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  • 徳川家康
 2019/05/06

「松平広忠」一族の内訌で苦難の人生を歩んだ家康の父

岡崎市鴨田町の大樹寺内にある松平広忠の墓(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%83%E5%BF%A0" target="_blank">wikipedia</a>)
岡崎市鴨田町の大樹寺内にある松平広忠の墓(出所:wikipedia

豊臣秀吉に代わって天下を治めた江戸幕府初代将軍・徳川家康は、当然のことながら有名ですが、その父親である「松平広忠」についてはあまり知られていません。わずか24歳という若さで亡くなっているからです。

今回は広忠の短い生涯に何があったのかについてお伝えしていきます。(文=ろひもと 理穂)

父親の死と逃亡

松平清康の活躍ぶり

安城松平氏は広忠の父・松平清康の代になってから急速に勢力を拡大していきます。西三河一帯だけではなく、享禄2年(1529年)には東三河も平定し、三河国を統一しました。

広忠はこの清康の嫡男として大永6年(1526年)に誕生しています。幼名は諸説あり、竹千代や千松、千松丸、仙千代などがあります。

清康の後継者として寄せられる期待も大きかったことでしょう。順調にいけば広忠は、三河国の統治者となるはずだったのです。しかし、広忠が10歳のときに父清康が亡くなってしまいます。

森山崩れ

そもそも松平氏6代目当主には、信忠の弟である松平信定を推す声が多かったのです。それだけの器量が信定にはあったようです。

松平広忠の関連略系図
松平広忠の関連略系図

信定は当主にはなれませんでしたが、甥である清康の三河国統一を支えていきます。しかし、信定の合戦の不手際を清康が罵倒したために両者の関係に亀裂が生じます。

天文4年(1535年)、清康は尾張国へ侵攻し、織田信光の守山城を攻めました。ここで清康は家臣である阿部正豊に斬られて亡くなってしまいます。一説には正豊が織田氏への寝返りを疑われたためとも、信定が仕掛けた陰謀だったとも伝わっています。真相ははっきりわかっていませんが、この「森山崩れ」(守山崩れ)で、広忠の人生は大きく変わってしまいます。

伊勢国へ逃亡

好機と見た信定は松平氏当主の座を奪うために、清康が本拠地にしていた岡崎城を占領してしまいます。10歳だった広忠は命を狙われることになりますが、家臣である阿部定吉に連れられて三河国を逃れました。この定吉は、清康を殺害した正豊の父親です。息子の暴挙を聞き、自害しようとしましたが、広忠が止めたと伝わっています。そして今度はその定吉が広忠を救ったのです。

広忠は三河国を脱出し、三河国東条城城主である吉良持広の助けもあって、紀伊国神戸に隠れました。岡崎城には城代として清康の弟である松平信孝を入れ、信定は自らの拠点である碧海郡上野城に戻っています。

こうして広忠は父親を失い、三河国は一族である信定に奪われてしまったのです。

今川の庇護を受け、岡崎城に帰還

今川氏の庇護を受ける

ここからの広忠の動きは史料によって時期の記され方が変わってきますが、『松平記』『御年譜附尾』『徳川記』によると、天文5年(1536年)春頃には広忠は、伊勢国の地で、持広を烏帽子親として元服し、広忠と名乗っています。

広忠は岡崎城の奪還を願いますが、家臣も信定に奪われており、兵力がありません。そこで正吉や持広が駿河国の戦国大名である今川氏を頼ることを勧めます。今川氏の当主・今川義元は広忠の願いを聞き入れました。

広忠は今川氏の庇護のもと、三河国の茂呂城に入ります。

一説に信定はこの時点で既に尾張国の戦国大名・織田信秀の支配下に入っていたとされています。広忠に協力する今川氏と信定に協力する織田氏は、こうして三河国の支配を巡って争うのです。

岡崎城に帰還

天文6年(1537年)、広忠を支持する者が増えてきたことを知った信定は、家臣を伊賀八幡宮に集めて起請文を書かせています。中でも大久保氏当主である大久保忠俊には7枚の起請文を三度に渡って書かせたそうです。

しかし、忠俊は広忠の帰りを待っていました。

同年5月には信定は広忠の茂呂城を攻撃していますが、このとき忠俊は自分の気持ちを書面にしたためて城中に矢文を射て広忠に伝えます。さらに広忠を岡崎城に迎え入れる考えを岡崎城城代の信孝や他の譜代家臣らに伝え、皆から同意を得ます。

こうして6月には広忠の岡崎城帰還が成立。広忠は今川氏と三河国の国衆らの力によって岡崎城を奪還することができたのです。

以後、広忠を岡崎城に迎え入れた信孝、忠俊、そして長く広忠を保護してきた正吉といった家臣が力を持ちました。ちなみに敵対していた信定も降伏し、広忠に仕えていますがまもなく亡くなっています。

織田氏との抗争

三木城を陥落させる

岡崎城に入った広忠でしたが、すぐにまた戦いが始まります。尾張国の織田氏との過酷な領土争いです。天文9年(1540年)には三河国安祥城を信秀に攻められ奪われています。

天文10年(1541年)、広忠は、尾張国小川城城主で尾張国と三河国の国境に領地を持つ水野忠政の娘を娶りました。家康の母親となる「於大の方」です。家康(竹千代)は翌年の天文11年(1542年)に誕生しています。

そして広忠は織田氏だけではなく、またも一族と争うことになってしまいました。相手は岡崎城奪還に協力してくれた信孝です。広忠は信孝を排除する意思はありませんでしたが、勢力を拡大していく信孝を怖れた広忠の家臣たちが押し切った格好になっています。信孝が駿河国の義元のもとに出向いた際に、その留守を突いて三木城を陥落させたのです。

信孝は明確に広忠に反旗を翻したわけではありませんので、当然のように抗議し、義元にも訴えましたが聞き入れてもらえず、やむなく織田氏に臣従し、三河国大岡城(山崎城)に入りました。

幼少の家康を人質に出す

ここで広忠の義父である忠政が亡くなり、家督を嫡男の水野信元が継ぐと、方針を変えて織田氏に加担しました。やむなく広忠は水野氏との同盟を破棄し、於大の方と離縁します。織田氏の勢いは強く、広忠は領土を守るため、今川氏に服従するしか道がありませんでした。そのために嫡男で6歳の家康を人質として差し出すことになったのです。

しかし家康を護送する最中に田原城城主である戸田康先の裏切りにあって、家康の身柄は織田氏に渡ってしまいます。直後に田原城は義元に攻められ、戸田氏は滅んでいます。

家康という絶好の人質を得た信秀は、広忠に対して執拗に今川氏との断交を迫られましたが、広忠はこれに応じませんでした。嫡男の命よりも今川氏との繋がりを重要視したのです。

突如おとずれた謎の死

美濃国の斉藤氏と姻戚関係を結んだ織田氏は、天文17年(1548年)、岡崎城を陥落させるべく侵攻してきます。義元も太原雪斎を総大将として、西三河に援軍を送りました。「小豆坂の戦い」です。広忠も岡崎城から出陣し、織田氏と戦っています。結果は今川氏の大勝で終わりました。

この戦いの後、まもなくして信孝が岡崎城を陥落させるべく出陣しましたが、耳取縄手で広忠勢の矢に当たり亡くなっています。『三河物語』によれば、叔父・信孝の首を見た広忠は号泣し、信孝を追放したあげくに命まで奪ってしまった無慈悲を嘆いたといいます。

そんな広忠も翌年の天文18年(1549年)には24歳の若さで亡くなっています。死因ははっきりとわかっておらず、病死説や暗殺説、戦死説など謎に包まれています。

  • 病死説(『三河物語』『松平記』など)
  • 家臣の岩松八弥(片目弥八)によって刺殺されたとする説。(『岡崎領主古記』)
  • 一揆によって殺害されたとする説。(『三河東泉記』)

近年では岩松八弥による刺殺説が有力なようです。仮に家臣に殺されたのだとすると、親子二代に渡って家臣に背かれて命を落としたということです。

まとめ

広忠亡き後、義元は雪斎を派遣してすぐに岡崎城を接収しています。雪斎は安祥城を攻めて信秀の息子である信広を捕らえ、家康の身柄との人質交換を行いました。ここから三河国は今川氏の属領として扱われることになるのです。

広忠が生きていれば、織田氏と松平氏の同盟は成立しなかったでしょう。信長と家康が戦い、どちらかが滅んでいたかもしれません。

それにしても、このような危機的状況から家康が天下を獲るわけですから、実に不思議な運命です。清康、広忠が培った三河国の国衆との絆が家康の再起に大きな力となったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 北島正元編『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年)
  • 本多隆成 『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)
  • 小和田哲男『詳細図説 家康記』(新人物往来社、2010年)
  • 小和田哲男編『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)



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