金沢文庫と北条実時 私邸に図書館を造った?…日本最古ともいわれる武家の文庫
- 2025/06/04

情報化社会と言われるようになってどれくらい経つでしょうか。大量の情報の中から私たちは知りたいことを探しています。いつの時代も知識が歴史を動かしてきました。
鎌倉時代中期の「金沢文庫」は最古の武士の図書館と言われています。多くの武士や僧侶が蔵書から知識を得て、お互いの情報交換の場所になっていました。しかしながら、この文庫は幕府が造ったのではありません。勉強好きな一人の武士が私邸に本を集めたことからから始まりました。
金沢文庫と、それを造った北条実時(ほうじょう さねとき)について考察します。
鎌倉時代中期の「金沢文庫」は最古の武士の図書館と言われています。多くの武士や僧侶が蔵書から知識を得て、お互いの情報交換の場所になっていました。しかしながら、この文庫は幕府が造ったのではありません。勉強好きな一人の武士が私邸に本を集めたことからから始まりました。
金沢文庫と、それを造った北条実時(ほうじょう さねとき)について考察します。
金沢文庫を造った北条実時
金沢文庫の正式な読みは「かねさわぶんこ」です。金沢というと石川県のイメージがありますが、現在の神奈川県横浜市金沢区にあります。金沢文庫は鎌倉時代の中頃、北条氏の一族(金沢流北条氏)である北条実時が、武蔵国久良木郡六浦荘金沢にある自分の別荘の中に造りました。武士のために作られた図書館と言われていますが、実は幕府の命令ではなく、北条実時が個人の蔵書を集めて私邸に建てた私文庫でした。
北条実時(1224~76)は鎌倉時代中期の武将です。 二代執権・北条義時の孫であり、三代執権・北条泰時にとっては甥っ子にあたります。
実時の父・北条実泰は体が弱く、早くに政治から引退しました。父の職務を継いで実時が小侍所別当になったのは、わずか11才のときでした。「早すぎではないか」と周囲の反対があったのも当然ですが、伯父である執権北条泰時が「この子なら間違いない」と実時を推したのです。
幼いころから利発で勉学に励んでおり、幕府にとっては必要な人材と目をつけたのでしょう。元服も泰時の邸宅で行なわれたそうですから、真面目な甥っ子は泰時にかわいがられていたと推測されます。また、泰時が賢い実時を孫の経時(鎌倉幕府四代執権)の相談相手にしていたことからも信頼度抜群だったのがわかります。
『吾妻鏡』に残る泰時のエピソードに、経時と実時を「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言ったとあります。つまり、水と魚のように切り離せない関係、非常に信頼できる間柄ということでしょう。実時は側近として引付衆を務め、その後も要職に付き、真摯に幕府を支えました。
北条義時
┏━━━━┫
実泰 泰時
┃ ┃
実時 時氏
┃ ┃
顕時 経時
┃
貞顕
※参考:北条実時の略系図
私邸に図書館を
実時は通常は鎌倉の源頼朝の墓所・法華堂前の邸宅に住んでいましたが、金沢地区にも居館を設けます。確かに金沢文庫と鎌倉は地図上で見ると少し距離があります。今でいうセカンドハウスとして、集めていた蔵書を別邸に運ばせていたのです。これは、当時の鎌倉は火事が多かったので大事な蔵書を安全な場所へ移動したと考えられています。実時は文永の役の翌建治元年(1275)に政務を引退し、お気に入りの本を集めた書庫のある六浦荘金沢に住み始めます。既に病だったようで、翌年53才で死去。終の住処で過ごしたのはわずか一年半でした。
金沢文庫の最盛期 ~実時の子孫たち
実時の遺志を継いだのは息子の北条顕時(あきとき)です。顕時は引付衆、評定衆などの幕府の要職についていました。やはり父に似て好学の武将でもあったようです。金沢文庫の最盛期は顕時の子、北条貞顕(さだあき)の時代です。幕府の仕事としては25歳の時に六波羅探題に選ばれ、長い間京都にいました。ということは、京都の公家文化から多大な情報を得たことは言うまでもありません。大陸からの宋版の漢籍などを収集することができ、金沢文庫へ運ばせたのです。金沢文庫は確固たる図書館に仕上がりました。
書物が集まる場は情報の集まるところとなり、金沢文庫は情報の聖地となりました。お互いの情報交換の場にもなったのでしょう。多くの武士や僧侶の来館が絶えなかったそうです。蔵書は漢書や国書など広い分野にわたって収集され、政治・法制・文学・農政・軍学など多岐にわたりました。今の公共図書館のように誰でも利用できるという図書館とは言えませんが、北条氏や一部の関係者、僧侶などに貸出もされたようです。
金沢文庫の図書には蔵書印が押されていました。これは所有権の主張を示した最初と言われています。

北条氏滅亡後の金沢文庫
建武の新政後、執権北条氏が滅亡すると、蔵書の管理は近くにある称名寺に任されました。称名寺は北条実時が私邸に建てた菩提寺です。しかし管理が行き届かなくなり、次第に書物は散逸してしまいます。最終的には武家関係の書物は持ち出され、仏書関係のみが残ったようです。ただ、蔵書印から金沢文庫のものであったという書物が全国あちこちに残されており、これは史実を知る手がかりになりました。
例えば、徳川家康が富士見亭文庫を江戸城に建てたとき、ここに金沢文庫の蔵書を置いたそうです。家康は源頼朝を尊敬しており、鎌倉詣の際に称名寺に立ち寄り、『吾妻鏡』を借りて愛読書としていたのです。しっかり「金沢文庫」の蔵書印があったようです。
源頼朝を尊敬していた徳川家康が『吾妻鏡』を参考に策を練った景を想像すると、金沢文庫の存在は大きく思えますね。蔵書印から加賀の前田綱紀や徳川光圀の手にも渡っていたこともわかります。

おわりに
書物、つまりは情報を残すことをライフワークにした金沢流北条氏一族は、静かなる歴史の立役者ではないでしょうか。温故知新の精神だった北条実時が、現代のネット社会を目の当たりにしたら驚くでしょうね。【主な参考文献】
- 関靖『武家の興学 北条実時一門と金沢文庫』(東京堂、1945年)
- 中村光『北条泰時 北条実時』(北海出版社、1937年)
- 小野則秋『日本文庫史研究』(臨川書店、1988年)
- 神奈川県立金沢文庫公式HP
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