「俵藤太」と藤原秀郷は別人?同一人物? そのフィクションと実像
- 2025/12/16
俵藤太=秀郷といえば『御伽草子』大ムカデ退治
「俵藤太」の名が登場するのは『御伽草子』(室町物語集)の「俵藤太物語」です。藤原秀郷は「大ムカデ退治で有名」とか「平将門を討伐したことで知られる」と紹介されますが、現在、あまり有名とは言えません。敗者である将門よりも知名度はかなり低いのが実情です。しかし、元々は高い知名度がありました。中世、近世に活躍した武士には秀郷の子孫が数多く、名門武家の始祖として崇拝された存在でした。五人張りの弓、1メートル超えの大矢
まず、大ムカデ退治の伝承を見ていきます。「俵藤太物語」の藤原秀郷は「田原藤太秀郷」の名で登場します。下野国南部(栃木県南部)を拠点とした実像とは違い、田原の里の住人とされています。田原の里は近江国栗太(くりた)郡田原郷(滋賀県栗東市など)か、または山城国綴喜(つづき)郡田原(京都府宇治田原町)と推定されます。
秀郷は京で宮仕えし、父から祖先・中臣鎌足相伝の黄金の霊剣を譲られます。さらに下野に恩賞の土地を得て東国に向かいます。その旅の初っ端、京の出入り口である瀬田の唐橋(滋賀県大津市)に20丈(約60メートル)の大蛇が横たわり、人々の交通を妨げていました。秀郷は少しも恐れず、大蛇の背を踏みつけて悠然と橋を通りました。
その夜、若い女性が秀郷の宿舎を訪ねます。その美女は、自分が唐橋の大蛇だと正体を明かし、琵琶湖のほとりの三上山(滋賀県野洲町)に住む大ムカデが野山や湖水を荒らすので退治してほしいと訴えます。秀郷はこの依頼を引き受けました。
秀郷の武具は鎌足相伝の太刀、五人張りの重籐(しげとう)の弓に3本の矢でした。矢は三年竹の十五束三伏という大矢。五人張りの弓は5人がかりで弦を張った大きな弓で、威力は抜群です。三年竹は生えて3年の堅くて強い竹。十五束三伏は1メートルを超える長さ。束はこぶし一握りの幅、伏は指1本分の幅です。矢は十二束(83センチくらい)が標準なので相当長い矢です。
秀郷の矢は大ムカデの眉間に命中しますが、鉄板に当たったようにはね返り、2本目の矢も同様。最後の3本目は先端に唾(つば)を吐きかけ、「南無八幡大菩薩」と祈って放ちます。見事、大ムカデの眉間を貫通。ムカデは人の唾を嫌うという言い伝えも取り入れられています。秀郷は大ムカデをずたずたに切り刻みました。
米が尽きない俵、巻絹、赤銅の鍋
大ムカデ退治を果たした田原藤太秀郷(藤原秀郷)は多くの財宝を贈られました。美女は龍宮の王女・龍女だったのです。秀郷が得たのは、巻絹2つ、首を結んだ俵、赤銅の鍋。俵は米を取り出しても尽きることがなく、ここから「俵藤太」の異名が生まれ、「田原藤太秀郷」から「俵藤太秀郷」となるのです。
巻絹もいくら使っても尽きることがなく、赤銅の鍋も望む食べ物が出てくるという不思議なもの。さらに龍女は秀郷を湖水の中の龍宮に連れていき、盛大にもてなします。
ここで龍王は秀郷に引き出物を授けます。黄金札(こがねざね)の鎧、黄金作りの太刀を与え、「これで朝敵を滅ぼして将軍になりなさい」と言います。「俵藤太物語」の後半部分、平将門討伐のエピソードにつながり、鎮守府将軍の地位を得たことも示唆されています。
また、「日本国の宝となしたまえ」と龍王から与えられた釣り鐘は園城寺(大津市)に寄進されます。
「日光山縁起」に大ムカデ退治の原型?
「俵藤太物語」の大ムカデ退治は京に近い滋賀県が舞台ですが、よく似た伝承が藤原秀郷の地元・栃木県にあります。日光山(日光権現、日光二荒山神社)の由来に関わる「日光山縁起」です。日光は秀郷が活動した地域とは離れていますが、同じ下野国にこのような伝承があることは非常に興味深いところです。日光神戦譚の大蛇 VS 大ムカデ
「日光山縁起」は前半が公家・有宇(ありう)中将の貴種流離譚、後半が日光と赤城の神戦譚です。この神戦譚は奥日光・中禅寺湖北部の湿原で下野(栃木県)の二荒山と上野(群馬県)の赤城山の神が対決し、戦場ケ原(栃木県日光市)の地名の由来となります。日光山の神・日光権現は大蛇に、赤城山の神・赤城大明神は大ムカデに姿を変え、中禅寺湖の領有を争い、日光権現となった有宇中将の孫・小野猿丸が日光権現を助けて赤城大明神の化身・大ムカデの目を射抜いて退治するという話です。猿丸は日光権現に国を譲られて舞い歌い、中禅寺湖東岸の「歌ケ浜」という地名の由来になっています。
また、この戦いは日光二荒山神社の行事「武射祭(むしゃさい)」として語り継がれ、現在も中禅寺湖近くの同神社中宮祠(ちゅうぐうし)で毎年1月4日に営まれます。
小野猿丸は三十六歌仙の猿丸大夫とされています。猿丸と秀郷の関連はありませんが、大蛇と大ムカデが戦い、武芸に優れた勇者が大蛇を助けて大ムカデを退治する物語の構図は「俵藤太物語」の源流と想像できます。
宇都宮の「百目鬼退治」と各地の民話
藤原秀郷が登場する伝説の多くは「田原藤太」の名を冠しています。それだけ、この異名は広く浸透していました。「俵藤太物語」も「田原藤太」から「俵藤太」と呼び名を変えたように、「田原藤太」は秀郷伝説の原点にある異名です。そして、秀郷が化け物を退治する伝説は大ムカデ退治だけではありません。栃木県宇都宮市には百目鬼(どうめき)伝説が伝わっています。
100の目持つ鬼を倒した秀郷
百目鬼伝説の舞台は栃木県庁の間近という宇都宮市の中心部で、百目鬼通りという地名も残っています。宇都宮は秀郷が活動した栃木県南部とはやや離れていますが、宇都宮二荒山神社には平将門討伐前に秀郷が必勝祈願をした伝承があり、宇都宮城にも秀郷築城伝説があります。ただ、秀郷と宇都宮城や宇都宮氏に直接的な関係はなく、あくまでも伝承にすぎません。百目鬼は100の目を持ち、3メートル以上の巨体を持つ鬼で、どのような悪さをしていたのか不明ですが、秀郷は突然現れた老人から百目鬼退治を依頼されます。
秀郷は弓を満月のように引き絞って矢を放ち、百目鬼を倒します。胸板を貫通したとも、急所の目を射抜いたとも話によって多少違いますが、百目鬼はすごい臭気と炎を上げ、秀郷も近づくことはできず、翌日に見てみると、その場所は雷でも落ちたかのように黒焦げになっていました。
なお、この民話には400年後の続きもあります。
愛娘の悲恋、将門亡霊の民話も
藤原秀郷が登場する民話は地元・栃木県佐野市にも多く、秀郷の子孫・佐野氏の居城で、堅牢な山城として名高い唐沢山城には秀郷による築城伝説があります。また、唐沢山城の井戸は秀郷に招かれた渡来人の龍七、龍八兄弟が掘り当てたという民話も残っています。佐野の伝統産業・天明鋳物も秀郷が河内国丹南から鋳物師5人を招き、武器を鋳造させたという伝承が始まりとされています。このほか、佐野市内の寺院や神社の由来として、秀郷の家臣で、菅原道真の弟子だった男と秀郷の愛娘・富士姫の悲恋や、病気で重篤となった秀郷の末娘・菊姫を平将門の亡霊が救う民話があります。
消えた藤姓足利氏 秀郷伝説との関係は
数々の「俵藤太」伝説は藤原秀郷の子孫の有力武家が関係していると思われます。秀郷の子孫は多く、それぞれ全国各地で拠点を構えていました。秀郷流藤原氏といい、源氏・平氏に並ぶ名門武家の系統です。その中で秀郷流藤原氏の主流を自任したい武家、始祖・秀郷を誇りにする武家が地元と秀郷の伝承を結びつけ、それを継承、流布したと考えられます。大ムカデ退治伝説と近江・蒲生氏
「俵藤太物語」の大ムカデ退治の舞台は近江。この地を拠点とした蒲生氏の関係が気になるところです。蒲生氏と藤原秀郷を結ぶ系図は何種類かあり、確かでない部分もあります。源頼朝によって近江に領地を与えられたとする系図もあり、近江に根付く過程で、藤原秀郷の実像と離れた田原藤太(俵藤太)を主人公とする物語が形成されたのではないでしょうか。
戦国時代の蒲生氏は近江・六角氏の重臣でしたが、六角氏没落後は織田信長に仕え、蒲生氏郷は織田信長の娘婿になります。豊臣秀吉配下でも戦功を挙げ、会津92万石の大名に成長。江戸時代には当主の早世が続いて断絶しますが、戦国時代に最も活躍した秀郷流の武将ですしました。なお、蒲生氏郷の養女は盛岡藩主・南部利直の妻となり、「むかで姫」と呼ばれたように秀郷の伝承が意識されていることが分かります。
ただ、「俵藤太物語」は末尾で、秀郷の子孫として「小山の二郎、宇都宮の三郎、足利の四郎、結城の五郎」と関東の秀郷流の武家が並び、蒲生氏は入っていません。「俵藤太物語」の前半と後半は元々、違う物語だったのか、関東の秀郷流名門武家に対するコンプレックスなのか、不明です。なお、宇都宮氏は秀郷流ではありません。
「田原又太郎」足利忠綱の最期
蒲生氏のほかにも藤原秀郷伝来の宝物を家宝とするなど、秀郷の子孫という意識が強い武家はほかにも多いのですが、源平合戦の敗者として滅亡した藤姓足利氏も秀郷の伝説形成の謎を探るうえで欠かせない一族です。藤姓足利氏は現在の栃木県足利市周辺を拠点としていましたが、後に足利尊氏を輩出する源姓足利氏とは別の一族です。藤姓足利氏の足利忠綱は『平家物語』に宇治川渡河の名場面があります。足利忠綱は平家側の武将で、源平合戦での敗退後、最終的な消息も不明ですが、その最期に関する伝承、民話はいくつかあります。
一つは敵に追われ、栃木県鹿沼市の山間部に逃亡する伝承。その地には足利忠綱を田原又太郎忠綱として祀る口粟野神社があり、周辺に田原神社がいくつかあります。秀郷子孫が「田原」を名乗っているのです。
また、京都府宇治田原町には足利忠綱の墓とされる石碑があり、この地で自刃したとか、源平が戦った宇治川で負傷後、この地で息絶えたという伝承があります。これらの伝承も足利忠綱と「田原」の関係を示唆しています。
おわりに
「俵藤太」は後世の物語で出てくる藤原秀郷の異名ですが、本人が名乗ったわけではなく、創作されたフィクションの秀郷の姿を語る機能があると考えられます。つまり、実像としての藤原秀郷、フィクションとしての俵藤太と捉えてもいいかもしれません。ただ、後世の人々は「俵藤太」と「藤原秀郷」を同一人物とみていました。そして、大ムカデ退治の舞台、近江の地に足場を持っていた蒲生氏が伝説の広がりに関係していると思われます。また、秀郷の子孫の一人・足利忠綱との「田原」の関係も伝説の発生につながった可能性も想像できます。
【参考文献】
- 野口実『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館、2001年)
- 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)
- 田嶋一夫ほか校注『新日本古典文学大系55 室町物語集下』(岩波書店、1992年)
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