大坂夏の陣…樫井の戦いの攻防の末、塙直之が迎えた最期の模様
- 2024/12/11
樫井の戦いの開始
慶長20年(1615)4月、大和郡山・堺・岸和田の戦いで、豊臣方は徳川方を相手に有利に戦いを進めたが、最終的に撤退した。次に、両者の戦いが行われたのは、樫井(大阪府泉佐野市)である。(大和郡山・堺・岸和田の戦いについては、以下の記事を参照ください)
同年4月、徳川方の浅野長晟(ながあきら)は、一揆勢力が豊臣方に味方したとの情報を得た。そこで、長晟は樫井の近くにある長滝・安松両村の人々を味方として引き入れ、樫井を戦いの場にしようと計画したのである。
豊臣方の先鋒を任されたのは、岡部則綱だった。これに塙直之らが従う作戦だった。もともとの計画では、直之が先鋒を務めることが決まっており、則綱が次鋒だった。ところが、豊臣方は先鋒を則綱に任せようとしたので、2人の関係は悪化した。
そこで、この問題を解決すべく、大将を大野治房と槙島重利の2人とし、その2人に直之と則綱が従うことになったのである。しかし、直之は抜け駆けの禁を破ると、敵陣へ真っ先に攻め込んだ。抜け駆けは、軍令違反だった。
徳川方と豊臣方の交戦
長晟の配下の茶人としても有名な上田宗箇(そうこ)と亀田高綱は、直之と則綱の軍勢を待ち構えていた。宗箇は具足や母衣を黒一色で、高綱は具足や羽織を白一色にそれぞれ統一していた。一方の直之は、赤一色で具足などを統一していたので、「赤武者」と呼ばれていた。直之と則綱の軍勢は、樫井付近で長晟の軍勢と戦いを繰り広げたが、最後は敗北となった。戦闘がはじまったとき、則綱と直之は先駆け争いを演じたという。結局、直之は討ち取られ、則綱は重傷を負ったのである。
当初、長晟の軍勢が劣勢だったが、岸和田から徳川方の援軍がやってくると、一気に形勢は逆転して豊臣方が劣勢になったという(「山内文書」)。徳川方の援軍が決め手になったようだ。
治房は一揆勢力との協力がうまくいかなかったので、急いで戦場に向かったが、すでに長晟の軍勢は撤退したあとだった。「山内文書」によると、豊臣方は直之が討ち取られたので、「手を失った」と書かれている。直之が有力な武将だったのは明らかで、豊臣方が劣勢に追い込まれた事情がうかがえる。
塙直之の最期
『亀田大隅盛高綱泉州表合戦覚書』という史料には、塙直之の最期の状況が詳しく描かれている。直之は槍で高綱に戦いを仕掛けようとしたが、菅野兵左衛門(高綱の家臣)が刀を抜いて立ち向かってきた。兵左衛門が直之の左足の甲を斬り付けると、菅野右加衛門(高綱の家臣)が直之に馬乗りになった。そして、直之の首に槍を突き立てると、兵左衛門に首を取らせたのである。右加衛門が兵左衛門に首を取らせた理由は、最初に兵左衛門が直之を斬り付けたからだった。当時、先に斬り付けた者は、軍事慣行として首を取る優先権を持つことになっていた。
直之を討ち取った武将は、ほかに上田宗箇、多胡助左衛門(浅野氏家臣)という二つの説がある。宗箇が直之を討ち取ったと書くのは、『駿府記』である。結局、豊臣方は直之だけでなく、宇喜多氏旧臣の芦田作内ら12名もの有力な武将が戦死し、多くの将兵を討ち取られたのである。
窮地に陥った豊臣方
本多正純は豊臣方の敗戦の状況について、鍋島勝茂に書状を送った(『鍋島勝茂譜考補』)。この書状にも、長晟の軍勢が数多くの豊臣方の軍勢を討ち取ったと書かれており、直之が戦死したことも書かれている。大きなポイントは、「もはや豊臣方には実体がなく、武具なども放置したまま逃亡したので、間もなく降参するでしょう」と書かれていることだ。豊臣方の樫井の戦いにおける敗戦の大打撃は、その後の展開を予想できるものだった。
また、豊臣方が回文(順次に回覧して用件を伝える文書)を送ったという情報は、誠に今日深い。正純は回分を持参した者を発見した場合、勝茂に捕縛するよう要請したのである。回文の内容は、豊臣方が諸将らに味方になるよう依頼したものと推測されるので、豊臣方がいかに厳しい状況になっていたかがわかる。
塙直之と淡輪重政の墓
泉佐野市南中樫井には、塙直之の墓がある。寛永8年(1631)の塙団右衛門直之の十七年回忌に際して、紀州藩士の小笠原作右衛門がこの墓碑を建立したといわれている。 その隣には、淡輪重政の墓がある。
重政の墓は、寛永16年(1639)に会津藩士の本山三郎右衛門(淡輪氏の一族)が建立したという。なお、建立したのは、淡輪新兵衛(重政の甥)いう説もある。
樫井の戦における徳川方の勝利後、家康と秀忠の軍勢が動いた。同年5月5日、家康と秀忠は滞在していた二条城と伏見城をそれぞれ出発すると、淀川筋のルートを経て、淀(京都市伏見区)、八幡(京都府八幡市)と南下した。
その日の夜、家康は星田(大阪府交野(かたの)市)、秀忠は砂(同四条畷市)に到着したのである(『駿府記』)。その後、道明寺の戦いで、再び両軍は相まみえた。
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