玉縄城主の系譜…北条宗家を軍事面で支えた「玉縄北条氏」の歴史と功績

玉縄城址(神奈川県鎌倉市城廻)にある七曲坂
玉縄城址(神奈川県鎌倉市城廻)にある七曲坂
 小田原城を本拠とし、関東に一大勢力を築き上げた後北条氏(ここからは北条氏と記します)の土台は、一門衆の結束の固さにあります。北条氏当主5代を支えた一門衆の中で、とても重要な役割を果たしたのが「玉縄北条氏」です。

 今回はこの玉縄北条氏の歴史についてお伝えしていきます。

玉縄北条氏の成立

玉縄北条氏の祖は北条為昌

 相模東部にあたる玉縄領は、北条宗瑞(盛時)の二男である北条氏時が治めていましたが、実子がいないため、二代目当主・北条氏綱の三男にあたる北条為昌が代わって治めることになり、以降は玉縄城主を「玉縄殿」と呼ぶようになりました。つまり、為昌が玉縄北条氏初代当主にあたります。

 為昌は氏綱の信が厚く、もともと三浦領や小机領という広大な領地を有しており、さらに天文6年(1537)に扇谷上杉氏の本拠地である河越を攻略してからは河越城の城代も兼任しています。しかし、天文11年(1542)に22歳という若さで亡くなってしまいました。

 ここで玉縄領を受け継いだのが北条綱成です。

「地黄八幡」の闘将・北条綱成
「地黄八幡」の闘将・北条綱成

 一説には綱成は為昌の養子であったとされていますが、最近の研究で、養子ではなかったことが明らかになってきています。そのためもあってか、為昌が治めていた広大な領地は死後四分割されています。

 綱成が受け継いだのはその中で玉縄領のみです。三浦領は三代目当主の氏康が管理し、後に四男の北条氏規に与えられます。小机領は北条宗哲が受け継ぎ、河越領は大道寺氏が治めることになりました。

玉縄北条氏はなぜ領地を大幅に削られたのか

 初代当主の為昌の頃と、二代目当主の綱成の頃では治めている領地が圧倒的に少なくなっています。これは為昌と綱成の立場が明らかに異なるためです。

北条宗家と北条玉縄家の略系図
北条宗家と北条玉縄家の略系図

 そもそも綱成は北条氏の血を受け継いではいないのです。父親ははっきりとはわかっていませんが、大永5年(1525)の戦いで戦死した伊勢九郎(櫛間九郎)だという説が有力です。

 その姓が示すように、綱成の父親は氏綱から一門衆として扱われていたと考えられます。また綱成の正室は、氏綱の娘・大頂院殿ですから、綱成は正式に北条氏の一門衆であり、為昌の義兄にあたる関係でした。

 ちなみに北条氏三代目当主の北条氏康とは同じ歳です。氏綱から偏諱も受け、綱成と名乗っています。

 北条氏一門という点では為昌と綱成に違いはないのですが、為昌は氏綱の実子であり、綱成は娘婿です。為昌は独自に軍団を構成し、軍事行動を展開できる数少ない「御一家衆」のひとりで、綱成とは別格です。為昌だからこそ、北条氏の領地の大半を治めることが許されていたのであって、これが綱成となると話は変わってくるということです。

 もともと玉縄城に在城し、為昌に代わって城代を務めていましたので、玉縄衆をまとめるのは綱成に任せようということになったのでしょう。綱成としても為昌の後継者という認識ではなかったのではないでしょうか。そのため為昌の治めていた領地が四分割されたことにまったく不満を感じることはなかったと考えられます。

 玉縄北条氏と呼んでも、為昌の時代と綱成の時代ではまったく違う状況だったということです。それは綱成が北条氏宗家から不当な扱いを受けたわけではないということも知っておく必要があるでしょう。そして玉縄北条氏は主に軍事面で重要な役割を果たし、北条氏宗家を支えていくのです。

玉縄北条氏の活躍ぶり

最前線の防衛を任される

 綱成が玉縄衆を率いて軍事行動に関わった記録には、天文13年(1544)の安房への侵攻があります。上総真里谷武田氏で内訌が生じ、北条氏側と里見氏側に分かれて争ったため氏康は里見氏の領地を攻めました。このとき氏康に抜擢され惣大将を務めたのが綱成でした。ここから綱成は御一家衆のひとりとして活躍していくのです。

 天文14年(1545)には河越城に入り、御一家衆の宗哲とともに両上杉氏からの攻撃を死守。天文17年(1548)からは官途名を左衛門大夫と称するようになりました。弘治3年(1557)には甲斐の武田氏への援軍として信濃上田へ出陣しています。

 また永禄12年(1569)からは対立した武田氏から駿河を防衛するため、甥の松田憲秀とともに新たに築かれた深沢城を守備しています。武田勢に深沢城を攻略されてからは前線拠点となる足柄城に移り、北条氏光とともに城を守りました。このように綱成と玉縄衆は最前線にあって、軍事面から北条氏を支え続けます。

 ただし、綱成は軍事面だけではなく、外交面でも存在感を発揮しています。『白川文書』によると、天文22年(1553)には陸奥白川氏の取次を務めており、さらにそこから武蔵岩付太田氏、下総結城氏、下野那須氏、陸奥会津の蘆名氏の取次も務めるようになります。

 綱成がとても重要な役割を担っていたことがわかります。氏康はそれほどまでこの綱成を信頼していたのです。ちなみに綱成は元亀2年(1571)に隠居するのですが、これらの取次については永禄10年(1567)あたりから少しずつ氏康三男の北条氏照に移行しています。

氏康の子息に準じた地位を確立

 綱成の家督を継いだのは、嫡男の北条康成です。綱成の隠居と同時に官途名の左衛門大夫を称しています。母親は氏綱の娘の大頂院殿で、正室は氏康の娘の新光院殿(七曲殿)ですから、扱いは綱成とはやはり異なります。氏康の子息に準じた地位にあったと考えられます。

 家督を継ぐ前の永禄10年(1567)には武蔵岩付領を治め、岩付衆を統制していますし、同時期に鎌倉代官も兼任していました。北条氏宗家の当主が北条氏政になってからは、北条氏の通字である「氏」を与えられ、北条氏繁と名乗り、さらに家格は向上しています。

 北条氏が上杉氏との同盟を破棄すると最前線の岩付城を守り、常陸方面攻略を任され、天正3(1575)には受領名を常陸守と改称しました。下総の結城氏が離叛し、佐竹氏との対立が激化すると、天正5年(1577)には飯沼城を築城して拠点とし、結城氏を攻めます。

 しかし、この時期には氏繁は病で亡くなっており、代わって嫡男の北条氏舜が出陣し、天正6年(1578)には左衛門大夫を称しています。さらにまもなくこの氏舜から弟の北条氏勝に家督が相続されました。おそらく病没したと考えられますが、時期も状況も不明です。天正10年(1582)には氏勝が当主となっています。

 そして天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めの際には、伊豆山中城に入りますが落城。玉縄城に帰還するも、侵攻してきた浅野長吉らの軍勢に投降し、秀吉から助命されています。その後、徳川家康に仕えることになり、下総弥富領1万石の大名となりました。ちなみに隠居した綱成は、玉縄北条氏滅亡前の天正15年(1587)に73歳で死去しています。

おわりに

 玉縄北条氏が活躍したのは、綱成・氏繁父子の代までということです。氏舜の代からは北条氏宗家を支える柱としての活躍は見られません。血縁的に遠くなってきたことも理由に挙げられるでしょう。

 玉縄北条氏自体は、北条宗家よりも先に滅んだということになります。北条氏の軍事面を支えてきた玉縄北条氏だっただけに、秀吉の小田原攻めに対してはもっと粘って活躍してほしかったという気持ちになる人も多いのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戒光祥出版、2018年)
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団』(洋泉社、2018年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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