”伊達政宗も切腹させられる” と京都中で噂に!? 豊臣秀次事件の影響で政宗にも迫る絶体絶命の危機

2代目関白の豊臣秀次と伊達政宗は懇意の仲だったとされる。
2代目関白の豊臣秀次と伊達政宗は懇意の仲だったとされる。
小田原攻め(1590)に遅参したのに続き、文禄の役(1592~93)の後にも伊達政宗にまたも難題が降りかかります。

 文禄の役で帰国した後には豊臣秀吉から徳川家康や前田利家に次ぐ抜擢を受けた伊達政宗ですが、文禄4年(1595)には関白・豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられる事件が勃発。そして疑いの目は政宗にも向けられ、死を覚悟して政宗は上洛することになるのです。

 今回はそんな秀次事件に関して、政宗がどのような対応をしたのかについてお伝えしていきます。

関白秀次と政宗の関係

政宗の元家来が秀次の重臣

 伏見に屋敷を持つことを許された政宗は、吉野の花見など様々な行事に参加する中で、次期天下人である秀次と親しくなっていったと考えられます。

 先のことを考えて手を打つことに長けている政宗なので、秀吉の後継者として関白の座にあった秀次とのパイプを太くしておく必要性は感じていたはずですし、その好機を逃すはずもありません。

 実際にふたりは親交を深め、政宗が伏見から岩手山へ帰る際には、秀次は餞別として馬の鞍や帷子を贈っています。それを渡した人物が粟野木工助秀用(あわの もくのすけ ひでもち)です。

 秀用はもともと伊達氏に仕えており、政宗の弟である小次郎の傅役でした。母である保春院の差し金で政宗を謀殺しようとした件に関わっていたようで、国を捨てて逃亡し、秀吉の家臣となった経緯があります。

 そこから武功をあげ、秀次に仕えるようになり、10万石を超える大名となっていました。秀次の取り成しで政宗からの許しも得ています。この秀用が政宗と秀次の架け橋となっていたのです。

 秀次としても、家康や利家は秀吉と同じ世代でしたから、ほぼ自分と同じ歳の政宗と打ち解けたいという気持ちになるのも自然な話です。次世代のリーダーとしての存在が、秀次であり、政宗でした。将来の夢や目標なども語り合ったのではないでしょうか。

突然の秀次切腹

 文禄4年(1595)4月、政宗は岩出山に数年ぶりに帰還しました。再び上洛の命令が下されたのが7月下旬です。政宗にとって、まさに霹靂の晴天でした。懇意にしていた秀次が謀反の疑いをかけられ切腹し、政宗もそれに加わっているとして呼び出されたのです。

 ちなみに7月3日に秀次は聚楽第にて石田三成の詰問を受け、8日には高野山に追放、出家させられています。そして15日には切腹を命じられているのです。政宗に相談する暇もなかったことでしょう。

高野山での秀次を描いた浮世絵(月岡芳年画、出典:wikipedia)
高野山での秀次を描いた浮世絵(月岡芳年画、出典:wikipedia)

 秀次がなぜ謀反の疑いをかけられたのかについて、その理由は諸説あり、また別の機会にお伝えすることとし、ここで大きな問題として取り上げたいのは、秀吉が後顧の憂いを断つために、秀次の子女妻妾までことごとく京都の三条河原で処刑したということです。

 政庁である聚楽第も徹底的に破却。秀次の痕跡をすべて一掃しようとしています。まだ幼い秀吉の子(秀頼)の将来に災いが及ぶことがないよう、秀次派を根絶するという方針でした。

 政宗の母方にあたる最上氏からは、最上義光の娘・駒姫が秀次の側室として京都の最上屋敷に着いたばかりでしたが、この事件に巻き込まれて処刑されているほどの徹底ぶりです。そうなると当然のように秀次と親しかった政宗も障害となります。このときの秀吉はかなり非情な決断を次々と下しており、政宗も切腹させるつもりでした。

最上義光の娘・駒姫の肖像(出典:wikipedia)
最上義光の娘・駒姫の肖像(出典:wikipedia)

 ですから政宗も上洛すれば生きて戻ることはできないという強い危機感を抱いていたはずです。だからといって戦って勝てる相手でもなく、もはや政宗には上洛して弁明する以外に手立てはなかったのです。

 さすがの政宗もこのような事態は想定していなかったことでしょう。

政宗はいかにこの危機を回避したのか

施薬院全宗を頼る

 上洛の命が下った後、政宗は大坂の施薬院全宗(やくいんぜんそう)の邸宅に身を寄せます。この全宗こそ、秀吉が選んだ詰問使のひとりです。

施薬院全宗の肖像(出典:wikipedia)
施薬院全宗の肖像(出典:wikipedia)


 まさに敵の懐に飛び込むような行為ですが、もともと全宗と政宗には交流があり、今回の事件の弁明のために上洛するよう政宗に助言したのが全宗だったと伝わっています。

 政宗は全宗と相談し、対応の仕方を考えたのでしょう。ちなみに秀吉が政宗への詰問使と選んだのは全宗の他に、前田玄以、寺西筑後守、岩井丹波守の3人がいました。政宗はこの4人に対して、疑いのかけられた項目ひとつひとつを弁明しています。

 詰問を受けた項目のひとつは、鷹狩りの際に山中で政宗と秀次が密談を交していたというものです。おそらく秀次の話相手として政宗は最適であり、そういった機会は確かに多かったのかもしれません。しかしこれはいくらでもかわしようがあります。政宗はまったくの無実であることを訴えました。

 他にも政宗が領国に戻る際に秀次から餞別を受け、それを秀吉に報告しなかった点も咎められています。これは事実確認がされるまで政宗が黙っていたということでしょう。

 政宗としては、このとき木工助を介して後に贈られたため、報告するのを忘れていたと言い訳しています。ちなみにこの木工助も三条河原で処刑されていますから、秀次→木工助→政宗の繋がりで疑いをかけられても仕方のないところです。

 これらの詰問に答えた政宗でしたが、秀吉の疑いは晴れず、政宗を流罪にして、嫡男の兵五郎(秀宗)に家督を継がせようと考えていました。世相もそれを反映してか、京都では逆上した伊達氏の家臣たちが叛乱を起こして京都に火を放つという噂が流れています。

秀吉はなぜ政宗を許したのか

 結果として秀吉は政宗を許しました。これには2つの説があります。

 ひとつは政宗が開き直って正論をもって秀吉に対峙したというものです。

 秀次を後継者として関白に任じた秀吉であって、その秀吉ですら秀次を見誤ったのだから、片目の自分が見損じるのは当然である。関白と交流を持つことが罪だというのなら首を刎ねよ、と詰問使に言い放ったと、『武功雑記』には記されています。

 この直言だけで秀吉が判断したとは到底考えられません。秀吉は秀次の痕跡を徹底的に消滅させているのです。正論など、このときの秀吉には通じなかったでしょう。

 ここで重要な役割を果たした家康です。家康は、相談に訪れた留守政景に対しては、京都で戦い斬り死にせよとアドバイスし、一方で秀吉に対しては、朝鮮との争いが続く中、国内で叛乱が起きたらたいへんな事態に陥る、と釘を刺しています。おそらくこのとき家康は、政宗は自分が責任を持って抑えるというような内容も伝えたのではないでしょうか。

 秀吉は8月24日、石川義宗、伊達成実、留守政景、亘理重宗ら19人の重臣に対し、政宗が逆らった場合はただちに政宗を追い出し、兵五郎に家督を継がせるという誓紙に連署させています。こうして秀吉は政宗に赦免状を与えたのです。

 少なからず家康の発言が政宗の赦免に影響を与えたはずです。そして政宗と家康の絆はこれを機会にさらに深まっていくことになりました。

おわりに

 政宗としても秀吉亡き後、秀次と協力して天下を治めていく心づもりだったのかもしれません。そのような状況になっていたら日本の歴史はまったく違ったものになっていたことでしょう。

 秀吉が数少ない肉親を処刑し、さらに次世代を担う政宗を遠ざけてしまったことで、豊臣政権は弱体化し、滅ぼされてしまうのです。秀次事件が、豊臣政権にとっても、政宗や家康にとってもかなり重要なターニングポイントになったのは間違いありません。


【主な参考文献】
  • 『新・歴史群像シリーズ19 伊達政宗』(学研プラス、2009年)
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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