豊臣秀次事件の謎…なぜ秀吉は秀次に切腹を命じたのか?諸説を探る

秀次公と殉死者ら最後の酒宴を描いたもの(『秀次公 再版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
秀次公と殉死者ら最後の酒宴を描いたもの(『秀次公 再版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 文禄4年(1995)7月15日、豊臣秀次は養父の秀吉に高野山に行くよう命じられ、自害して果てた。秀吉が秀次に自害を命じた理由については、これまでも多くの説が提起された。そこで、今回はその理由を8つに分け、あわせて参考文献を提示した。なお、秀次の自害に至るまでの経緯は、下記の記事をご一読いただければ幸いである。

 ※参考記事:豊臣秀吉の最大の汚点! 豊臣秀次事件の経緯を探る

① 秀吉・秀次確執説

◎ 朝尾直弘「豊臣政権論」(『岩波講座日本歴史 近世1』岩波書店、1963年)
 文禄4年(1595)2月に蒲生氏郷が亡くなったとき、その遺領の処置をめぐって、豊臣秀吉と秀次の見解が相違した。秀吉は氏郷の遺領を没収しようとしたが、それに反対したのが関白の秀次だった。このことが原因となり、2人の関係は悪化したという。

◎ 三鬼清一郎「豊臣秀次」(『国史大辞典』吉川弘文館、1989年)
 文禄元年(1592)、秀次は関白職を秀吉から譲られた。同時に秀吉と現職の関白である秀次との間には、日本国内の統治権の権限分掌をめぐる確執が生じたという。こうした対立が遠因となり、秀吉は秀次に切腹を命じたと考えられている。

② 秀次の悪行説

◎ 太田牛一『太かうさま軍記のうち』(江戸時代初期)
 秀次は鉄砲の練習と称して農民を撃ったり、弓矢の稽古と言って人を射たりした。それだけでなく、「関白千人斬り」と称し、往来の人々を刀の試し斬りをするために斬ったという。こうした悪行が秀吉の耳に入り、やがて勘気に触れたという。

◎ 小林千草『太閤秀吉と秀次謀反』(筑摩書房、1996年)
 秀吉は数百本におよぶ名刀を所持しており、秀次はその鑑定を依頼されていたという。依頼を受けた秀次は、鑑定の判断材料にするため、人で試し斬りをしたという。虫けらのように人を斬ったという点では、前段の説に近いものがある。

◎ 小瀬甫庵『太閤記』(江戸時代初期)
 当時、比叡山は女人禁制だったが、秀次は女房らを伴い登山した。比叡山では殺生禁止だったにもかかわらず、日中は狩りを楽しみ、動物を多数獲るなどした。秀次が殺生だけでなく女人の禁制を破ったので、比叡山は抗議をしたが、まったく聞き入れなかったという。

◎ クラッセ『日本西教史』(1689年)
 秀次には、人を殺すことに喜びを見出す性癖があった。罪人が処刑される際は、進んで処刑人の役を務めたという。罪人を台に寝かしたまま斬ったり、立たせたまま一刀両断に斬ったりと極めて残酷なことを行い、妊婦の腹を裂いたとも伝わる。

③ 秀吉暗殺未遂説

◎ 『上杉家御年譜』(江戸時代初期)
 秀次は鹿狩りをするためと称して秀吉を聚楽第に招く一方、数万人の兵を準備して、秀吉の暗殺を計画していたという。この情報を知った三成は、急いで事の次第を秀吉に報告し、聚楽第に行かないように献言すると、秀吉はあまりのことに驚倒したと伝わっている。

④ 正親町天皇への服喪拒否説

◎ 渡辺世祐『豊太閤と其家族』(日本学術普及会、1919年)
 文禄2年(1593)1月、正親町天皇が崩御したが、秀次は直後に鶴を食べるなどし、喪に服する気がなかったと伝わる。以後も秀次は聚楽第で相撲を興行したり、『平家物語』を検校に語らせたりし、さんざん遊興三昧の日々を送った挙句、ついには鹿狩りを行った。これが秀吉の勘気に触れたという。

⑤ 秀頼溺愛説

◎ 西村真次『国民の日本史 第8巻』(早稲田大学出版部、1922年)
 秀次が関白に就任した翌年の文禄2年(1593)、ついに秀吉と淀殿との間に秀頼が産まれた。もともと秀吉は秀次を後継者にと考えていたが、我が子の秀頼がかわいいので家督を譲ろうとした。そこで、秀吉は将来の禍根を取り除くべく、秀次に切腹を命じたという。古典的かつ、わかりやすい説である。

⑥ 三成讒言説

◎ 『川角太閤記』(江戸時代初期)
 当初、一の台(菊亭晴季の娘で秀次の妻)は、豊臣秀吉の側室になる予定だった。しかし、その美貌に惚れ込んだ秀次は、秀吉に無断で自分の妻に迎えたという。石田三成がこの事実を秀吉に報告すると、秀吉は秀次を自害に追い込むため、罪を捏造したといわれている。

⑦ 秀次謀反説

◎ 山科言経『言経卿記』
 秀次と秀吉の関係が悪化したことは、「関白殿(秀次)と太閤(秀吉)との間は、去る3日から不和になった」と記録されている(『言経卿記』文禄4年(1595)7月8日条)。不和になった原因は詳しくわからないが、2人の間には関係改善が不可能なほどの事態が突如として起こり、それが遠因となり、秀吉は秀次に自害を命じたという。

◎ 小瀬甫庵『甫庵太閤記』(江戸時代初期)
 文禄3年(1594)に秀次が毛利輝元と誓紙を交わしたところ、石田三成と増田長盛が「謀反の疑いあり」と秀次に言い掛かりをつけて、厳しく追及した。秀吉は三成らの讒言を信じ、秀次に強い不信感を抱いたので、切腹を命じたといわれている。

◎ 『御湯殿上日記』
 『言経卿記』のほかに、一次史料で秀次の謀反の噂を書き留めたのが『御湯殿上日記』である。ただし、『言経卿記』と同様に秀次の謀反について具体的に記されておらず、高野山に入ったのちに切腹におよんだと記すだけである。

⑧ 権力濫用説

◎ 宮本義己「豊臣政権における太閤と関白―豊臣秀次事件の真因をめぐって―」(『國學院雑誌』89-11、1988年)
 秀次には侍医がいたが、わざわざ正親町天皇の侍医・曲直瀬玄朔を自宅に招き寄せた。このことにより、玄朔は正親町天皇の診察をできなくなった。これは、秀次の関白としての権力を濫用したものであり、失脚・切腹を命じられる遠因となったという。

まとめ

 荒唐無稽としか思えない説も含まれているが、いずれの説が正しいのであろうか?私としては、「秀吉・秀次確執説」がもっとも納得できるのだが、もちろん理由がある。徳川家康と武田信玄が我が子を殺したのは、政治路線の相違にあったという。結果、家康と信玄は家中をまとめるため、我が子を処分した。秀吉と秀次の例も、これに近いのではなかったか。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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