【滋賀県】長浜城の歴史 信長家臣時代に築城した、秀吉初の自分の持ち城!

 「一国一城の主」という言葉があるように、戦国武将にとって「城持ち」になることはひとつの大きなステータスでありました。一兵卒から身を興して天下人となった希代の武将・豊臣秀吉にしてもそれは同じことで、その初めての城は近江長浜に築かれました。

 今回はそんな、「長浜城」の歴史を概観してみることにしましょう!

長浜城とは

 長浜城は現在の滋賀県長浜市公園町に所在した平城で、かつては今浜城と呼ばれていました。正確な築城年代は定かではありませんが、本来は京極氏の勢力下におかれた城でした。

近江長浜城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 文亀元年(1501)、家中の内紛から京極高清を京極材宗が攻撃する事件が起きますが、この作戦は成功しませんでした。

 大永3年(1523)には京極高清・上坂家信らが立て籠もる今浜城を、浅井氏・三田村氏ら「牢人衆」が攻撃し敗走させています。このことからも、徐々に京極氏が弱体化し代わって浅井氏が台頭してきた様子がうかがえます。当時の長浜をふくむ北近江の権益は、以降半世紀ほどにわたって浅井氏が掌握することになります。

 しかし、織田信長による元亀元年(1570)の越前朝倉攻めを皮切りに浅井氏も攻撃対象となり、天正元年(1573)にはついに本城の小谷城が陥落し、浅井氏は滅亡します。

 その旧領を拝領したのが秀吉で、北近江と小谷城などを手にしますが領内統治の目的もあり、天正2年(1574)頃には山岳の要塞である小谷城に代わり、今浜での新城建設に着手しました。

 これが長浜城のことで、天正3年(1575)10月頃から翌春頃までの間に完成したと考えられ、秀吉の移転にともない、今浜を長浜と改めています。

 天正9年(1581)には荒木村重討伐や越前の一向宗制圧などに功のあった堀秀政が長浜城主に着任。翌年には本能寺の変後、柴田勝家が当地を領有し、甥の柴田勝豊が長浜城将となりますが、同年に秀吉の攻撃を受けて降伏、開城することになります。

 天正13年(1585)に城主となったのが山内一豊でしたが、同年11月の天正地震で城が全壊したと伝わっています。

 慶長11年(1606)には徳川家康の異母弟である内藤信成が城主となり、やがて息子の内藤信正もその座につきます。しかし元和元年(1615)に信正が摂津へと移封されると、廃城になったと考えられています。

長浜城は徹底的な破却を受けたとされており、その構造は詳らかになっていません。しかし建造物の大部分が彦根城建築のために使用されたと考えられ、周辺寺院などにも旧長浜城から移設したとされる設備が残されています。

 また、湖岸に沿って高石垣が築かれた、水運の利を有効活用した水城としての機能ももっていたことが推定されています。天守のすぐ近くには舟の発着場が設けられていた可能性が指摘されており、そこには米蔵地など物資の集積場も併設されていました。

 このように長浜城では、水運による経済発展を念頭に置いた縄張りをうかがうことができます。

要塞としての山城から、政庁としての平城へ

 難攻不落を誇り、織田軍の攻撃をおよそ3年にもわたって迎え撃った浅井氏本城の小谷城でしたが、秀吉の統治下では長浜の地に拠点を設けるという選択がとられました。

 これは有事の戦闘をメインとした山城から、平時の政庁機能を主眼においた平城への大きな転換のひとつと考えられます。

 特に琵琶湖の水運・舟運という流通の利便性に着目し、経済活性化を企図した町づくりを推進したことは特筆に値します。

 山城の中にはすでに政庁機能を兼ね備えるものもありましたが、秀吉の長浜城はその先の経済発展を見据えた都市計画の一環であったといってもよいでしょう。

 長浜城建築にあたって秀吉は、北近江三郡の各郷村から日付を変えて一日ずつの家並の普請役、つまり建設労働力の徴発を行いました。

 これはいかなる身分に関わらず道具持参で参加する命令であり、幅広い地元住民自らが新都市建設に関わることとなりました。

おわりに

 秀吉が初めて持った自分の城である長浜城。その設計思想には、すでに都市全体の経済発展を視野に入れた計画性をうかがうことができます。

 一兵卒から立身して城持ち大名となった秀吉は、どんな感慨をもって長浜城からの景色を眺めたのでしょうか。

補足:長浜城の略年表

※参考:略年表
文亀元年
(1501年)
今浜城(原・長浜城)の京極高清を、京極材宗が攻撃するが失敗
大永3年
(1523年)
浅井氏・三田村氏ら「牢人衆」が今浜城を攻撃。京極高清・上坂家信らは敗走
天正元年
(1573年)
浅井氏の滅亡により、旧領の湖北地方と小谷城を羽柴秀吉が拝領
天正2年頃
(1574年)
今浜の地に築城開始
天正3年頃
(1575年)
新城完成、秀吉が移転し、長浜と改名(同年10月以降、翌年春頃までの間と推定)
天正9年
(1581年)
荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功などにより、堀秀政が長浜城主に
天正10年
(1582年)
本能寺の変後、柴田勝家が長浜を領有。甥の柴田勝豊が城将となるが、同年に秀吉に攻められ降伏・開城
天正13年
(1585年)
山内一豊が長浜城主に。同13年11月の天正地震で城が全壊
慶長11年
(1606年)
徳川家康譜代の内藤信成が城主に
元和元年
(1615年)
信成の長男・内藤信正が摂津に移封、以降長浜城は廃城に


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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