【家系図】明智光秀の出自はどれが正しい?諸説を総ざらいして考察!
- 2019/12/02
「明智光秀」の名を知らない人はいないでしょう。本能寺の変で主君の織田信長を討った天下の謀反人です。光秀自身、およそ30万石の大名であり、当時天下人にもっとも近かった信長の右腕ともいえる存在だったのです。
この程度のことはじっくり勉強しなくとも誰もが知るところのはず。では、光秀の出自や家系図はどうでしょうか? あまり知らない人が多いのではないでしょうか。例えば司馬遼太郎のベストセラー小説『国盗り物語』では、光秀に関わる史料は『明智軍記』に拠っています。これが人気作となったため、それが通説となってしまったという見方もあるくらいです。
ドラマや歴史番組でもさらっとある一説が事実のように語られることが多いのが現状です。2020年大河ドラマ『麒麟が来る』では、現在でもはっきりわかっていない光秀の前半生にスポットを当てて展開するようです。
今回はその予習としても役立つ、諸説ある光秀の出自について検証していきます。
この程度のことはじっくり勉強しなくとも誰もが知るところのはず。では、光秀の出自や家系図はどうでしょうか? あまり知らない人が多いのではないでしょうか。例えば司馬遼太郎のベストセラー小説『国盗り物語』では、光秀に関わる史料は『明智軍記』に拠っています。これが人気作となったため、それが通説となってしまったという見方もあるくらいです。
ドラマや歴史番組でもさらっとある一説が事実のように語られることが多いのが現状です。2020年大河ドラマ『麒麟が来る』では、現在でもはっきりわかっていない光秀の前半生にスポットを当てて展開するようです。
今回はその予習としても役立つ、諸説ある光秀の出自について検証していきます。
美濃土岐明智氏説
古くから美濃にあった土岐氏の分家のひとつである明智氏の出であるという説です。これは数ある説の中でも、最も有力な説とされており、土岐明智氏であると記録する史料が特に多いというのも支持される理由でしょう。土岐明智氏だと示す史料としては、『続群書類従』所収の「土岐系図」「明智系図」のほか、『大日本史料』(東京大学出版会)の「明智氏一族宮城家相伝系図書」などがあります。
ただし、あくまでも土岐明智氏の流れを汲むというだけのようで、各史料において例えば父親が異なるなど、細部をみるとかなり異なっているようです。
『続群書類従』所収「土岐系図」「明智系図」のケース
「土岐系図」には、初代美濃守護の土岐頼貞(1271~1339年)を祖とし、ずっと下って光國の子として系図に記されています。また、「明智系図」の内容も概ね「土岐系図」と同じですが、光秀の父が國ではなく、光隆とされています。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」のケース
『大日本史料』(東京大学出版会)に収録されている「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、「土岐系図」に祖としてあった土岐頼貞の子孫・土岐頼弘からはじまり、光秀は光綱の子として記されています。同史料の系図の後には次のような記述が続いています。
「享禄元年戌子八月十七日、生於石津郡多羅云云、多羅ハ進士家ノ居城也、或ハ生於明智城共云云、母ハ進士長江加賀右衛門尉信連ノ女也、名ヲ美佐保ト云、傳曰、光秀、實ハ妹聟進士山岸解由左右門尉信周之次男也、信周ハ長江信連ノ子也、光秀之實母ハ光綱之妹也、進士家ハ於濃州、號長江家、依領郡上郡長江之庄也(後略)」
光秀が生まれた場所については美濃国石津郡多羅の進士家の居城(多羅城)と明智城(明智長山城)との2つの説を挙げ、「傳曰」つまり「こういう説もありますよ」と前置きした上で、光秀の実母は明智光綱の妹であり、父は進士信周。光秀はその次男であると書かれています。
原文の後半は省略していますが、このあとには、光秀の母の兄・光綱は病弱で子どもが生まれず、そのため光継(または頼典)が光秀を養子に引き取って家督を譲ったとあります。
『明智軍記』のケース
その他、系図ではなく江戸時代の軍記物である『明智軍記』もこの説と同様です。これは信用できる書物ではありませんが、小説やドラマなど、世間で知られる光秀の出自はこれを出典とするものが多いです。その内容は
「明智氏の家系は土岐氏庶流の明智頼兼の後胤で、美濃の明智城を居城としていた。戦国時代、明智光安は斎藤道三に仕えていたが、道三と竜興の争いで明智城も攻められ、光安は戦死。その甥であった十兵衛(光秀)は一緒に討死しようとしたが、光安は子の弥平次光春(のちの秀満)を預け家を再興するよう十兵衛に託した」
というものです。
「明智城は失われ、光秀は越前に逃れて諸国を放浪し、そののちに朝倉義景に仕えた」
と続きます。
その他の説
若狭小浜の刀鍛冶冬広の次男説
『若州観跡録』によると、光秀は若狭小浜の刀鍛冶である藤原冬広の次男とされています。これによると光秀は幼少期から刀鍛冶の仕事を嫌い、兵法を学んで「明智十兵衛」と名乗り、佐々木氏の使者として織田に赴いたときに信長に見出されたということです。この説は複数ある説のうちでも通説からもっとも程遠く、光秀が士分ですらないというのが印象的です。
美濃明智の人・御門重兵衛説
江戸時代の国学者の天野信景が書いた随筆『塩尻』には、光秀がはじめ「御門重兵衛」と名乗り、使者として織田へ赴いた際に信長に気に入られ、その後「明智」を名乗るようになったとあります。名前以外の内容については上述の『若州観跡録』とほぼ同じ展開となっています。なぜ「土岐明智氏」が有力なのか
系図というものは身分がはっきりしない層ほど勝手にどこそこから引っ張ってきてつなぎ関係があるように作り変えたり、というように、それを以ってして断定できるものではありません。また俗書で誤謬が多いと悪評高い『明智軍記』も土岐明智氏を示す証拠のひとつであるというのも、「う~ん……」と頭を抱えてしまう問題です。しかしそれでも土岐明智氏説が支持されるのは、ほかに裏付けとなる史料がいくつかあるからでしょう。
その裏付けを以降でじっくり見ていきましょう。
土岐氏と桔梗の紋
そもそも土岐氏とは何者でしょうか。実は清和源氏の流れを汲み、源頼光を祖とする平安末期から続く名門の家系です。土岐氏を名乗ったのは土岐光衡です。美濃源氏の土岐氏は長い間美濃国の守護を務めており、鎌倉幕府では御家人。室町幕府では三管領四職家に次ぐ家格でした。まずは光秀と土岐氏のつながりを示すものに明智氏の家紋があります。
土岐氏が採用した家紋は「土岐桔梗」ですが、これは明智氏も用いていました。土岐宗家だけでなく、明智をはじめとした庶流も桔梗紋を用いることが多かったとか。光秀の家紋は当時黒が多かったなかで珍しい水色の紋で、「水色桔梗」とも呼ばれます。
この土岐桔梗に意味を見出しているのが明智憲三郎氏で、『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)の中で、「土岐桔梗一揆」と呼ばれる戦闘集団を土岐一族が形成していたことから、土岐氏がいくつもの分家、支流に分かれても一族の結束は強固であったとしています。
「立入左京入道隆佐記」の記述から
次に、立入宗継(たてりむねつぐ)の日記『立入左京入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』の中にも、光秀が土岐氏であったヒントが隠されています。光秀が信長から丹波一国を征服し知行するよう命じられた件の記録の中で、
「美濃國住人ときの随分衆也 明智十兵衛尉 其後従上様被仰出 惟任日向守になる 名誉之大将也 弓取はせんしてのむへき事○○……」
と書かれています。
立入宗継は光秀と同時代に生きた人物で、朝廷の禁裏御蔵職をあずかった商人および官人でした。
「とき」はすなわち「土岐氏」。光秀は土岐氏の「随分衆」、つまり身分の高い人物だったということです。少なくとも同時代に生きてつながりを持っていた立入宗継は光秀を「土岐氏である」と認識していたことがわかります。
誰かからそう聞いたのか、光秀本人から土岐氏の出であると聞いたのかはわかりませんが、土岐明智氏説を補強する材料となるでしょう。
愛宕百韻
最後に、「土岐氏」とのつながりで切り離せないのが「愛宕百韻」です。光秀が本能寺の変の少し前、5月24日(あるいは28日)に愛宕山で開かれた連歌会で詠んだ歌です。最初の句である発句で光秀が以下のように詠んだことで有名です。
ときは今 あめが下な(し)る 五月哉
この句は「あめが下なる」か「あめが下しる」かによって解釈が変わり、「下しる」の場合、光秀が本能寺の変の前に天下を取ろうと決意した句であると解釈されます。
「ときは今」とは、「時は今」と「土岐は今」の両方の意味がかかり、この句の解釈は「土岐氏が天下を治める五月となった」または「土岐氏は今、降りしきる雨のような苦境の中にある五月だ」となります。
どちらにせよ土岐氏と結びつけることができるわけです。この句の解釈として「とき=土岐」で都合がいいのは秀吉で、率先して光秀が野望を持って天下簒奪を目論んだ証拠としてあげつらっていたわけですが、謀反を企てる人間がわざわざこんなところに証拠を残すとは考えにくいように思えます。
光秀が「とき」という言葉に「土岐氏」という意味を込めたかどうか、どちらも考えられますが、野望があったか否かは別として光秀が土岐氏であることを誇りに思い、自身の出自に並々ならぬ思いがあったことは十分考えられます。
もともと名門であった土岐氏は美濃守護職を家臣の斎藤道三に奪われ、土岐の当主であった土岐頼芸(よりあき)は追放されてしまいました。こうして下克上により土岐氏は没落してしまったわけです。
光秀が土岐明智氏のなかでどれほどの身分だったかどうかはわかりませんが、明智氏も斎藤道三親子の御家騒動に巻き込まれる形で一気に牢人の身に落ちぶれてしまうわけです。
庶流ではあっても名門の出を誇りに思っていたなら、自分がどうにかして土岐氏を立て直したいという思いもあったでしょう。「愛宕百韻」にもそういう気持ちが込められているとも考えられそうです。
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まとめ:本当に「ときの随分衆」だったといえるのか?
最後に触れておきたいのは、『立入左京入道隆佐記』に記してあるように、光秀は本当に「ときの随分衆」だったのかという点です。『明智軍記』や『美濃国諸旧記』は光秀が明智城に住んでいたと記していますが、土岐明智氏本家の流れであったかは怪しいところです。そもそも光秀の出自がはっきりしない以上に、光秀の父の名すら不明確なのです。
光綱、光隆、光國。これについて高柳光寿氏は『明智光秀』(吉川弘文館)の中で、系図は大体出自の証拠としては使えないことを挙げつつ、以下のように解釈しています。
「光秀はその父の名さえはっきりしないのである。ということは光秀の家は土岐の庶流ではあったろうが、光秀が生れた当時は文献に出て来るほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の名が広く世に知られるに至ったのであり(明智荘のことは知られていたが)、そのことは同時に光秀は秀吉ほどの微賤ではなかったとしても、とにかく低い身分から身を起こしたということでもあったのである」
系図は確かに出自を探る手段としては用いることができますが、それを以って「これが正しい」と断言することはできません。
今回複数の史料をあたりつつ諸説ある出自を紹介してきましたが、やはり無難にまとめるとしたら「光秀は土岐明智氏の出である」と言える程度でしょうか。
「ときの随分衆」であったかどうか、果たして本当に明智城に住んでいたのかどうか。高柳氏が言うように、光秀が有名になってから作られた説も複数あると思われ、これ以上は良質な史料が新たに見つかるのを待つしかないでしょう。
【参考文献】
- 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
- 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。
- 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。
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