【高知県】高知城の歴史 優美で古風な姿が魅力的な名城
- 2024/05/28
江戸時代初め、遠江から土佐へ移ってきた山内氏によって、高知城は築かれました。ただし、それ以前にも城は存在していて、長宗我部氏の本拠として機能した時期もあったようです。そんな高知城の歴史を、前史も含めてご紹介してみたいと思います。
高知城前史・長宗我部氏によって築城された大高坂山城
高知城が立つ城山を別名「大高坂山」といい、「佐伯文書」によれば南朝方の大高坂山松王丸という人物が、そこに城を築いていたことが確認できます。伝御台所屋敷跡から南北朝期の遺物が見つかっていることから、当時から城の機能を有していたことは間違いないでしょう。しかし、延元5年(1340)に北朝方の攻撃を受けて城は陥落し、その後は長らく廃城になったようです。
時は移って永禄年間(1558~1570)、岡豊城を拠点とする長宗我部元親が、周辺一帯を制圧したことで、再び大高坂山に城が築かれました。天正16年(1588)、元親は本拠を岡豊城から大高坂山城へ移し、この時に城下町も形成されたといいます。
ただし、大高坂山城は2つの川に挟まれた立地にあり、いわば小高い中州のようなもの。たびたび水害が起こったことで、新たな城を築く必要に迫られました。そこで元親は、水軍と海運に着目したこともあり、土佐湾に面する浦戸城を改修したうえで本拠を移しています。大高坂山城はまたしても見捨てられてしまったのです。
その後、高知城の築城によって大高坂山城の遺構は姿を消しますが、近年の発掘調査で断片的なことがわかってきました。平成12年(2000)に実施された試掘調査では、本丸黒鉄門の石垣盛土層から、16世紀後半の備前焼や貿易陶磁器が出土しており、三の丸でも長宗我部時代の地山面が確認され、桐紋軒丸瓦や石垣・礎石などが検出されています。
文献史料である「長宗我部地検帳」によると、当時の様子が明白に示されていました。まず「大テンス」という言葉が記載されており、これは「大天主」ではないかと考えられています。また、「御土居」と記されているのは、長宗我部氏の居館だと断定されており、織豊系城郭がそこに存在したことを示しているのです。
新しい城に対する山内一豊の思いとは?
慶長6年(1601)、長宗我部氏に代わって山内一豊が土佐へ入国しました。ひとまず浦戸城へ入りますが、手狭なうえに交通の便も悪く、新しい太守の威光を知らしめるには不向きだったようです。しかも長宗我部氏が取り立てた城を、いつまでも利用するわけにもいきません。そこで一豊は、新たな本拠となる城を築こうとしました。ちなみに城郭建築史から見れば、空前の築城ラッシュとなった時期に合致します。関ヶ原合戦後の戦後処理で、大名の転封や加増が相次ぎ、各地で先進的な近代城郭が築かれました。山内氏もそのような時流に乗ったのでしょう。
ただし土佐の事情は、かなり勝手が違ったようです。一領具足と呼ばれる地侍を中心に、山内氏への反発は大きなものがあり、一豊のお国入りは半ば軍事占領的な形で行われました。そこで山内氏の威光を強く打ち出す方針のもと、新しい城の築城が始まるのです。
この時期に築かれた他の天守を見ると、実は閉鎖的な層塔型天守がほとんどでした。それが最先端のトレンドだったのかも知れませんが、なぜか一豊は開放的な望楼型天守にこだわったようです。高知城の築城を記した『御城築記』はこのように記しています。
「天守之儀遠州懸川之通リ、一豊公御物数寄ヲ以高欄ニ被仰付、四国ノ外ニモ無之目立可申旨御家老中被仰上候処、此旨榊原式部太輔ヘ迄御内聞、岩田午蔵御使者ニ被遣候処被達高聴弥御首尾宜候事」
要するに一豊は、かつて治めた掛川城の天守が大変好みだったようで、新城に同じような天守を造りたかったのでしょう。わざわざ使者を派遣して榊原康政に許可を求めているあたり、こだわりがあったように見受けられます。
2ヶ月にわたって領内を巡視した一豊は、ようやく大高坂山を城地に取り立てることを決意しました。そして榊原康政を通じて、7ヶ年計画で築城する届書を幕府へ提出。ようやく徳川家康の許しを得ています。築城の名手といわれた百々安行を総奉行に据え、いよいよ大工事が始まるのです。
10年の歳月を費やして、ようやく高知城が完成する
総奉行・百々安行のもとには、普請奉行として山田久兵衛、大工頭には加藤六兵衛、石垣を普請する穴太役には北川豊後が任命されています。慶長6年(1601)9月に鍬初めや地鎮祭が執り行われ、ここから築城工事がスタートしました。一豊は数日に一度、現場の巡検に訪れていますが、依然として国情が安定しないことから、いつ不遜な輩に命を狙われるかわかりません。常に5人の家臣を影武者に仕立てて歩いたそうです。人はこれを「六人衆」と呼んだとか。
また、工事に携わった人夫は、一日あたり1300人程度だったとされ、一人一日につき米7合と、いくらかの銭を与えられました。近隣の領民は男女の別なく労役に参加させられたようで、10歳以下の子供でも、きちんと働けば一升の米がもらえたそうです。
次に築城で用いる石材ですが、まずは浦戸城の石垣を崩して運んでいました。ただし浦戸城を廃城にするつもりはなかったようで、久万や神田・潮江といった場所からも切り出していたようです。また木材の調達は、朝倉や一宮周辺の山林から伐採して運搬しました。ただし瓦だけは現地で調達することができません。わざわざ大坂から瓦職人を土佐へ呼び寄せ、現地で焼かせていたそうです。
やがて工事が始まって2年目に本丸・太鼓櫓が完成し、早くも入城式が執り行われました。それから2~3日は旗や馬印を立て、盛大に鉄砲を放つなど、大いに気勢を上げさせたといいます。
この時に城の名が付けられ、雪蹊寺の月峰和尚によって「河中山城」と命名されました。これは江ノ口川と潮江川に挟まれた山という意味です。しかしその後、水害が相次いだことから「河中」の文字が嫌われ、「高智山」と改められています。これが現在の高知の由来となりました。
そして工事開始から、5年目にあたる慶長10年(1605)に一豊が死去。養子の忠義が家督を継いでいます。しかし忠義の代になると、幕府から課せられる手伝普請の負担が、重く圧し掛かりました。
慶長11年(1606)に江戸城普請を請け負い、翌年には駿府城普請のために材木を寄進しています。慶長14年(1609)になると、今度は篠山城の普請に駆り出されるなど、その負担は増していくばかり。
そうでなくても土佐藩は財源に乏しく、財政難に苦しんでいました。自分の居城を築きながら、他人の城造りまで手伝わされるのでは、たまったものではありません。藩が抱える借財はますます膨れ上がっていきます。
そうなると高知城の築城も遅れがちとなり、ようやく完成を見たのは、工事が始まって10年目のことでした。
土佐の中心となった城と城下町
ここから山内氏によって築かれた城と城下町を見ていきましょう。まず高知城の縄張りは変わった形をしていて、山頂の本丸、二の丸が並ぶように独立しており、互いに橋で繋がっています。さらに三の丸と腰曲輪が螺旋状に囲むような構造になっているのが特徴です。 もし大手から敵に攻められた場合、本丸と二の丸の谷間を通して搦手へ迂回させ、屈曲した通路を通らせることで、主要部へ近づけさせない工夫がなされていました。
次に本丸へ目を移しましょう。まず裏側を守るのが黒鉄門です。総塗籠の建造物が多い本丸にあって、柱・門・扉など全て板張りになっており、その風格は武骨そのもの。そして廊下門を挟んで、向かい合うのが東・西多聞櫓となります。
天守は、四重六階(実際は三層)の独立式望楼型天守になっていて、どちらかといえば古風な形式かも知れません。その姿は優美で繊細さが感じられ、同じ四国にありながら、層塔式の宇和島城天守と比較されることが多いですね。
まず天守の一層目には、庇屋根がぐるりと四方を囲み、二層目は大入母屋が立ち上がって雄大さが際立ち、三層目は廻り縁と高欄が巡っています。また屋根を飾る鯱は青銅製となっていました。これは全国でも数えるほどしか現存していません。
この個性豊かな天守と繋がっているのが、懐徳館こと本丸御殿で、玄関・廊下・式台・溜間など14の部屋で構成されています。
正殿の書院には一段高い上段の間があり、右手に付書院、左手の帳台構えの襖には、金色に輝く八双金具が付けられているそうです。
ちなみに本丸御殿が現存する城といえば、川越城や掛川城などが知られているものの、天守と本丸御殿がセットで残っているのは、高知城のみとなっています。
さて、高知城が完成するに伴い、城下町も整備されていきました。その範囲は潮江川に平行して広がり、東西3キロ、南北1キロの規模となっています。
まず城を中心に家臣団の屋敷地である「郭中」が造成され、その西側には足軽や武家奉公人が暮らす「上町」、そして潮江川の下流側には商人や職人を住まわせた「下町」がありました。
城にもっとも近い郭中は、家老・中老・馬廻り・小姓組や留守居組といった、いわゆる上士たちの居住区となっています。郭中の幹線道路は、東西の道を「筋」と呼び、南北の道を「通」として、整然と区画されていました。
また他の城下町で見られるような、L字に曲がる道や袋小路などは、極めて少なくなっています。
いっぽう下町は、人々の暮らしを支える町として機能していました。掛川町は大工や鍛冶屋・研ぎ師や金具師など、職人が暮らす居住区になっており、京町や堺町には呉服商の店が立ち並んでいたといいます。
また細工町や紺屋町、八百屋町といった、食料や日用品を供給する商工業者の町も作られ、江戸時代を通じて、高知の城下町は栄え続けました。
大火で全焼するも、復活を遂げた高知城
こうして城と城下町は繁栄を遂げますが、高知城は火災に悩まされた城でもありました。とりわけ元禄期と享保期には大火に見舞われています。元禄11年(1698)、北奉公人町から出火した炎は西風にあおられて大火となり、5千軒あまりの家屋が焼失しました。炎は高知城にも迫り、城内下屋敷と太鼓櫓を全焼させています。
享保12年(1727)になると、越前町から出火した大火で4千軒あまりの家屋が焼けてしまいました。強い西風にあおられた炎は、桜馬場を飛び越えて西大手に移り、さらに上下の乾櫓を焼き尽くします。
いっこうに火の勢いは衰えることなく、二の丸・三の丸が焼亡し、やがて本丸へ燃え移りました。一豊が精魂を傾けて造った天守も、ついに猛火の中で崩れ落ちてしまったのです。
こうなってしまうと再建する他ないのですが、ないない尽くしの赤字財政の中、土佐藩としても無い袖は振れません。幕府から再建の許可はもらったものの、先立つ資金などありませんでした。
そこで手を付けたのが藩士たちの俸禄です。つまり「お借り上げ」の名のもとに、藩士たちを一時的な減俸にしたわけですね。記録によれば、宝永元年(1704)から明治元年(1868)までの間に、お借り上げは40回以上に及んだとか。
もちろんお借り上げは藩士だけでなく、領民にまで課せられました。当時の年貢率は六公四民といいますから、全国でもトップクラスの苛斂誅求ぶりです。
そして焼失から15年が経った寛保2年(1742)、ようやく城の再建に着手しました。失われた天守をはじめ、櫓や門などが回復されたのは、実に大火から27年が経過した宝暦3年(1753)のことです。
ちなみに天守は、創建された時と同じ形式で造られています。ただし、いかに前例にならったとはいえ、四重天守を再建したとなっては、幕府から咎められる恐れがありました。
御三家の水戸城ですら、幕府を憚って三重櫓(内部は五階)として再建されたほどです。もしもの時には、このように弁明しようと口裏を合わせたと伝わります。
まったく人を食った話ですが、幕府から咎められることはなかったそうです。
やがて明治を迎えると高知城は廃城となり、明治6年(1873)には本丸の建物と追手門(大手門)を残したまま、高知公園となりました。戦後には史跡・高知城跡として国の指定を受けています。
おわりに
高知城が築かれてから400年以上が経過しました。たしかに創建当初の建造物は残っていないものの、その縄張りを見れば、なぜ山内一豊が城を築こうとしたのか?その思想を感じ取れるかも知れません。また高知城には、天守と本丸御殿が現存しており、城郭としての遺構残存量は全国屈指となっています。あちこちに残る意匠の素晴らしさや巧妙な作事など、見るべきものが多い貴重な城郭なのです。
補足:高知城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
延元5年 (1340) | 大高坂山城が落城し、廃される。 |
永禄年間 | 長宗我部氏が周辺地域を支配し、軍事拠点として活用される。 |
慶長16年 (1588) | 長宗我部元親が本拠を岡豊城から大高坂山城へ移す。 |
慶長19年 (1591) | 元親、本拠を浦戸城へ移す。 |
慶長6年 (1601) | 長宗我部氏に代わって、山内一豊が土佐へ入国。新城の築城が始まる。 |
慶長8年 (1603) | 本丸・詰門・廊下門・太鼓櫓が竣工。大高坂山の地名を「河中山」へ改める。 |
慶長15年 (1610) | 河中山の地名を「高智山」へ改める。 |
慶長16年 (1611) | 10年の歳月を掛けて高知城が完成する。 |
元禄11年 (1698) | 大火により城内下屋敷と太鼓櫓が焼亡。 |
享保12年 (1727) | 大火によりほとんどの建物を焼失する。 |
宝暦3年 (1753) | 復旧工事が終わり、ほぼすべての建物が整う。 |
明治6年 (1873) | 本丸・追手門以外の建造物が撤去。翌年、高知公園として開放される。 |
昭和34年 (1959) | 国の史跡に指定される。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 四国地域史研究連絡協議会「四国の近世城郭」(岩田書院 2017年)
- 松田直則「土佐の山城」(ハーベスト出版 2019年)
- 宅間一之「シリーズ藩物語 土佐藩」(現代書館 2010年)
- 藤崎定久「日本の古城 中国・四国・九州編」(新人物往来社 1971年)
- 高田徹「近世城郭の建築と空間」(戎光祥出版 2020年)
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