「生類憐れみの令」の裏側で… 5代将軍・徳川綱吉が歩んだ背徳の性遍歴

 500年続いた徳川幕府は、多くの個性的な将軍を輩出してきました。享保の改革を断行し江戸財政を立て直した8代将軍・徳川吉宗や、正徳の治で誉れ高い6代将軍・徳川家宣に代表される名君がいる一方で、暗君もまた多く、5代将軍・徳川綱吉は生類憐れみの令を発したことで「犬公方」と嘲笑されました。

 そんな綱吉の悪評を決定付けたのが、性的に無軌道な数々の乱行でした。今回は綱吉のふしだらな性遍歴に焦点を当て、その実態を深堀りします。

綱吉は男女両刀の性豪だった

 後世における徳川綱吉の評価は分かれます。「生類憐れみの令」で民を苦しめた暗君と見なす者がいる一方、武家諸法度を整えて元禄文化を花開かせた名君と支持する人もいます。意見が一致するのは下半身事情に関してで、これは擁護の余地がありません。

 そもそも、父である3代将軍・家光も、将軍の最大の御勤めである子作りを疎かにし、男色に耽っていました。家光の女嫌いは徹底しており、吹上御苑に「中の丸御殿」と呼ばれる別邸をわざわざ造り、そこに妻子を遠ざけたほど。正室の鷹司孝子は面会すら許されず、本来なら「御台所殿」と敬われるべき立場でありながら、「中の丸殿」と蔑まれていました。男女両方の側室を囲っていた事でも有名ですが、通っていたのはもっぱら美少年の方だったとか。

 そんな父を見て育った綱吉は性欲絶倫なバイセクシャルとなり、ひとたび気に入れば見境なく手を出しました。江戸中期の儒学者・太宰春台の『三王外記』によれば、綱吉の近習に選ばれた大名たちは皆美少年で、男の愛人を兼ねていたといいます。主と枕を共にした近習は総勢24人に上り、側用人・柳沢吉保の屋敷で寝起きしていました。

 近習たちは柳沢の監視下に置かれ、夕暮れ以降に綱吉から声がかかれば登城し、夜の相手を務めました。綱吉の毒牙にかかったのは独身だけでなく、既婚者も妻子と引き離されて柳沢の別邸に監禁されたそうです。柳沢家の規則は大変厳しく、私語や外出に制限が掛かるばかりか、親族との面会や文通さえも禁じられました。旗本や御家人、陪臣、浪人の子息でも美形であれば構わず召し抱えたというのですから、もし史実ならば、その無節操ぶりにあっけにとられますね。

家臣の妻と娘を同時に…エスカレートする乱行

 男色に限らず、女性に対しても鬼畜としか言いようのない行為を繰り返すのが綱吉の悪質な点でした。特に好んだのが、家臣の妻女を寝取ること。側用人・牧野成貞の妻・阿久里と、その娘・安の2人を同時に手籠めにしています。当時、安はすでに嫁いでいましたが、成貞は主君の仕打ちを黙認せざるを得ず、世間からは「牧野殿の献妻」と冷やかされました。寝取られ夫の心痛を思うといたたまれません。

 安の夫である婿養子の成時は、この仕打ちに激怒して自害。哀れな安は悲嘆に暮れます。この安こそ、ドラマ『大奥~華の乱~』で内山理名が演じた安子のモデルです。

 ドラマとは異なり、安のその後の消息は定かではありません。大奥入りしたとも言われますが、21歳という若さで他界した史実を鑑みると、幸せな余生を送ったとは考えにくいでしょう。成貞もさすがに堪えたのか、成時の自害後は養子をとらず、牧野家は断絶しました。

 この顛末に思うところがあったのか、綱吉はのちに阿久里の兄の子を養子にすることで、独りよがりな罪滅ぼしをしました。主君に妻と娘を捧げた成貞は、当初の5千石から累進出世を遂げ、最終的に7万3千石の大名となりましたが、全く羨ましいとは思えません。

牧野成貞は江戸幕府で初めての側用人として初期の綱吉政権を支えた
牧野成貞は江戸幕府で初めての側用人として初期の綱吉政権を支えた

 一方、成貞と交代で側用人に就任した柳沢吉保は、積極的に自身の愛人を差し出し、綱吉の心を掴むことに成功します。側用人とは、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった「松の廊下事件」以降に創設された役職で、将軍の伝令のようなもの。浅野内匠頭を殺害したのが若年寄・稲葉正休だったため、将軍の身の安全を考え、老中と物理的に引き離す目的がありました。率直に言えば、なくてもいいようなポストだからこそ、将軍のお気に入りを任せていたのでしょう。

柳沢吉保は元愛人?鷹司信子を嫉妬に狂わせた隠し子の噂

 柳沢と綱吉は、館林藩時代からの学問上の師弟関係にありました。早い話が先輩後輩の間柄です。その頃から愛人関係にあったようで、綱吉は熱心に柳沢邸に通っていました。異例のスピード出世を遂げたのは主君の寵愛を得たからだというのも、あながち邪推ではありません。将軍が後ろ盾になってくれれば、専横政治が許されたのも納得ですね。

小姓から異例の出世を遂げ、最終的には大老格として幕政を主導した柳沢吉保
小姓から異例の出世を遂げ、最終的には大老格として幕政を主導した柳沢吉保

 綱吉と吉保の蜜月は、綱吉が亡くなる宝永6年(1709)まで続きました。これは良識ある人々を大いに眉をひそめさせました。ここで気になるのが、正室・鷹司信子の存在です。日頃から女遊びが絶えなかった綱吉でしたが、意外にも信子とは夫婦円満で、2人仲良く能や祭りを見物しに行っていたそうです。

 そんな信子でも我慢できなかったのが、柳沢の子・吉里を養子にし、次期将軍にしようとしていたことです。何が問題かというと、綱吉の側室・染子は元は柳沢の側室で、吉里は綱吉の隠し子ではないかと噂されていたからです。

 結局、宝永6年(1709)に綱吉が成人麻疹で急逝したことでこの計画は白紙に戻りました。しかし、もし6代将軍が吉里になっていたら、柳沢の傀儡政権に堕ちるのは避けられなかったでしょう。信子はさぞハラハラしたに違いありません。

 綱吉の死から1ヶ月後、信子も夫と同じ成人麻疹でこの世を去りました。2人の死と時を同じくして、江戸城にはある怪談が生まれます。それが「開かずの宇治の間」です。そこは、吉里を養子にすることに反対した信子が、思い余って綱吉を刺殺した現場であり、信子が無理心中で果てた後、彼女を手伝った御年寄の霊が出ると噂されました。「宇治の間」の話は後世の創作と見る向きが強いですが、綱吉の常軌を逸した行いを知っていると、「ありそうな話だな」と思ってしまいます。

おわりに

 以上、徳川綱吉の爛れた性遍歴をご紹介しました。権力に不自由しない立場だからこそ、行き過ぎてしまったのかもしれません。しかし、理不尽な仕打ちを受けた人々の恨みや辛さは決して消えません。綱吉が暗君と非難される所以は、その権力を笠に着て、目下の者を踏みにじる残酷さそのものにあったのでしょうね。


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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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