戦国時代、地方へ下る公家たち。それでも手放さなかった天皇家との絆

 応仁元年(1467)から翌年にかけて都・京都で繰り広げられた戦いが「応仁の乱」です。日本の戦で一番わかりにくく、一番人気のない争いと言われますが、公家の屋敷や寺社が焼かれ、火事場泥棒が横行して京の町衆も大迷惑を蒙りました。天皇家や公家はこの戦いをどう乗り切ったのでしょうか?

天皇家は中立だが南朝支持には厳しい態度

 応仁の乱のきっかけは室町八代将軍・足利義政の後継者を巡って、後の九代将軍で義政の子である義尚と義政の弟の義視が争います。そこへ畠山氏や斯波氏などいくつかの大名家の家督争いが絡み、守護大名たちは東軍の細川勝元側と西軍の山名宗全側にわかれて合戦が始まりました。

応仁の乱の対立構図
応仁の乱の対立構図

 院政を敷き、朝廷の実権を握っていた後花園上皇は、戦乱を避けて幕府の所在地である室町第(通称:花の御所)に移っていましたが、武家の対立に対してどちらにも与せず、中立の立場でした。

 多くの公家は天皇に従いつつ、東軍・細川方の立場を取ります。しかし応仁2年(1468)12月、上皇の御所である仙洞御所や天皇の御所を守っていた一部の公家が西軍・山名方に味方したので、上皇は彼らの官職や位階を剥奪してしまいます。これは西軍がかつての南朝方の皇子を擁立する動きを見せたからです。北朝の系統である上皇は武家の対立には中立でしたが、公家たちの南朝方を重んじる動きには容赦しませんでした。

 混乱のため、朝廷の政務や儀礼も滞る中、文明2年(1471)に後花園上皇は崩御、後土御門天皇が政務を執ります。

おおいに迷惑を蒙り、逃げ出す公家たち

 乱では京都市内が戦場になったのですから公家たちの被害は半端ではありません。治安もへったくれもなくなって略奪が横行、焼け跡を漁るにわか泥棒も出て来て、公家社会のトップ五摂家の一条家も被害にあいます。一条室町の文庫「桃華坊」が貴重な書物と共に焼け落ち、知恩院に避難させていた太政官の記録類はすべて盗まれてしまいました。

 中流公家で蹴鞠の家として知られる飛鳥井家も、後花園天皇から借りていた系図集や歌集が焼けたり盗まれたりしました。もっとも歌集の一部は後日市場で売られていたのを見つけて買い戻し、無事に天皇の元に戻ったそうです。

 また、各地の荘園では公家が管理を任せていた役人の命令など聞かずに武士が力づくで年貢を奪い取り、荘園からの年貢で生活していた中央の公家や寺社は困窮します。

「もうこんな都にはおられぬ…」

 多くの公家が都を逃げ出します。一条家や鷹司家・近衛家の一部の人々は南都奈良に疎開し、興福寺大乗院門跡の尋尊(じんそん)に迎えられます。

 応仁・文明の乱の1500年前後から1530年代まで、公家の都逃げ出しはピークに達します。戦乱を避けるためでもありましたが、戦乱の影響で目の届かなくなった自家の荘園を直接管理・経営するのも主な目的でした。

 一条家では前関白の教房が家領荘園のある土佐国幡多荘(はたのしょう)に下向します。この荘園は鎌倉時代以来、一条家が大切に経営してきた荘園で、教房もただ都を逃げ出したのではなく、荘園経営の強化と安定化が主な目的だったようです。いくら自家の荘園となってもやはり主が顔を出し、家臣を取り締まらなければ規律は次第に緩み、代官たちの好き勝手にされてしまいます。

 教房は都へ戻ることなく土佐で一生を終え、三男の房家はそのまま住み着き、土佐一条家の祖となりました。

戦国大名からの招待

 都落ちの公家の中には各地の大名に乞われて行く公家もいました。彼らは大名やその家臣に家に伝わるわざや学問を伝授します。蹴鞠と和歌の師範家であった飛鳥井家の雅俊・雅綱は、周防・尾張・駿河・美濃・甲斐など諸国を巡って弟子を取り、そのわざを伝えます。

 飛鳥井家と同じく、和歌の家の三條西家は、大名たちの求めに応じて和歌の添削、色紙や短冊への揮毫、源氏物語など古典の書写や注釈書を作ります。中流クラスの公家でしたが、学者として知られた清原宣賢(のぶかた)は、学識を買われて越前朝倉氏・能登畠山氏・若狭武田氏らに儒学を講じ、最後は朝倉氏の本拠地・越前一乗谷で亡くなりました。関白・近衛前久は越後の長尾景虎の元に寄寓していたおり、自家秘伝の鉄砲の薬を伝授したそうです。

 戦国の世でも上級武将クラスだと、和歌や蹴鞠は重要な素養と見なされ、各々積極的に公家の教えを受けました。家業伝授でその地にとどまっている間は暮らしの面倒は大名が見てくれましたし、教授料や謝礼も貰えて公家の大切な収入となり、京の公家文化を地方に広げる事にもなりました。

朝廷とのパイプ役として

 さらに地方へ下った公家たちは、官位を求める大名の希望を朝廷に取り次ぐことも行います。戦国時代でも官位は単なる大名たちの箔付けではなく、社会的に相応の身分であることを表す指標になり、各地域や大名間の身分・政治秩序として機能していました。

 官位を求める大名の中には、お近づきになった公家を通して朝廷の許可を得ようとする者もいました。周防国に下向し大内氏の庇護を受けた従一位で内大臣の広橋兼勝は、大内義隆の大宰大弐任官に向けて動きます。

 一方、朝廷も儀式や法会の開催費用を大名に求めるのに公家たちを使いました。

 中流公家の山科言継(やましな ときつぐ)は、後奈良天皇の儀式・法会開催のためにせっせと働きました。永禄元年(1558)には勅使として伊勢国の北畠具教の元を訪れ、後奈良天皇の諒闇明け儀式の費用30貫文(300~450万円ぐらい)をもらい受けます。

 引き続いて永禄12年には、今度は後奈良天皇13回忌法会の費用を調達しようと三河国・徳川家康の元を目指します。その途中、美濃国で織田信長と面会し、信長・家康それぞれから200貫文(2000~3000万円)の献上を得ました。

 上出来ですね。公家衆は戦国の世も公家の誇りを持ちながらたくましく生き抜いたのです。

おわりに

 このように混乱の都を避けて地方へ下る公家もいましたが、彼らは天皇家との関係を絶ったわけではありません。自らは朝廷に出仕できなくとも、息子を参内させて家門の存続を図ります。天皇家も一切の奉仕をしなくなった公家には所領の没収処分を課すなどして、天皇家につなぎ留めようとしました。

 公家に支えられ、従属させてこその天皇家でしたし、天皇家とのつながりを維持してこその公家でした。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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