「山内一豊」決して内助の功頼みの武将ではない!? リアルな一豊像とは

山内一豊像 妙心寺大通院蔵(『陸軍特別大演習記念特別展観図録』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
山内一豊像 妙心寺大通院蔵(『陸軍特別大演習記念特別展観図録』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 山内一豊と言えば、平凡ながら妻・千代の内助の功で土佐一国の主まで上り詰めたという武将としてドラマ等でもよく知られている。ところが調べると、平凡どころか、かなりの実力を備えた武将であることがわかる。

 果たしてリアルな山内一豊とはどのような人物だったのであろうか。

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 『 一豊公御武功御伝記』等の史料によれば、 山内一豊は天文14年(1545)、山内盛豊の三男として尾張羽栗郡黒田に生を受けたとされる。ところが、江戸時代に土佐山内氏が幕府に提出した家譜には天文15年(1546)生年と記されている。

 土佐藩が一豊の生年をこのように判断した理由ははっきりしない。ちなみに一豊の兄の1人が夭折したため二男と記している史料も多いと聞く。土佐山内氏は幕府に家譜を提出する際、藤原秀郷の子孫・首藤山内氏の末裔だとしているが、この系図が載っている『寛永諸家系図伝』には微妙な記述が残されているのだという。

 藤原秀郷から7代下り、資清が出て首藤を称し、その曽孫の俊通が相模山内荘に住んだことから山内を名乗るようになったらしい。問題は、俊通の孫の経俊の後である。

「 此ののちひさしく断絶。系図紛失す」

 上記のように記されており、そこからいきなり一豊の7代前の貞通に飛び、系図を続けているというのだ。

 明らかに不自然なこの系図の記述は何を意味するのであろうか。歴史学者の小和田哲男氏によると、前出の俊通の後に系図が続いており、山内首藤氏として最終的には毛利に従ったことが『山内首藤家文書』に記されているのだそうだ。

 この2つの山内が別系統であろうことは、複数の史料から推定できる。

 例えば、『寛政重修諸家譜』では、土佐藩山内家が「やまうち」と記述されているし、『 山内家御手許文書』にある淀殿侍女大蔵局書状の宛名も「 やまうちつしま 殿」となっていることが確認できる。

 一方、山内首藤家のほうは「やまのうち」と読むのである。

 私を含め、ほとんどの人が、山内一豊は「やまのうちかずとよ」と読むと思い込んでいたと思うが、どうやら「やまうち」だったようだ。

 ところで、これについて興味深い話が残されている。江戸時代に土佐山内氏へ毛利氏からの使者が立てられることとなり、何と首藤山内氏がその任にあたることになったという。土佐藩に入った首藤山内氏は、土佐山内氏の家紋が首藤山内氏のものと同じであることを見つけ、少々揉めたというのだ。

 少々気になり、両家の家紋を調べると、首藤山内氏の家紋は白一黒一紋(しろいちくろいちもん)であり、一方の土佐山内氏の家紋は丸三葉柏紋(まるにみつばかしわもん)であるから本紋は異なっている。

首藤山内氏の家紋「白一黒一紋」
首藤山内氏の家紋「白一黒一紋」
土佐山内氏の家紋「丸三葉柏紋」
土佐山内氏の家紋「丸三葉柏紋」

 しかし、土佐山内氏には複数の替紋が存在し、その中に白一黒一紋(しろいちくろいちもん)があったことが問題の発端となったようだ。

 どうやら、土佐藩山内氏が藤原秀郷流だというのはかなり怪しいが、祖父・久豊、父・盛豊、そして一豊という流れは信憑性が高いと思われる。

秀吉の家人

 一豊の父である盛豊が尾張守護代・岩倉織田氏の家老であったことは、複数の史料に記述があるので、事実と考えて差し支えあるまい。盛豊は黒田城(愛知県一宮市木曽川町)を任されていたようだ。

 一豊は岩倉城(愛知県岩倉市下本町)で生まれたというのが定説となっているようであるが、『尾張名所図会』など、黒田城で生まれたとする史料も存在する。実はこの頃、一豊のいる岩倉織田家と織田信長のいる清須織田家は2つの守護代家として並立していた。

2つの守護代家が並立していたが、のちに岩倉織田氏は勢力を失う。
2つの守護代家が並立していたが、のちに岩倉織田氏は勢力を失う。

 当初は岩倉織田家が主流とされていたから、その家老であった山内家のほうが格が上だったかもしれない。しかし、清須織田家の三奉行の一人であった織田信秀が台頭してくると、その勢力は主家である清須織田家をも圧倒し始めた。信秀は津島湊を支配下におき、水運による経済力を背景に、主家を呑み込んでしまったのである。

 岩倉織田氏をも併合しようと目論んでいた矢先、信秀は天文20年(1551)に流行病で急死してしまうが、天文23年(1554)7月には、後継の信長に絶好の機会が訪れる。清須城の守護代・織田信友が尾張守護・斯波義統を暗殺する事件が起こり、義統の子・義銀は逃亡して信長を頼ってきたのである。

 こうして大義名分を得た信長は、翌年(1555)に清須城の信友を討ちとって清須織田氏を滅ぼし、清須城を居城とした。この後、信長は岩倉織田氏を攻略する機会を窺っていたはずである。そんな折、信長の弟・信行が岩倉織田氏の当主・織田信安と結び、謀反を起こす事態が勃発。この謀反は失敗に終わるが、懲りない信行は弘治3年(1557)にも信安の後継の信賢とはかって再び謀反を起こした。

 この最中の弘治3年(1557)7月12日、一豊らの住む黒田城が夜襲に合い、二男の十郎が討死し、一豊と母らはかろうじて城を脱出するという事件が起こる。どの手勢による夜襲なのか、今もってはっきりしないが信長の手勢ではないかという説もあると言う。

 ここから、一豊の苦難の道が始まる。

 永禄2年(1559)には、信長の攻撃で岩倉城が落城し、父・盛豊は討死もしくは自害したようだ。これにより、一豊は母や弟妹とともに各地を流浪することとなる。一豊らは、必死であらゆるつてを頼って生き延びたであろうことは想像に難くない。

 苅安賀城(愛知県一宮市大和町苅安賀)城主・浅井新八郎を皮切りに、松倉城(岐阜県各務原市)城主・前野長康らに仕え、近江国勢多城(滋賀県大津市瀬田)城主・山岡景隆に仕えた。

 この山岡景隆が信長に従ったことから一豊も信長に仕えるようになったと思われる。その後、景隆が信長に逆らい出奔したことで、信長の配下に入った一豊は秀吉の家人となったようだ。永禄11年(1568)頃のことだという。

一豊の武功

 一豊の初陣は、元亀元年(1570)9月の姉川の戦いだとされているが、不思議なことに諸々の史料に記載がないのだという。初陣では目立った働きができなかったのかもしれない。

 続く天正元年(1573)8月の刀根坂の戦いで一豊は凄まじい働きを見せている。『一豊公記』によれば、織田勢が朝倉勢を追って刀根坂で追いついた際、一豊は三段崎勘右衛門という武将と対峙した。

 三段崎勘右衛門は朝倉家で有数の剛の者として知られており、弓の名手でもあった。戦いの最中、三段崎の放った矢が一豊の頬に刺さったが、構わず組み伏せたというからものすごい。ただ、重傷を負った身では自力で首を取れず、味方の大塩金右衛門が駆けつけ、やっとのことで首級を挙げたのである。

 この後間もなく、信長は浅井長政勢の籠る小谷城を包囲して総攻撃を開始。天正元年(1573)8月28日、長政の父・久政が自害。そして9月1日長政自身も自害し、近江浅井氏は滅亡した。この一連の合戦での最大の功労者は、誰がどう見ても秀吉であり、信長は秀吉に浅井長政の領地であった北近江三郡12万石と小谷城を与えている。

 ちなみに織田家中で一国一城の主となったのは明智光秀に続いて2番目であった。この秀吉の大出世は一豊にも大きな恩恵をもたらした。一豊は近江国浅井郡唐国で400石を与えられたのである。

 この時期、秀吉の与力であった浅野長政や堀尾吉晴らは一豊とほぼ同時代人であるが、天正元年時点での石高を調べると興味深い。長政は120石、吉晴は110石与えられたとあるから、一豊の400石が如何に破格かがわかる。

 一豊はその後も順調に武功を挙げ、本能寺の変の頃には2500石の知行を得ていたという。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも、伊勢亀山城攻めで一番乗りの手柄をあげ、翌天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの頃には長浜5000石を拝領していたようだ。

一豊の ”人となり”

 実はここまで「石高」に注目して書いているのには訳がある。このころから、一豊の石高の伸びが明らかに鈍化しているからだ。特に、天正10年(1585)に秀吉の甥で後継者候補である秀次の宿老に任じられてからは、その傾向が顕著になったような気がするのである。

1585年、一豊は長浜城主となった
1585年、一豊は長浜城主となった

 このとき宿老となったのは、一豊の他に4人いるが、石高が一番低いのが近江長浜2万石の一豊で、一番高いのが近江水口6万石の中村一氏であった。それぞれの働きを比較しても一豊が特に劣っていたというわけではないと思われる。

 私は一豊の性格がその一因だと睨んでいる。『一豊公御伝記』では、その人となりについて、

「身体は太り過ぎで、目が少し赤く、志は広く、性質は温和で、自分のことは語らず、諸士に対して情け深く、礼儀正しく会釈をし、遊学を事とせず、部下を愛し、常に言葉は和やかで、口数は少ない。しかし戦場では多弁になり、大声で叱咤し、言葉もはっきりしている。平常食事をする時、箸先をつけられるが、まことに上品である。酒は盃に二、三杯を限度として、茶の湯や能はわずかにもて玩ぶ程度である。」

と評している。

 このような人となりは素晴らしいが、秀吉とはあまり合いそうにない。少なくとも、自己アピール力に欠ける武将であったのではないか。そしてこれは私の推測であるが、天下人となった秀吉の性格の変化を敏感に察知し、微妙に距離を取りはじめた可能性はないだろうか。秀吉もそれを感じ取り、その結果が石高に反映されたのかもしれない。

 これに関して興味深い記述が残されている。

 『駒井日記』によると、文禄3年(1594)2月17日、秀吉は一豊を折檻し、朝鮮攻めに参陣するように命じたという。何故かこの命令はすぐに撤回され、他の秀次付の宿老同様に、朝鮮への出兵を免れている。この折檻の原因は何であったのかは書かれておらず、はっきりとしないが、翌年に秀次事件が起こったことを考えると、秀次と新たに生まれた秀吉の嫡子・秀頼のことだったのかもしれない。

 秀吉が当時関白となっていた秀次を廃して、秀頼を後継にするのはどうか、と話を持ちかけたとすると、実直な一豊はこのように答えた可能性はあるだろう。

「秀次様が退位なさった後になさるのが筋でございましょう」

 秀次事件の際、一豊は秀吉の命令を忠実に遂行したお陰で処罰を免れているが、それは秀吉のヤバさに辟易した結果ではないかと私は考えている。

土佐20万石

 秀吉の死後、一豊は徳川家康に急接近する。

 慶長5年(1600)5月、家康が会津の上杉討伐に動くと、中村一氏や堀尾吉晴らは中止するように求めたが、一豊は討伐に協力的だったことからも家康支持のスタンスが窺えよう。そしてもう1つ、一豊には家康につくことで石高を増やしたいという野望があったと私は考えている。

 秀吉が亡くなった時点で、一豊の所領は掛川5万8000石ほどであり、中村一氏や堀尾吉晴らの十数万石からするとかなり水をあけられた格好となっていた。おそらく、一豊はこれを内心かなり気にかけていたのではないか。

 そんな中、家康と共に上杉討伐に向かう途中に石田三成が挙兵。家康は下野国小山で軍議を開いた。いわゆる「小山評定」である。

 この評定には豊臣恩顧の大名も含まれていてその去就がこの戦の勝敗を決するといっても過言ではなかった。諸将が迷う中、一豊が居城の掛川城を家康に提供すると申し出た事がきっかけで、他の諸将も家康になびく結果となったのである。

 『藩翰譜』によれば、これは堀尾忠氏の発案だったものを、自分の案として申し出たという。ただ、新井白石によって著された『藩翰譜』はいわゆる後日談をまとめたもので信憑性に欠けるという意見もある。ひょっとすると、忠氏の意見が内心自分の考えと同じだったため自信を得て小山評定に望んだのかもしれない。

 この発言が関ヶ原本戦での活躍よりも評価され、土佐9万8000石を拝領する。必死の自己アピールが身を結んだと言えよう。さらに、後に石直しによって20万2800石が認められているところからも石高への野望が感じ取れるのではないか。

 土佐では当初浦戸城に入城するが、新たな居城として高知城を築城し城下町の整備を行っている。長宗我部氏の旧領であったため、当初は領民の反発も多かったが懐柔策と強硬策を織り交ぜて徐々に統治が軌道に乗っていったようだ。

 慶長10年(1605)、一豊は高知城で没する。享年61と伝わる。

高知城にある山内一豊の騎馬像
高知城にある山内一豊の騎馬像

あとがき

 山内一豊は決して凡庸な武将ではないことが、執筆を通じて実感できた。そもそも、流浪の生活に落ちてからの這い上がり人生であるのだからハンデ有りすぎである。武勇に優れ、実務にも長けていないと頭角を表すことすら出来なかったであろう。

 今に例えるなら、中卒でほぼホームレスの人間が、とある会社に拾われ、転職を経て大企業の支店長に上り詰めたというところか。少なくとも私には、そんな離れ業はやってのけられそうにない。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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