三河平定を目前に暗殺された「松平清康」。家康が憧れた祖父の波乱万丈人生とは

松平清康の像(随念寺蔵、出典:wikipedia)
松平清康の像(随念寺蔵、出典:wikipedia)
徳川家康は元服後、何度も名前を変えています。しかし、氏でさえ松平から徳川に変わっているのに、2度目の改名以降使い続けたのが「康」の字です。この字には徳川家康にとって大きな意味がありました。憧れの人物の名前からもらった一字なのです。

 その人物の名は松平清康(まつだいら きよやす)。家康の祖父にあたる人物です。今回は、家康が憧れた祖父・松平清康の波乱万丈な生涯について考察していきます。

松平清康の出自

 徳川家康の元服後の初名は松平元信です。これは今川義元の人質となっていたため、彼の一字を受けて元信としています。しかし、その後松平元康に改名しています。この改名した時に入れた「康」の字が、尊敬する祖父・松平清康の一字をもらったものでした。

 この「康」の字は今川義元から独立した後の名前である家康にも受け継がれ、生涯の名前となりました。それほど尊敬した松平清康とはどういう人物なのでしょうか。

 松平清康は松平信忠の子として、永正10年(1510)または同11年(1511)に生まれました。『徳川正統記』などは永正10年説、『朝野旧聞裒藁』などは永正11年説を唱えています。

どちらも同時代史料ではありませんので、どちらが正確かはわかりません。一般には永正11年説の方が信頼されています。母親は大河内但馬守満成の娘で岩蔵殿と言われています。

 清康の父・信忠は清康が生まれた前後に安城松平氏の家督を受け継いでいます。しかし、清康が元服したばかりの大永3年(1523)に清康に家督を譲って隠居しています。

『新編 岡崎市史 中世』によれば、信忠は「寺社を敬わず」「不器用者」で「ごうき」なためとされています。『松平氏由緒書』には信忠を隠居させるため、一族の松平勝茂という人物を中心に一味神水まで行ったと書かれています。一味神水は中世期に集団が神に誓って行動を行う時に行う儀式で、一揆や反乱、同盟などでしばしば行われたものです。

 これらの内容は『三河物語』などに記されているものですが、『三河松平一族』を執筆した平野明夫氏は信忠の論功行賞における不備を指摘しています。永正8年(1508)に松平一族は岩津を今川氏に攻められ、岩津の松平一族が全滅に近い被害を受けています。その後、松平信忠は今川氏をなんとか追い返していますが、岩津の論功行賞で失敗したのではないかと指摘しています。

 三河武士は「御恩と奉公」についてかなり厳格で、中央集権的な領主を嫌う傾向がありました。この傾向は徳川家康が関東に移封されるまで続きますが、家康の曾祖父もその影響で隠居に追いこまれた可能性が高いのです。

松平氏の略系図。松平清康は安城(安祥)松平氏。
松平氏の略系図。松平清康は安城(安祥)松平氏。

松平清康の最初の敵・岡崎松平氏

 大永3年(1523)、元服したばかりで現在であれば中学生の年齢である清康が安城松平氏の当主となりました。初名は清孝と名乗っていましたが、途中から清康と名前を変えています。この安城松平氏は周辺にライバルといえる他の松平氏がいました。それが岡崎松平(大草松平)氏です。

 徳川家康の生まれた岡崎城ですが、これを築いたのが清康です。この当時は敵対していた岡崎松平氏の所領でした。当主は松平信貞といい、のちに家康の家臣となる西郷氏や水野氏と関係が深かったようです。

 清康はまず、この松平信貞を攻めます。家督を継いだ翌年には岡崎松平氏の山中城を攻め、城を放棄した松平信貞が岡崎城へと逃げこむと、その後、清康は交渉によって岡崎城を手に入れました。大永5年(1525)5月14日に三河北部の足助鈴木氏を攻め、降伏させたと言われています。

これは『三州八代記古伝集』にのみ記録がありますが、同時期に妹(年齢的に姉の説も有力です)が足助鈴木氏に嫁いでおり、清康の傘下に下ったのは間違いありません。

 ちなみに、この足助鈴木氏に嫁いだ妹(随念院)が清康の死で離縁された後、岡崎に帰ってきて満1歳だった徳川家康の養育を任されています。家康は1歳で両親の離縁により母親と離れ離れになっており、大叔母に育てられたのです。その後も今川の人質となった家康に代わって岡崎に留まり、岡崎城を守っていたと伝わっています。

 清康に憧れた理由の1つに、この大叔母との縁があったのは間違いないでしょう。

三河統一への戦い

 享禄2年(1529)には三河東部への攻勢を強めます。当時対立していた元室町幕府の三河守護の一族である西条吉良氏に味方する城を次々と攻略していきます。

 清康は東条吉良氏という、もう1つの守護一族と協力しており、清康と対立する吉良氏と戦ったわけです。ちなみに、忠臣蔵で有名な吉良上野介は西条吉良氏の末裔です。室町時代まで遡れば、徳川将軍家の上司だったということになります。

松平清康関連マップ。青は清康が支配した城。

 享禄2年(1529)に小島城、翌年には宇利城と吉田城という諸城を次々と攻めて降伏させます。吉田城落城後、田原城の城主だった戸田氏も清康に降伏し、清康は20歳前ながらも三河の大半を統一したのでした。この時期は今川氏が当主氏親の死で混乱しており、今川氏による妨害などがないことを清康は理解していたと思われます。

 しかし、この統一戦の最中に叔父の松平右京が討死してしまいます。この原因となったのが、桜井松平氏の松平信定が合戦に参加せず、戦場で傍観していたためでした。清康はこれを強く叱責したため、松平信定との確執が生まれたと言われています。

桜井松平氏との対立と岡崎新城の築城

 桜井松平氏は徳川家康の代には一門として家康以降徳川将軍家を支えており、信濃上田藩時代に松平忠固が老中に就任しています。そのため、『三河物語』や『朝野旧聞裒藁』などではあまりこの対立時代が詳しく残されていません。しかし、この時代に両者が対立していたのは間違いありません。

 享禄4年(1530)、松平清康は三宅政盛を、翌年には三宅清貞を攻めています。この頃から桜井松平氏が清康に協力している様子はなくなり、敵対はしていなくても関係が悪化している様子が伺えます。

 また、この年に本拠地となる岡崎城を新しく築城し、古い城を破棄しています。桜井松平氏との対立から、本拠地を桜井松平氏の領地から離して城を新築して備えていたのではないかと推測されています。

 天文2年(1533)、清康はさらに三宅一族と寺部鈴木氏を攻めた後、品野で何者かと合戦しています。この合戦相手ですが、前後の事情を見る限り、桜井松平氏の松平信定と戦っていると思われます。

 『朝野旧聞裒藁』では「信濃」とされていますが、恐らく同じ発音の三河国品野のことでしょう。この頃に三河国内で清康と対立しているのは桜井信定くらいしかいないため、必然的に桜井松平氏と戦ったと思われます。

 桜井松平氏はこの頃、本拠地を尾張国守山(森山)城に定めていました。これは、松平信定が正室に織田信長の叔母を迎えており、尾張の織田氏と極めて良好な関係を築いていたためと思われます。

森山崩れ

 天文4年(1535)12月、松平清康は守山(森山)に出陣しました。この際、今川氏への牽制のために武田信玄の父である武田信虎と連携しています。さらに、後に織田信長に降る西美濃三人衆とも連絡をとっています。これは織田信長の父である織田信秀への牽制と見られます。清康は連戦連勝の合戦での強さだけでなく、戦略的な視野も広かったことがわかります。

 この出陣は織田信秀と対立する織田藤左衛門家の支援であったと柴裕之氏は主張しています。しかし、いずれにしても清康は守山城を攻めるために出陣しました。戦況は劣勢でした。周辺は清康に敵対する領主が多く、長期間の滞在は危険だと老臣から注進があったと『朝野旧聞裒藁』では記されています。

 12月4日、清康の陣内で噂が流れます。家臣の1人阿部大蔵という人物が寝返ったという噂が流れるのです。この噂に疑心暗鬼になった清康は、大蔵の息子で従軍していた阿部弥七郎に起請文の提出を迫ります。起請文は神に誓うものですので、当時としてはとても重いものです。

 その翌日の5日。清康は阿部弥七郎に殺されました。満25歳にもなっていない若さでした。原因は勘違いと言われていますが、平野明夫氏は『三河松平一族』で松平信定の謀略が影響しているのでは、と主張しています。厩舎で馬が暴れる騒ぎが発生し、その馬を清康らが宥めたところを阿部弥七郎に殺されたというものです。

 阿部弥七郎は馬の騒ぎを父親が誅殺されたのと勘違いしたと言われていますが、阿部弥七郎がその場で殺されたため真相は不明です。

おわりに

 松平清康の短くも激動の人生ですが、全ては父親が隠居させられたことに始まり、今川・斯波(織田)という大勢力に挟まれながら、三河統一に向けて戦いに明け暮れた生涯だったことがわかります。一時は三河統一間近までいきましたが、身内ともいえる桜井松平氏との対立で統一に失敗。最後は暗殺という結果になってしまったのです。

 若くして清康が死んだことで、松平氏は一気に勢力を失っていくことになります。随念院は足助鈴木氏に離縁され、統一されかけた三河は再びバラバラになりました。幼い松平広忠を中心になんとか家中はまとまろうとしますが、清康ほどのカリスマや戦の才能は広忠にはありませんでした。その結果、家康は苦難の時代を過ごすことになっていくのです。

 西条吉良氏との対立関係から、清康は名乗りを「世良田次郎三郎清康」に変えています。新田源氏系の名門が松平の先祖だと主張することで、西条吉良氏と対立しても問題ないのだとするための言い訳だったと考えられています。しかし、結果としてこの世良田氏の名乗りから徳川への改姓が行われ、徳川家康という名前が完成することになりました。清康の影響は非常に大きかったと言えるでしょう。

 清康を阿部弥七郎が殺害した際に使用されたのは伊勢の刀鍛冶・村正の刀でした。実はこの村正という刀工の別作品は、その後も家康の父である広忠の暗殺にも使われました。さらに家康の長男・徳川信康の切腹にも使われたのが村正でした。そのため徳川氏にとって「呪われた刀」と呼ばれ、徳川氏に対抗する人々の象徴となっていったと伝えられています。


【主な参考文献】
  • 『新編 岡崎市史 2(中世)』(新編岡崎市史編さん委員会、1989年)
  • 青木歳幸『上田藩 シリーズ藩物語』(現代書館、2011年)
  • 大久保忠教『三河物語』(日本戦史会、1890年)
  • 柴裕之『織田氏一門 論集 戦国大名と国衆20』(岩田書院、2016年)
  • 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)
  • 『朝野旧聞裒藁』(東洋書籍出版協会、1923年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。