大坂夏の陣…道明寺の合戦における後藤又兵衛、薄田兼相の最期とは?

道明寺合戦記念碑(大阪府藤井寺市道明寺)
道明寺合戦記念碑(大阪府藤井寺市道明寺)

道明寺の戦いの経過

 慶長20年(1615)4・5月、豊臣方は大和郡山、堺、岸和田、樫井方面での徳川方との戦いに敗北した。一方、徳川方の軍勢は、豊臣方に勝利した勢いに乗じて、大和方面から河内へ軍を進め、大坂城へ攻撃しようとしていた。

 樫井の戦いで塙直之、淡輪重政を失ったことは、豊臣方にとって大きな痛手になった。


 豊臣方は軍議を開き、今後の対応を協議した結果、道明寺(大阪府藤井寺市)まで出陣し、徳川軍を迎え撃つことに決定した。豊臣方の先鋒部隊は、約6,400の兵を率いる後藤又兵衛(基次)、薄田兼相が務めることになった。加えて、12,000の兵を率いる真田信繁、毛利勝永、渡辺糺らが出陣することになった。

 徳川方は、豊臣方の軍勢が道明寺や八尾(大阪府八尾市)付近に出陣した情報を掴んでいた。豊臣方の軍勢は減るどころか増えていたので、家康は先鋒の藤堂高虎や井伊直政に追討するように命じたのである。

1615年、大坂夏の陣の要所マップ。青マーカーは豊臣方、赤は徳川方の城

 5月5日、水野勝成、伊達政宗ら約35,000の軍勢は、関谷(奈良県香芝市)を経て国分(大阪府柏原市)に移った。また、家康・秀忠の軍勢と水野勝成、伊達政宗らの軍勢は二手に分かれ、道明寺、八尾・若江方面を目指したのである。

 5月6日、先発した後藤軍は真田軍を待つため、国分(大阪府柏原市)で待機した。ところが、濃い霧により視界が不良となったため、真田軍の到着が遅れていた。そのような事情もあり、後藤軍は道明寺へ先に進み、真田軍を待つことにしたのである。

 又兵衛は、敵陣の様子を探るため斥候を送り込んだ。すると、わずか2・3キロメートル先に徳川方の軍勢が着陣したことを知った。当初の計画では、後藤軍が真田軍と合流し、徳川方を攻撃することになっていた。ところが、又兵衛は真田軍を待たず、攻撃することを決断した。真田軍の到着を待つと、チャンスを逃すと考えたのだろう。

又兵衛の最期

 戦いの舞台は、小松山に移った。午前4時頃から戦いがはじまると、後藤軍が水野軍を相手に戦いを有利に進めた。しかし、徳川方の伊達政宗、松平忠輝らの援軍が到着すると、激しい銃撃により、後藤軍の敗勢が濃くなったのである。

大坂夏之陣小松山古戦場跡(大阪府柏原市玉手町。出典:wikipedia)
大坂夏之陣小松山古戦場跡(大阪府柏原市玉手町。出典:wikipedia)

 又兵衛は小松山を下山して孤軍奮闘したが、ついに敵兵により銃撃された。死を覚悟した又兵衛は、配下の者に首を取らせたと伝わっているが、又兵衛の最期についてはいくつかの説がある。

 又兵衛を討ったのは、伊達家の片倉重長の鉄砲隊であるという説、松平忠明の配下の山田十郎兵衛が首を取ったとの説もある(『武功雑記』)。また、又兵衛が敵に鉄砲で撃たれ、歩行困難になったので、配下の吉村武右衛門に介錯させたとも伝わる(『難波戦記』)。

 又兵衛の死について、後藤助右衛門の書状には、「又兵衛殿も六日に討ち死になさった」と記されており、その戦いぶりは「源平以来のこと」と賞賛された(「芥田文書」)。又兵衛の死は、平安末期の源平合戦以来の華々しいものとされたのである。

 又兵衛ら後藤一族の墓は、景福寺(鳥取市)にあるが、ほかにも大阪府柏原市の玉手山公園、奈良県大宇陀町の薬師寺、愛媛県伊予市の長泉寺、大分県の耶馬渓などに碑や供養塔、伝承墓が残っている。

後藤又兵衛基次之碑(大阪府柏原市玉手町。出典:wikipedia)
後藤又兵衛基次之碑(大阪府柏原市玉手町。出典:wikipedia)

兼相の最期

 又兵衛を討たれた後藤軍は統制が利かなくなり、総崩れの体となっていた。それでも果敢に徳川軍と戦い続けたが、おおむね正午頃には決着がつき、戦いは徳川方の勝利に終わった。徳川方の榊原康勝は、約130もの敵兵の首を取ったという。

 敗北した後藤軍は、小松山付近の石川へと退却した。そこで薄田兼相らの軍勢と合流し、徳川軍に反撃すべく決死の覚悟で戦いを挑んだのである。

 大坂冬の陣のとき、兼相は遊女と遊んでいた際に、味方が敗北したという大失態を演じていたので、今回の戦いは名誉を挽回する大きなチャンスだった。兼相の戦いぶりは、軍記物語の『那波戦記』に詳しく描かれている。

 兼相は背が高い剛力の者で、3尺3寸(約1メートル)の太刀を自由自在に操った。兼相は先頭で戦ったので、徳川軍は兼相1人だけを鉄砲で狙い撃ちにしたという。ところが、兼相は鉄砲を撃つ者に近づいて討ち取り、剛力な者は綿噛(わたがみ:鎧類の胴の両肩の部分)を掴んで、鞍の前輪に首を引っ掛けて落としたという。

 兼相は奮戦したにもかかわらず、ついに討ち取られた。水野勝成の配下の川村新八郎重長が兼相と組み打ちし、討ち取ったという(『後藤合戦記』)。 兼相の墓は、大阪市天王寺区の増福寺と大阪府羽曳野市誉田にある。

 豊臣方は、頼みとなる又兵衛と兼相を同時に討ち取られたので、ますます苦境に陥ったのである。

薄田兼相の墓(大阪府羽曳野市誉田)
薄田兼相の墓(大阪府羽曳野市誉田)
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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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