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最も評判の悪い徳川五代将軍、徳川綱吉を再検証する

徳川将軍15代の中で最も悪評が高いのが5代、徳川綱吉です。生類憐みの令という、おふれを出し、世の人々を苦しませたというのは常識となっています。

徳川将軍15人の中で、誰でもすぐに出て来るのは初代の家康、2代秀忠、3代家光、5代綱吉、8代吉宗、15代慶喜くらいで他の将軍の名前を挙げられる方は多くはないでしょう。この6人の中で、ただ一人だけ「悪名の高い」ことで知られている綱吉ですが、実は現代に伝わる綱吉の評判は多分に意図的に捻じ曲げられている部分があるのです。

今回は、なぜそんなことが起こったのかを解説してみたいと思います。

一般的に知られている綱吉の伝説


  • 跡継ぎの出来ない綱吉を心配した母の桂昌院は、隆光という僧に相談した所、隆光は「生類を大切にするおふれを出せば跡継ぎができましょうぞ」と桂昌院に伝える。
  • それを信じた桂昌院は綱吉に「生類憐みの令」を出させる。このおふれは厳格に運用され、頬を蚊に刺された小姓が蚊を叩きつぶしたら斬首刑にされた。
  • また、側用人として柳沢吉保を用いた。柳沢吉保は綱吉を巧妙にもてなし、ご機嫌を取り私腹を肥やしていく、はては将軍職を奪おうと企てる…

上記のような所が、良く知られている綱吉関係の逸話です。

テレビの人気番組「水戸黄門」では、柳沢吉保は何度も悪の元凶として描かれ、そんな人物を重用している綱吉は大馬鹿者という設定になっています。

実際はどうだったのか、というと…

実は生類憐みの令が発布されたのは隆光が桂昌院と知り合う数年以上前ですので、そもそも隆光は関係無いことは明らかです。また幕府に「側用人」という役職が出来るのは8代吉宗の時からなので、綱吉の時代には「側用人」という役職は、まだ存在しませんでした。

側用人というのは8代吉宗が紀伊藩の藩主から将軍職に就く際に紀伊から連れてきたブレーンに対して作った役職で大岡忠相(いわゆる「大岡越前」)もその一人です。また「頬を蚊に刺された小姓が蚊を叩きつぶしたら斬首刑にされた」という逸話は誰が作ったのか知りませんが、ある程度、信憑性の高い資料には一切、登場しません。

綱吉の時代に柳沢吉保が重用されたのは事実ですが、江戸時代を通じて、彼ほど誤解を受けている人物はいないだろうと思われる位、根も葉もない悪い噂がふりまかれてしまった人物なのです。

一体、何でこんなことになってしまったのでしょうか?実は「柳沢吉保悪人説」の起源は古く、まだ吉保が生きていた時代である宝永6年に出版された『日光邯鄲の枕』に始まり、『元宝荘子』『護国女太平記』などの物語本が次々と出版され、その中で柳沢吉保は「天下の大悪人」という役割で登場してくるのです。

いわば、当時のゴシップ本のような物ですが、これが世間に大ウケし、類似の本が次々と出版され、当時、有名な儒学者であった太宰春台も『三王外記』という本を出して吉保を他の本と同様に大悪人という扱いをしているのです。

一般庶民から見れば春台のような高名な学者が書いたことだから本当なのだろうと信じてしまったのですが、後に大学頭を務めた林述斉は『三王外記』について以下のように述べています。

「無かった事を書く罪とは、どれほど深いものだろうか。このようなことをするのは、どういう考えからだろうか。学者と言われるものが、このようなことをするならば人に何を教えるのだろう」

当時、賢人として知られていた池田定常も林述斉に「このような嘘だらけの本は発売禁止にしてはどうか」と言っているくらいです。それに対し、林は「このような妄説を発売禁止にすれば『真実だから禁止にするのだろう』と考えられてしまうかもしれない。少しでも公のものを見れば真実は分かるのだから放っておけばよい」と答えています。

しかし林述斉の見通しは甘かったのです。これらの本は講談のネタにもされ世間に広く流布され、もはや「柳沢吉保=大悪人、徳川綱吉=大馬鹿者」という概念が世間に浸透してしまいました。つまり「一般的に知られている綱吉の伝説」は、こういった嘘八百のゴシップ本が元になっているのです。

※柳沢吉保の肖像(wikipediaより)
※柳沢吉保の肖像(wikipediaより)

エンゲルベルト・ケンペルの意見

オランダ商館付の医師として2年間、長崎の出島に滞在したエンゲルベルト・ケンペルという人物がいました。彼は江戸参府をして、綱吉に謁見もしています。

そして日本誌という本を書こうとしていたのですが、草稿の段階で亡くなってしまいます。しかし死後に、その草稿が出版されました。この本は後に来日するシーボルトにも大きな影響を与えているのですが、その中でケンペルは「生類憐みの令」について以下のように述べています。

1.「生類憐みの令」は動物に適用された法令ではなく、社会的弱者や貧者の保護こそが目的であり、近代の社会福祉立法の先駆であった。

実際に最初に出された生類憐みの令には以下のようなことが書かれているのです。

「親が子を育てる財力が無い場合は役人が子供たちの世話をしなければならない」
「捨て子や子殺しを予防するため、妊婦と7歳以下の子供の氏名を登録させること」
「牢屋の囚人に月に5回は風呂に入らせること。換気もよくすること」

2.生類憐みの令が相次いで出されたのは、法令を骨抜きにしようとする堕落した重臣と綱吉との権力闘争であった。

綱吉は家康以来、伝統として伝わっていた「鷹狩り」を禁止にしました。禁止にした理由は良く分からないのですが、現代のように普通に牛肉や豚肉を食べている時代ではありません。

肉食は一般的ではなかった時代、動物を殺す行為そのものを嫌悪したためかも知れません。その結果、各大名家で鷹狩り用に飼われていた猟犬が捨てられる事態が続出し、江戸の町には野犬が溢れる結果となってしまったのです。

この時期に実際に江戸の町民から野犬をなんとかして欲しいという請願がだされています。そこで綱吉は飼い犬を登録制にしたのですが、行政担当者である役人にとって、これは大きな負担だったので責任者である老中は「犬が逃げて見つからない場合は、他の犬を代わりに登録してもよい。」という解釈を付けることにしました。

この勝手に付けられた解釈を知った綱吉は怒って老中を罷免します。しかし老中と同じく「そんな面倒なことはやりたくない」という重臣が多く、生類憐みの令は何度となく、彼らにより修正発布されます。つまり「骨抜きにしてしまえば、しなくて済む。また悪法として非難が高まれば、取り下げざるを得ないだろう」と考えたようなのです。

そこで「悪法」というイメージを作り上げるために「小姓が頬に止まった蚊を叩いたら斬首された」などのフィクションが作為的に流されたようです。また既に野犬となってしまった犬に対しては大規模な犬小屋が設けられ、そこに収容するようにしました。これは専門の役人を付けたのでスムースに行われ、江戸の街から野犬は減り、町民の怖れも軽減されたのです。

野犬、というと「狂犬病」が心配になりそうですが、当時、日本は鎖国しており、狂犬病はあまり入ってこなかったためか、狂犬病についての記述は見当たりません。

以上がケンペルの意見です。

彼の見方が本当に正しいのかどうかは分かりませんが「一つの見方」として、こんな意見もある、ということは知っておいて良いのではないかと思います。

ただ犬小屋の維持費用は莫大な費用となり幕府の財政を、ひどく圧迫しました。そこで勘定奉行の荻原重秀により貨幣の改鋳(金の含有量を減らすこと)が行われましたが、それでも追い付かない位に犬は毎日、増えていきました。そこで、最終的には近隣の百姓家に引き取ってもらい、引き取ってくれた百姓家には褒美として1か月に1匹当たり銀2匁5分の「御犬養育金」が支給されました。

これにより犬小屋も段々と規模が縮小していき宝永6年には全廃されます。一方、引き受けた百姓家には一定の収入が入るようになり生活の安定につながりました。

徳川綱吉という人物

江戸時代の記録というのは案外に信用できないものが多いのですが、結果から推論できる事実というものはあります。

例えば、それまで全く将軍家では行われなかった能狂言が江戸城内で盛んに行われるようになった、という事実から、どうやら綱吉は能狂言に非常に興味を示したものと思われます。

また、綱吉の時代に井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉などの日本における本格的な作家活動を行う人物が登場してきたこと。尾形光琳、菱川師宣などの絵師の登場、また、この時代に落語の元祖と呼ばれる噺家が現われるなど、それまで無かった新しい文化が綱吉の時代に起こってきたことは注目すべきことだと思われます。

徳川家の家風は元々、質実剛健であり質素であることを良しとしてきました。また3代家光の時代までは、まだ戦国時代の暗い影が残っており、独自の文化が芽生えるような雰囲気ではなかったとも見られます。

しかし5代綱吉の時代である元禄時代には、そういった影もなくなり、いよいよ江戸独自の文化が起こり始めた時代であると言ってよさそうです。つまり「武から文」に世相が変わったと言えるのです。

色々な逸話を信じれば綱吉は強い個性の持ち主であったと思われますが、綱吉の行った施政は決して民衆を蹂躙するようなものではなく、逆に自由な分化が花開くようなものであったと言って良いのではないでしょうか。

綱吉は家康の広げた儒学については人一倍熱心に勉強していた、と伝えられています。そして最初に発布された「生類憐みの令」の内容から察するに、人一倍、正義感の強い公明正大な人物だったのではないか、とも思われるのです。おそらくは儒学の教えが大きく影響していたのでしょう。

赤穂義士の存在が影響を与えた可能性

忠臣蔵というのは江戸時代の芝居小屋では最も、人気のあった作品でした。そして現在でも大石内蔵助を始めとする赤穂義士の存在は日本人の心の箏線に触れるものがあります。つまり赤穂義士は日本人から好かれているのです。そして実際に赤穂義士が吉良上野介の屋敷に討ち入った赤穂事件(あこうじけん)は元禄時代でした。

しかし儒学の精神からすれば、赤穂義士の取った行動は「許されないもの」であり、全員が切腹させられました。そして、その判断を下さざるを得なかった幕府の将軍は徳川綱吉であり、その側近は柳沢吉保だったのです。

忠臣蔵が実話である以上、「赤穂義士を切腹させた連中」という目で見られてもおかしくはありません。しかし将軍を非難する訳にはいかないので柳沢吉保に矛先が向けられたのではないか、とも考えられるのです。そして、柳沢吉保への非難は、そのまま徳川綱吉への批判ともなります。そして芝居小屋では舞台を盛り上げるために派手な脚色も行われました。その結果、二人への非難はどんどん増長していったのではないか、とも考えられるのです。

もちろん、赤穂義士の処遇を決めたのは当時、幕府にいた儒学者達でしたが、少なくとも「その処遇を認めた」ということだけで非難されるには十分な理由だったのではないでしょうか。これは、あくまで想像に過ぎないことですが、何故、いきなり柳沢吉保に対する猛烈な批判が巻き起こったのかを説明する材料が、あまり見当たらない、という点から、一応、可能性という形で記述しておきたいと思います。

※赤穂義士の吉良邸討入りを描いた浮世絵(山崎年信画。wikipediaより)
※赤穂義士の吉良邸討入りを描いた浮世絵(山崎年信画。wikipediaより)

自然災害による可能性

元禄~宝永の時代は元禄関東地震(M8以上)という大正時代の関東大震災よりも大規模な地震、富士山噴火による火山灰の被害など大規模な自然災害が頻繁に起きた時代でもありました。

現代であれば科学的な説明がつけられるでしょうが、江戸時代の儒学を中心とする思考回路では、こういった災害は「不徳の致すところ」と考えられてもおかしくなかったのです。つまり「将軍の人徳、信心が足りないために神様が自然災害を起こして懲らしめている」という見方をする人達も多くいたであろうことは想像に難くありません。

こういった所からも非難の目が注がれた可能性があります。

おわりに

ドラマを作る時に悪役がいるとドラマが組み立てやすくなります。NHKでやっている大河ドラマも制作側は「あくまでフィクションです」と言いますが、見ている視聴者には、ドラマを見ることでいつのまにか善悪が植え付けられてしまう、といった現象があることは否定できません。

大河ドラマは正確な史実に則っているものでは無いと知りながらも、興味を引かれれば、いつのまにか「事実」という形で認識されてしまう可能性も十分にあるのです。そして一度、植え付けられたイメージというものは簡単には払拭できません。

徳川光圀は助さん、格さんを連れて全国漫遊などしていませんから、TVドラマの水戸黄門は完全なフィクションですが、見ているうちに「柳沢は悪い奴だ」「綱吉はダメだ」という気持ちにさせられてしまうのです。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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日月
柳沢吉保も収めた領地では名君で、川越藩時代は領民から「辞めないでほしい」と訴えがあったとか。
人間は清濁併せ呑むものですが、権力者の決定は民の運命を左右するので大変ですね…。
2022/10/04 13:44