黒田官兵衛は、本当に豊臣秀吉に恐れられていたのか

黒田官兵衛は軍師だったのか

 黒田官兵衛と言えば、軍師として知られている。しかし、近年になって、戦国時代に軍師なる言葉はないことが明らかにされた。江戸時代になって、官兵衛の軍略が世間に知れ渡り、諸葛亮孔明のような軍師と同じように見なされたに過ぎない。そのような事情が災いしたのか、官兵衛には史実とはみなし難いエピソードが多数ある。

 官兵衛に関するエピソードのほとんどは、後世の編纂物によるものであるが、広く知られているものが多い。そして、その中には豊臣秀吉が官兵衛を警戒したものがある。なぜ官兵衛は、そこまで秀吉から警戒されることになったのであろうか。それは、ひとえに官兵衛の先見性などに拠るところが大きいといえよう。

官兵衛の先見性を示すエピソード

 たとえば、『黒田家譜』には次のようなエピソードが残っている。あるとき官兵衛は、主君の小寺政職から、毛利輝元、織田信長、三好氏などのいずれに味方すべきか意見を求められた。方向を誤ってしまうと、滅亡してしまう。そこで、政職は知将として名高い官兵衛に意見を求めたのである。

 官兵衛の意見は、次のようなものであった。

 第一に、畿内で勢力を伸張しつつあった三好氏は、かつて長慶が将軍足利義輝を謀殺している。主君を討つような人物は、決して天が許すわけがない。したがって、三好氏に味方するのは、やめたほうがよいと進言した。この部分の官兵衛の発言は、儒教の影響を大きく受けている。

 第二に、毛利輝元は、小早川隆景、吉川元春という名将が支えているが、輝元自身は幼少である。つまり、毛利家は家中の統制に精一杯なので、不安定であるとした。しかも輝元には一国を治める器量がなく、安芸に引き籠るばかりであると述べた。毛利氏の将来性を大いに不安視した発言である。

 最後の織田信長は、尾張半国から身を起こし、太守の今川氏を見事に打ち破るなど、大変見所がある。しかも、将軍足利義昭を擁立し、京都に進出して天下をうかがうなど、準備万端整えている。したがって、将来天下を握るのは信長である、と意見を述べた。

 政職は官兵衛の意見を取り入れて、信長に味方することを決定した。官兵衛の優れた見識は、すでに若い頃から養われていたようだ。しかし、『黒田家譜』が後世に成立したことを考慮すれば、すべて結果を知ったうえで、創作された可能性が極めて高い。

中国大返しにおける官兵衛の進言

 こうした官兵衛の先見性に基づいたエピソードがもう一つある。それは中国大返しにまつわる有名なものである。

 江村専斎の『老人雑話』によると、本能寺の変により信長横死の一報が秀吉のもとに伝わった際、秀吉はすっかり憔悴しきっていた。というのも、信長亡き後、どうすればよいものか悩んだからだ。

 しかし、官兵衛は秀吉に近づくと「これで殿(秀吉)のご運が開けましたな(信長の代わりに天下を取るチャンスです、という意)」と耳元で囁いたというのである。さすがの秀吉も驚いたことだろう。

 たしかに、官兵衛があまりに優秀すぎて、「油断ならないやつ」と秀吉に感じさせるのに十分な内容である。ゆえに、秀吉は官兵衛を恐れたという。

秀吉に恐れられた官兵衛

 むろん、秀吉が官兵衛を恐れたというエピソードは、これだけに止まらない。もう一つ有名なものを紹介しておこう。

 湯浅常山の手になる『常山紀談』(18世紀中期成立)によると、ある日、秀吉は官兵衛に対して、「次に天下を獲る者が誰か」と問うた。官兵衛は毛利輝元の名前を挙げたが、秀吉は「目の前の者(=官兵衛)」であると言ったという。

 また、あるとき官兵衛は、秀吉の御伽衆の一人である山名禅高(=豊国)から、秀吉が「自分の死後、天下を狙う者は官兵衛である」と言ったことを、聞かされたことがあったという(『故郷物語』)。秀吉から官兵衛は、随分と警戒されていたようである。

 そして、さらに有名なのは、岡谷繁実『名将言行録』に記されている次のエピソードであろう。

 秀吉が「私に代わって、次に天下を治めるのは誰であろうか」と家臣に尋ねたことがあった。家臣たちは、即座に徳川家康や前田利家の名前を挙げた。

 しかし、秀吉は官兵衛の名を挙げ、「官兵衛がその気になれば、私が生きている間にも天下を取るだろう」と述べたいう。家臣たちは、官兵衛が小身の大名に過ぎないと述べたところ、秀吉は「官兵衛に百万石を与えたら、すぐにでも天下を奪ってしまうだろう」と答えたのである。

 官兵衛はこの話を伝え聞くと「我家の禍なり」と述べ、すぐに剃髪して如水と号した。

 『名将言行録』には「秀吉が言うには、常に恐ろしいのは家康と官兵衛であるが、家康は温和な人物である。黒田の瘡天窓(おできの頭)は、何とも心を許し難い男である」と記されている。

秀吉が官兵衛を恐れる必要がない理由

 秀吉が官兵衛を恐れていたことを前提として、多くの誤解が生まれた。秀吉が官兵衛に豊後中津にわずか13万石しか与えなかったのは官兵衛を恐れたからで、それゆえ官兵衛を辺境の地に追いやり、しかも小禄しか与えなかったと考えられた。しかし、官兵衛は播磨の一土豪に過ぎなかったので、待遇としては悪くなかったといわれている。

 官兵衛が厚遇されなかったのは、キリシタンだったからだと言われている。フロイスの『日本史』によると、秀吉は官兵衛にキリスト教の布教を止めるように命じたが、官兵衛は従わなかった。それゆえ秀吉は、官兵衛を十分に処遇しなかったという。

 いずれにしても、秀吉は天下人として広大な所領を持ち、多数の大名を従えていたが、官兵衛は小さな大名に過ぎなかった。いかに官兵衛が智将だったとしても、秀吉が本気を出せば、とても敵わないのは常識で考えたらわかることである。つまり、秀吉は官兵衛を恐れていなかったはずである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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