閻魔様の臣下? 二王から仁王へ変わった「小野篁」
- 2025/05/20

「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」
嘘をつくと地獄に落ち、閻魔様に舌を抜かれ、二度と話せなくなる、という嘘つきへの戒めとして広く言われてたきた言葉です。そして冥界(死後の世界)の王であり、死者の生前の罪を裁く存在として昔から恐れられていた閻魔様の臣下だったといわれるのが小野篁(おのの たかむら、802~853年)です。
あまり歴史の教科書には登場しない小野篁ですが、実は平安時代最強ともいえる才能をもった人物と筆者は考えています。そこで今回は小野篁を紹介したいと思います。
エリート家系の小野篁
小野篁の家系は日本史の中でもエリート家系といえるでしょう。まず、先祖には誰でも知ってる遣隋使で有名な小野妹子がいます。そして、篁の父である小野岑守も文武に秀でて参議に任ぜられています。参議は現在で例えるなら、大臣を補佐する政務次官にあたる高級官僚といったところでしょうか。また、篁の子孫には六歌仙の一人に挙げられ、世界三大美女の一人でもある小野小町や、和風書道の基礎を築き三蹟の一人として有名な小野道風がいます。

さらに、一説には2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」で注目された小野和泉守政直(演:吹越満)&但馬守道好(演:高橋一生)親子も篁の子孫といわれています。
先祖・子孫まで歴史好きには話題に事欠かない家系ですね。
”野狂” と呼ばれた小野篁
小野篁は延暦21年(802)に京都で生まれました。ちなみにこの年は、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷の阿弖流為を降伏させ、朝廷が奥羽(東北地方)まで支配下に治めた年です。弘仁13年(822)、篁は文章生(= エリート官僚を目指す学生のこと)になります。ここで優秀な成績を修めた篁は、皇太子の教育係にあたる東宮学士に任ぜられます。
そして承和元年(834)には遣唐副使となり、先祖の小野妹子同様に中国へ派遣されることになります。しかし篁が副使として派遣されるはずだった遣唐使は、風雨によって2回続けて失敗。そして3回目のチャレンジとなった承和5年(836)の派遣時に事が起こりました。
正使である藤原常嗣が乗船する船に不具合(漏水)が見つかり、副使の船との交換が命じられたのです。これに腹を立てた篁は常嗣に猛抗議し、病と偽って乗船を拒否しています。さらに、多くの犠牲を払ってまで遣唐使を送ることの無意味さを詠った漢詩『西道謡』が嵯峨天皇の怒りを買い、「死一等」を減じられて隠岐島(島根県)に流されてしまうのです。
このように、篁は理不尽な事を嫌い、権力に屈せず正しいと思うことを主張する反骨精神にあふれた人物だったようで、"野狂” と呼ばれたようです。
ちなみに、以下は隠岐に流されるときに詠んだ和歌で、百人一首にも選ばれています。
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」
なお、承和7年(840)に能力を高く評価された篁は、罪を許されて京に戻って復職し、承和14年(847)には参議となり、公卿に列せられています。政治家として非常に高い能力を持っていたことがうかがえますね。
”二王” と称された小野篁
上記以外にも優れた和歌を詠んだ篁は漢詩にも秀でていて中国の詩人・白居易(はくきょい)とよく比較されます。平安後期の学者である大江匡房がまとめた『江談抄』の「第四の五」には、次の逸話が紹介されています。
嵯峨天皇は御所秘蔵の白氏文集に載っている白居易の漢詩の一文字を変えて、「閉閣只聽朝暮鼓 上樓遥望往來船」(閣を閉ぢて唯聞く朝暮の鼓 楼に登りて遥かに望む往来の船)と詠み、篁に見せたところ「"遥” を "空” に変えれば、さらに良くなりましょう」と言った。実は天皇が変えた一文字がまさにそれだったのだ。
「この句は白居易のもので、本当は“空”だ。篁は白居易と同じ詩情である!」と天皇はひどく驚いたという。
さらに、嵯峨天皇とのやり取りで有名なのが『宇治拾遺物語 巻第三』の「小野篁広才の事」です。
"無悪善” と書かれた札が内裏に立てられていました。嵯峨天皇に読めと命じられた篁は「悪さ(さが)が無ければ良いのに、と書かれています。天皇を呪っています」と答えます。これを聞いた嵯峨天皇は篁が書いたから読めたのだと、篁を責めます。
否定する篁に対して天皇は「では、これも読めるのだな」と言いながら片仮名で ”子” という文字を12個書いたので、篁は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と見事に読んだことで、何のお咎めもなく済んだのでした。
当時、片仮名の "ネ” は "子” と書いており、漢字の "子(こ・し)” と合わせ読む篁の見事な才能を伝えています。また、書においても優れた才能を持ち草書・隷書の達人だった篁は "書蹟の二王” と称されました。
文化人としても超一流だったことが分かりますね。
平安時代最強の小野篁
篁は「朝廷の官吏」と「冥界の官吏」のダブルワークをしていた、という逸話が残されています。例えば、先程も紹介した『江談抄』の「第三の三九 野篁は閻魔庁の第二の冥官為る事」には、
藤原高藤が急死した時、篁が高藤の手を取って引き起こすと、高藤は生き返った。すると、高藤は庭に下りて篁にひれ伏し、「いつの間にか閻魔庁に行っていたが、篁が閻魔庁の役人として座っていた。だから拝んでいるのだ」と言っていた。
と、篁が閻魔庁の冥官であることを伝えています。
また、同じく平安後期に成立した説話集『今昔物語集』の「巻第二十 小野篁依情助西三条大臣語第四十五」では、
篁がまだ学生だったころ、ある事件で彼が処罰される際に、西三条大臣(おとど)良相が篁の弁護をしてくれた。しばらくして、良相は重い病気で亡くなり、閻魔様の裁判を受けることとなったが、閻魔様に仕える臣下の中に篁がいる。その篁が閻魔様に「この人は正直で親切です。このたびの罪は私に免じてお許しください」と言ったことにより、良相は生き返ることができた。
その後、良相は篁に「ずっと機会が無くて言えなかったが、あの冥途のことは忘れられない。あれはどういうことなのか」と聞いてみた。篁はこれを聞いて少し微笑み「以前の御親切がありがたかったので、そのお礼をしただけです。しかし、このことは人に言わないでくださいね」と答えたので、良相は「篁は只者ではない、閻魔様の臣だ」と分かったという。
しばらくして、この話が自然と世間に知れ、「篁は閻魔様の臣として、この世とあの世を行き通っている人だ」と誰もが怖れおののいた。
と、閻魔様の臣であることや篁の冥界における発言力の強さを伝えています。
このように、篁が冥界の官吏となれたのは、政治家としての資質だけでなく、”野狂” と呼ばれた正直な性格と ”二王” と称された才能を兼ね備えた平安時代最強の人物と認められたからではないでしょうか。
本当の小野篁
果たして本当に篁は冥界の官吏として閻魔王に仕えていたのでしょうか。京都の観光スポットとして有名な清水寺の西側に六道珍皇寺(京都市東山区小松町)というお寺があります。このお寺には「冥途通いの井戸」と呼ばれる、篁が閻魔庁へ行き来する際に通ったとされる井戸が残されています。
しかし、これも伝説にすぎません。平安時代最強の才能を持っていた篁は、それゆえに人々から恐れられて超人的な伝説が作られたのではないでしょうか。

ちなみに、篁は仁寿2年(852)、51歳で亡くなります。生前は母親孝行者としても有名な一方、金銭には淡泊で困った者に分け与えていたため、貧しい生活を送っていたと伝わっています。
江戸後期の伴高蹊は『閑田耕筆』で次のように述べています。
「学者にして詩人、しかも孝心篤い篁に何でこのようなあられもない話が付されたのか」
書蹟の ”二王” という言葉が閻魔王の傍らにいる冥界の ”仁王” を連想させた、というのが案外事実なのかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 校注・訳:小林智昭『宇治拾遺物語』(小学館、1973年)
- 校注・訳:馬淵和夫、国東文麿、稲垣泰一『今昔物語集3』(小学館、2001年)
- 校注:後藤昭雄、池上洵一、山根對助『江談抄 中外抄 富家語』(岩波書店、1997年)
- 大賀豊、伊藤雅人、桃谷薫『超能力者か変人か?【不思議な人物】』(岩波書店、2011年)
- 早川純夫『誰も書かなかった日本史』(日本文芸社、1988年)
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