これは慶長20年(1615年)、大阪夏の陣での徳川との決戦を前にした軍議でのことである。(『常山紀談』『名将言行録』より)
第一の席に長宗我部盛親、第二の席に真田幸村、その次に毛利勝永が列座した。
── 大阪城 ──
こたびの決戦をいかにすればよいのか、皆の考えが聞きたい。
まずは長宗我部殿から申されませ。
・・いや、真田殿でなくてはこのような場で意見を言いだせる者がいるとも思えぬ。まずは真田殿が。
・・・ならば申し上げます。
昨年は我が大阪城は堅固であり、兵糧も蓄えられておりました。日数が経てば必ずや西国の者に大阪に心を寄せる者、敵方で心変わりをする者も現れるだろうと思っていたところに、意外にも和平となって大阪城の堀は埋立てられてしまいました。それ故、城を守る方法はないかと存じます。
ただ城外に討って出るのならば、秀頼公がご出馬され、伏見城を攻め落としてすぐに上洛、洛外を焼き払い、宇治・瀬田の橋を引き落とし、所々の要害を守備し、まずは洛中の政治を御取り計らいください。
その後、勢いによって再び軍議を行うべきかと。もしご運が尽きたとしても、ご上洛なさって一度でも"天下の主"と号して洛中の政務を執り行なわれましたならば、後代の名聞もこれ以上のものはありますまい。
・・・なるほど。確かにそのとおりだ。
幸村の意見に長宗我部盛親をはじめとして皆が同意したが、大野治長だけが "秀頼公の出馬は軽々しい行動である" として納得しない様子を見せたため、幸村の案は議決せずに軍議は終了してしまった。
しばらくして人質に出されていた大野治長の母が返された頃、徳川方の軍勢が伏見まできたとの噂が届くと、これを受けて再び豊臣方の軍議が開かれることとなった。
最初、またも長宗我部に発言を譲られた幸村が進み出て言った。
家康の戦はいつも勢いに任せ、攻め込んでくると聞いておりますが、まことにその通りだと存じます。
そのワケは、伏見に着陣しながら軍兵の疲れを休めることもなく、そのまま茶臼山まで押し寄せようというのは、あまりにも急ぎすぎているかと。
伏見から大和路へ押し出してくるには、その行程は十三里(=約52キロ)ですから、敵はますます疲れることでしょう。
そこから考えてみますと、明日の夜には徳川はどんなことがあっても冑を枕にしてひと眠りするかと。これこそ夜討ちの絶好の機会にあたっていると存じます。拙者がむかっていき、一挙に勝敗を決しましょう。
他の牢人A:さすがは真田殿!
他の牢人B:それなら一気に徳川をたたきつぶせそうじゃ~
ほかに意見のあるものはおるか?
こうした中、今度は後藤又兵衛が進み出て言った。
真田殿の考えはいかにもよろしいかと存じます。
しかしながら、真田殿を夜討ちの大将とするのは、万に一つでも討ち死になさるようなとき、諸人は落胆するでありましょう。そもそもこのたび、諸国の牢人どもがこの大阪に馳せ参じたのは、ひとえに真田殿を目当てにやってきているのです。
ええっ!?
そのようなわけで夜討ちならこの又兵衛が引き受けましょう。
ともかくここは拙者が参ります。
あとの戦が大事でござる。是非とも真田殿は残り留まられよ!
このように争論となり、結局は決着がつかずに夜討ちは中止となってしまったのである。