしますが、徳川宗家が存続を許されたとの知らせに接し、これで戦いに加わった名分は果たされたとして明治政府に恭順します。一行は20人になっていました。
その後の忠崇
藩主自らが脱藩してしまったので、明治政府はこれを新政府に対する反逆として改易処分に処します。林家は最後の改易大名となりました。その後、林家の家名は復興を認められましたが、忠崇は改易された者として華族に列せられることもなく、旧領に戻ったり北海道に渡ったりして困窮の日々を過ごします。明治26年(1893)、甥の忠弘が男爵位を授けられたのに伴い、忠崇も自身の爵位は無いものの、“無爵華族” つまり華族の家族の扱いを受けられるようになりました。
昭和12年(1937)に旧広島藩主浅野長勲(ながこと)が亡くなってからは、最後に残った元大名となります。晩年は次女ミツと暮らし、昭和16年(1941)1月22日、94歳で亡くなりました。
おわりに
長生きした忠崇ですが、昭和12年(1937)1月15日、長寿を祝して宮中に招かれ、銀杯や絹一匹を下賜されます。その絹布で黒紋付を仕立てた姿が写真に残っていますが、とても90歳とは思えぬかくしゃくとした姿です。最晩年になり、最後の大名として知られた忠崇の元に新聞記者がやって来て問います。
新聞記者:「脱藩当時の事を思うと如何なる感想が浮かびますか?」
忠崇は俳句で答えました。
忠崇:「琴となり下駄となるのも桐の運」
【主な参考文献】
- 河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社、2020年)
- 『新歴史群像シリーズ 幕末諸隊録』(学研、2008年)
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