戦国時代の人々は、豊臣秀吉の出自をどう認識していたのか?

名古屋市中村区にある中村公園は秀吉の生誕地といわれている(画像はphotolibraryより)
名古屋市中村区にある中村公園は秀吉の生誕地といわれている(画像はphotolibraryより)

 豊臣秀吉といえば、一介の百姓から身を起こし、天下人になった稀有の人物として知られている。とはいえ、その出自については、実に謎が多い。戦国時代の人々は、豊臣秀吉の出自をどう認識していたのか考えることにしよう。

 中国・四国・九州と順調に攻略を進め、天下人まであと一歩まで近づいた秀吉にとって、残る最大の敵は関東の雄・小田原北条氏だけだった。

 天正18年(1590)、名胡桃城(群馬県沼田市)をめぐる後北条氏と真田氏との戦いが端緒となり、惣無事(私闘による戦争の禁止)という政策基調の観点から、秀吉は介入せざるを得なくなった。その際、秀吉は北条氏直に宛てた宣戦布告状の中で、

秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)
『言経卿記』より

と自ら記した(『言経卿記』所収文書)。

 このあと、若き頃の秀吉が織田信長に従った過去の出来事などが綴られている。わずか一行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、かつ自分の身分を誇張するものでもない。決して虚偽とはいえないだろう。

 そう考えると、『豊鑑』の「秀吉の父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもないと考えられる。これまで、秀吉の父の存在は、諸書にあやふやな記述しかなかったが、それは幼少期に両親を亡くしたという事情が影響していたのである。秀吉は幼くして、孤児になった可能性が非常に高い。

 近世初期に成った史料の中で、『豊鑑』のように秀吉が孤児であったと記したものは乏しい。「父母の名もわからない」というのが事実ならば、秀吉の母・大政所ですら、もとは名も知られなかった一女性に過ぎなかったことになる。一説によると、大政所の父は美濃の鍛冶・関兼貞(または兼員)といわれている。

 秀吉の出自について、戦国時代の人々がどう認識していたのか、もう少しさまざまな史料で確認してみよう。

 最初に取り上げるのは、毛利氏の外交僧として活躍した、安国寺恵瓊の書状である。恵瓊は天正10年(1582)6月の備中高松城(岡山市北区)の攻防後、領土割譲をめぐって秀吉との交渉に臨んだネゴシエーターである。

 しかも、単に交渉能力に長けているだけでなく、信長の失脚と秀吉の将来の成長を予言するなど、人間に対する洞察力が非常に優れた人物だった(拙著『戦国の交渉人―外交僧安国寺恵瓊の知られざる生涯―』洋泉社歴史新書y)。

 その恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉する天正12年(1584)1月、秀吉を評して記したのが、次の有名な一文である(『毛利家文書』)。

若い頃の秀吉は一欠片の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、乞食をしたこともある人物だった。
『毛利家文書』より

 恵瓊は外交僧を務めるだけのことはあって、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたということは、あながち否定できないだろう。

 恵瓊は情勢分析にも優れており、早くから毛利輝元ら毛利氏首脳に秀吉と戦うことの不利を説いていた。そうした点を踏まえると、非常に信憑性が高い情報であると考えてよい。決して交渉の場で優位に立つ秀吉に対して、恵瓊が負け惜しみで記した一文ではないのは明らかである。

 そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたことは、当時の有力な大名間で共通に認識されていた事実とみなすことができる。その事実を裏付けるのが、次に紹介する薩摩島津氏の例である。

 秀吉の出自に関する情報は、遠く薩摩国までも広がっていた。天正14年(1586)1月、大友宗麟は島津義久の攻撃を受け、窮地に陥った。そこで、宗麟が選んだ手段は、秀吉に泣きつくことによって、停戦に持ち込むことだった。

 宗麟に泣きつかれた秀吉は、義久に対して停戦を命じた。もし、島津氏が応じなければ、成敗に及ぶという厳しい条件付きだった。

 停戦を突きつけられた島津氏は、家中で対応をめぐって種々議論を重ねたが、その中で秀吉に関する次のような記述が見られる(『上井覚兼日記』)。

羽柴(秀吉)は、誠に由来(由緒)なき人物であると世の中でいわれている。当家(島津家)は源頼朝以来変わることがない家柄である。しかるに羽柴(秀吉)へ関白とみなした返書を送ることは、笑止なことである。また、右のように由緒のない人物を関白を許すとは、何と綸言(天皇のおっしゃること)の軽いことであろうか。
『上井覚兼日記』より

 この前年(天正13年)、秀吉はいわゆる関白相論に乗じて、摂関家以外で初めて関白に任じられた。あわせて、「豊臣」姓も朝廷から与えられていた。これは破格の待遇であり、秀吉が天下人になった証でもあった。

 島津氏は秀吉を由緒なき人物としたうえで、関白に任じられること自体が「笑止千万」という感想を持ったのである。ここでは、任命者の朝廷すら嘲笑の対象である。秀吉の出自が低いということは、遠く薩摩まで知られていたのである。

 この一文を見ればわかるように、鎌倉時代以来の名門である島津氏にとって、秀吉は「どこの馬の骨」かわからない存在であった。率直に言えば、「名門の島津家が秀吉ごときにとやかく言われる筋合いはない」というのが本音であろう。事実、島津氏は秀吉の停戦命令を無視した。その後の九州征討で、島津氏が秀吉に屈して泣きを見ることになり、ミジメな思いをしたのは周知のところである。いかに秀吉の出自が「由緒なき」とはいえ、実力では敵わなかったのだ。

 秀吉の出自については、多くの謎がある。大村由己が執筆した『関白任官記』には、「秀吉は天皇のご落胤である」という説が書かれている。むろん、事実無根の虚偽であるが、秀吉はあえて配下の由己に書かせたのだ。

 小瀬甫庵の手になる『太閤記』には、「母の懐に日輪が入る夢を見ると、すでに懐妊しており、こうして秀吉が誕生したので童名を「日吉丸」とした」とある。こちらも虚説であるのは疑いないが、いずれにしても真実を解き明かすのは不可能だろう。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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