織田信長が平家の流れを汲むというのは、事実なのか?
- 2025/05/27

織田一族は平家の末裔だったのか?
織田氏の家系については、『系図纂要』、『織田系図』(『続群書類従』第六輯・上)などがあり、それらの系図では織田氏の先祖が平資盛(重盛の次男)であると書かれている。織田氏の先祖が平家であるという根拠は、系図に詳しく書かれているので、以下、その内容を確認することにしよう。元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、資盛は海に身を投じて亡くなった。資盛は寵妾との間に親真という子をもうけており、親真は近江津田郷(滋賀県近江八幡市)へ母とともに逃れると、母は現地で豪族と結ばれた。
あるとき、津田郷に越前織田荘(福井県越前町)の神官が訪れ、親真を養子としてもらい受けた。その後、親真は神職を継承し、織田氏の祖となったというのである。

親真は資盛の正室の子ではなく、寵妾の子だったというのがポイントである。のちに織田氏は管領で越前や尾張などの守護を務めた斯波氏に仕官し、守護代を務めることになった。信長は、親真から数えて17代目の子孫といわれている。
『織田系図』や『系図纂要』は江戸時代に成立した系図だが、織田氏の先祖が平家だったとの説はそれ以前から知られていた。天正元年(1573)9月、僧侶の兎庵(とあん)が岐阜を訪れた。兎庵の記録した『美濃路紀行』には、信長の家系を次のように書いている。
源氏(室町将軍・足利義昭)の権勢もだんだん衰える時期が到来した。天下に信長公になびかない草木がないありさまは、先代にもその例を聞いたことがない。織田氏の本系を探ってみると、平重盛の次男(資盛)の後胤なので、暑往寒来(暑さが去って寒さが来る)のが当然のことのように、今四〇〇年の昔にさかのぼって、平家が再び栄える世になると思う。
この記述内容から、信長が足利義昭を推戴して上洛する時点においても、織田氏の祖が平資盛であるということが広まっていたことがわかる。これが、信長が意図して流したものか、そうでないのかは、今となっては不明である。
現在、織田氏の祖が平家だったということは、史実としては認めがたいと指摘されている。織田氏の先祖が平家でないのであれば、実際はどうだったのだろうか。
信長は藤原姓を名乗っていた?
織田一族が発給した禁制などの文書をいくつか確認すると、不思議なことに気付く。永正15年(1518)1月、尾張国下四郡の守護代だった織田達勝は「藤原達勝」と署名し、円福寺(名古屋市熱田区)に禁制(軍勢の禁止事項を列挙した文書)を与えた(「円福寺文書」)。天文22年(1553)6月吉日付の「菅原道真画像墨書銘」には、「藤原織田勘十郎」(信長の弟の信勝)と書かれている(「熱田神宮所蔵文書」)。藤原姓で書かれているのは、達勝と同じである。
姓と名字については、少し説明が必要だろう。そもそも姓とは、天皇から下賜されるもので、「源平藤橘」などが代表的なものである。ただ、同じ姓の者が増えると区別がつかなくなる。たとえば、平姓の者が近所に多数いると、どこの「平さん」かわからないのだ。
そこで、武将らは、本拠に定めた土地の名を名字として用いた。たとえば、足利氏は姓が「源」だが、名字は本拠の下野国足利荘(栃木県足利市)から取って「足利」とした。こうして、本姓と名字は区別されたのである。
天文18年(1549)11月、信長は「藤原信長」と署名して、熱田八ヵ村に禁制を与えた(「加藤文書」)。信長自身も藤原姓を本姓と認めているのは疑いないが、いつ頃から平姓を用いるようになったのだろうか。
大師堂(岐阜県郡上市)所蔵の銅製鰐口(県指定文化財)には、表面に「元亀二年〈一五七一〉辛未六月吉日」、裏面に「信心大施主 平信長」の銘文が刻まれているので(『越前大野郡石徹白村観音堂鰐口』)、少なくともこの頃から、信長は平姓を用いていたことが確認できる。
天正2年(1574)3月28日、信長が従三位に叙されたとき、『公卿補任』には「平信長」と記録されている。この時点で、信長は公式に藤原姓の使用を止め、平姓に変更したと考えられる。『歴名土代』いう史料にも、藤原姓から平姓に変更したように記されていることも証左になろう。
![『公卿補任 [60]』より。左ページに「平信長」の文字がみえる。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)](https://cdn.sengoku-his.com/uploads/contents/2844/112038345568341aa4d6ac41.73417742.jpg)
忌部氏説と平姓の意義とは?
ほかにも、織田氏の先祖についての説がある。七条院領織田荘(福井県越前町)の荘官が織田氏の先祖であり、もともとは同荘内の織田劔神社の神官だったというものだ。織田氏の本姓は、忌部氏だったと指摘されている。劔神社は敦賀郡伊部郷に所在し(『和名類従抄』郷里部)、それは越前町織田地区あたりだったという。伊部は「忌部」に同じこと(音が同じ)で、織田の社司は忌部氏だったというのである。

織田荘についてはわからないことが多いが、のちに同荘は禁裏(皇室)領から妙法院領になったこと、本領主が公家の高階宗泰だったことが判明する。劔神社は織田荘の中心にあり、豪族的存在だった祀官が荘官を務めていたと指摘されている。
信長は途中から平姓を使用したが、その理由を明確に記した史料は今のところない。以前、信長が藤原姓から平姓に改めたのは、源平交代思想(源氏と平家が交代して政権を担うという思想)を利用するためだったという説が提起された。
鎌倉時代は、将軍家の源氏から執権の北条氏(平姓)に変わった。南北朝時代は、執権の北条氏(平姓)から将軍家の足利氏(源姓)に変わった。戦国時代は、足利氏(源姓)から織田氏(平姓)に政権が変わるという発想があったというのである。信長は天下統一に邁進する際、源姓の室町幕府の足利将軍に取って代わるため、藤原姓から平姓に改めたということになろう。
とはいえ、当時、源平交代説思想が広く流布した形跡はなく、今では疑わしいとされている。たとえば、明智光秀が信長を本能寺で討ったのは、源氏である光秀(土岐明智氏は源氏)が世を乱す平姓将軍(=信長)の出現を阻止するためだったという説があるが、まったく根拠はないといえよう。
まとめ
信長が平姓を名乗った理由はわからないことが多いが、平家の末裔であることを主張することで、周囲からの信望を集めようとした可能性はあろう。豊臣秀吉や徳川家康が改姓した理由も、似たような理由が考えられる。- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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