松平から徳川へ…近年の研究からみた、家康の徳川改称と三河守任官の背景とは?
- 2023/08/03
徳川家康が生まれる前の松平一族では度々内紛が勃発し、歴代当主はその対応に苦慮してきました。永禄9年(1566)5月に三河平定を成し遂げた家康ですが、一族内紛の再発は、当然避けなくてはなりません。そこで家康は朝廷から自身を頂点とする三河支配の公認を得たいと考えました。
朝廷に名字改称と官職の任官を願い出で、同年の12月には「松平」から「徳川」に名字を改称し、さらに「三河守」の官職を得ています。今回は近年の研究を参照しつつ、家康の「徳川」名字改称や「三河守」任官について深掘りしたいと思います。
朝廷に名字改称と官職の任官を願い出で、同年の12月には「松平」から「徳川」に名字を改称し、さらに「三河守」の官職を得ています。今回は近年の研究を参照しつつ、家康の「徳川」名字改称や「三河守」任官について深掘りしたいと思います。
度重なる松平一族の内紛
安城松平家の誕生
まずは家康の名字改称や三河守任官の背景となった松平一族の内紛についてみていきましょう。初代親氏(家康は9代目)を祖とする松平氏は、三河国を拠点に活動の幅を広げ、3代信光のときには子息や親類などの一族を西三河各地に配置、発展していきました。そして信光の子である4代親忠が安城城に配置され、ここに親忠からはじまる安城松平家が成立。この安城松平家から家康が誕生します。
親忠の子・5代長親(長忠とも)の時代には、駿河の今川氏親(義元の父)と後見役の伊勢宗瑞(北条早雲)が率いる今川勢が三河に侵攻(永正三河大乱)。この戦いで岩津松平家が壊滅するなど、松平一族にも犠牲が生じます。当時、岩津松平家は松平氏の宗家であったと考えられています。
壊滅した岩津松平家に代わって台頭したのが安城松平家です。「永正三河大乱」を乗り越えた安城松平家は、西三河の国衆として活動していきました。
松平信忠・清康・広忠を悩ます一族の内紛
しかし、安城松平氏一族の内部においては、政治的主導権を巡る対立が度々勃発。長親が引退した後に家督を相続したのが6代信忠です。ところが、『三河物語』や『松平氏由緒書』によると、信忠は強行的・専制的に政務を進めていったようで、この姿勢がやがて一族や家臣から反感を買うようになります。このため、一族の岡崎松平家(大草松平家)と対立、合戦にまで至りました。
この後、信忠に見切りをつけて、弟の信定を当主に擁立する動きが広がっていきます。こうした動きを受けて信忠は隠居を決意し、家督を嫡男の清孝(のちの松平清康)に譲る意向を示しました。ただ、清康は叔父である信定とその一派により、安城城に入れず、山中城に追いやられてしまうのです。
清康は家康の祖父にあたりますが、史料がほとんど残っておらず、清康の活動については不明なところが多いのが実情です。残されたわずかな史料でわかることは、清康は岡崎松平家と和睦し、同家の婿となって岡崎城に入ったこと、三河各地の抗争の解決・調停に積極的に関わった可能性があること、等になります。
特に三河各地の抗争に積極的に関与したことは、清康こそが安城松平家の正統な当主である表明とその支持を得るための行動であったと推測されています。
このように叔父信定に対して対抗を続けていた清康ですが、尾張守山に出陣中、清康は重臣阿部大蔵の子である弥七郎に殺害されてしまいました(清康の享年は数えで25歳)。
そして信定は岡崎城を占拠、まだ元服前の幼少であった清康の後継者・広忠(家康の父)を追放します。しかし広忠は吉良氏を頼り、やがて再起に成功。信定が亡くなった天文8年(1539)頃に岡崎城に帰還することができました。
ここに一族内紛が収束したかに見えました。しかし広忠の統治は岡崎復帰に功績のあった家臣を中心に進められたため、これに反発する松平一族や重臣たちが、尾張の織田信秀と結び、反旗を翻すのです。
この後、岡崎城は織田軍に攻め落とされて広忠は降伏。このとき降伏条件として嫡男竹千代(家康)が織田の人質として差し出された、という見解があります。天文17年(1548)頃には、広忠は今川氏に政治的・軍事的な保護を求めた結果、勢力の挽回に成功。松平一族の内紛を治めています。しかし翌年3月に謎の死を遂げるのです(享年は数えで24歳)。死因は病死説・暗殺説などありますが、真相はわかっていません。
当主不在の松平家の家臣たちは、織田の人質となっている竹千代の奪還に向け、今川氏に助けを求めました。結果的に織田家との人質交換という形で、後継者である竹千代の奪還に成功しています。その後、竹千代は今川家の人質として駿府で養育されたことは周知のとおりです。
松平領国(岡崎領)の経営は、今川氏の保護下におかれ、松平家重臣の合議で進められることになります。
名字改称・叙位任官の背景
松平一族の歴史をみると、度々内紛を繰り返しており、その対応に信忠・清康・広忠など歴代の当主が苦慮していたことがわかります。家康も一歩間違えれば、内紛によって当主の座を奪われる可能性も十分にありました。事実、家康が独立した当初、大給松平家は今川方につき、反家康の姿勢を表明していました。また、三河一向一揆(1563~64)においても、一族や家臣の離反が相次ぎ、中にはのちに家康の重臣として活躍する本多正信もいたのです。
幸い、家康はこれらの内紛を鎮圧して三河平定に成功しています。しかしこれまでの経緯を鑑みれば安心はできません。そこで、家康は朝廷から自身を頂点とする三河支配の公認を得ることを望みました。それが「徳川」名字への改称と「三河守」の任官でした。三河支配の公認を得られれば、家康は松平一族への優位性を確保することができるのです。
なぜ「徳川」にしたのか?
さて、ここまで名字改称の背景について述べてきましたが、なぜ家康は「徳川」という名字にしたのでしょうか?これについては、祖父の清康に倣ったとする説があります。「徳川」は「得川」とも記されており、足利一門の新田源氏に連なる名字でした。ちなみに新田源氏で有名なのは南北朝時代に活躍した新田義貞です。松平一族が内部対立するなかで、清康は「世良田」名字を名乗り、松平氏の本流である姿勢を鮮明にしたと言われています。
「世良田」も新田源氏に連なる名字とされており、家康は「康」の字を清康からの由来で名乗っているように、清康を尊敬していました。このため、名字改称にあたっても清康に倣い、新田源氏に連なる「徳川」にしたと考えられています。
しかし清康がなぜ「世良田」名字を選択したのか等、まだまだ不明な点も残されており、今後の研究の進展が期待されます。
源氏姓での叙位任官を希望した家康
家康は名字改称にあたり、「源氏姓」での叙位任官を希望したと言われています。「氏姓」とは氏族名を指し、基本的には出身の氏族名を名乗っていました。例えば源氏出身の足利氏・今川氏・武田氏は「源氏姓」を、平氏出身の北条氏は「平氏姓」を称していました。近衛・九条など藤原氏出身の公家は「藤原氏姓」を称していました。
しかし戦国時代になると、出身が不明な武家が台頭するようになり、各々の都合で改姓が行われたりすることもありました。
例えば信長は当初「藤原」を名乗っていましたが、後に「平」に改姓しています。実際に信長が藤原氏や平氏の末裔だったというわけではく、当時の社会通念上必要だったため、名乗っていたと考えられます。なぜ信長が「平」に改姓する必要があったのかについては諸説あるようです。
松平氏の場合、清康や今川氏から独立した頃の家康は「源氏姓」を名乗っていたのが確認できます。しかし、祖先の信光(松平宗家3代目)は「賀茂氏姓」を称していました。したがって松平氏の氏姓は本来「賀茂」であったと考えられています(血縁的に賀茂氏の末裔かは不明です)。
このため、松平名字で源氏姓を称すると、姓と名字で統一がとれず、この状態で叙位任官の交渉をするのは不利に働く懸念がありました。そこで家康は源氏に連なる名字である「徳川」への改称を望んだものと、近年の研究では考えられています。
近衛前久との交渉と家康の誤算
室町時代、武家が叙位任官を希望する場合、足利将軍を通して朝廷に申請していました。しかし、当時は永禄の政変(1565)によって足利義輝が殺害されてしまい、将軍不在の時期が続いていました。そこで家康は摂関家の近衛前久を通じて名字改称や叙任任官を申請しました。前久は当時の関白であり、藤原氏姓の氏長者でした。摂関政治の時代に比べれば、藤原氏の権勢は衰退したかもしれませんが、中世の朝廷社会において藤原氏(摂関家)は依然として最高の家格を保持していました。
ところが近衛前久との交渉で、思わぬ問題が発生しました。それは前久が藤原氏姓の氏長者であったため、源氏姓では叙位を得ることができず、藤原氏姓が必要になったことです。
そこで旧例を探したところ、昔近衛家の家来だった徳川氏が叙位した事例があることがわかり、藤原氏姓で叙位任官を進めることになりました。源氏姓を希望していた家康としては思わぬ誤算でしたが、前久の働きかけで家康の申請は通り、家康は「藤原氏姓徳川家康」として従五位下三河守の叙任任官を認められたのです。
おわりに
以上のような経緯を経て「徳川家康」は誕生しました。なお、家康の氏姓は後年豊臣政権の時期に「豊臣氏姓」に改姓しましたが、関ヶ原合戦後には「源氏姓」に改姓したと考えられています。そして、慶長8年(1603)2月12日、家康は源氏姓で征夷大将軍となるのでした。
【主な参考文献】
- 村岡幹生「謎の人、松平清康の実像をもとめて」(安城市歴史博物館編『徳川家康の源流 安城松平一族』、2009年)
- 小川雄・柴裕之編『図説徳川家康と家臣団』(戎光祥出版、2022年)
- 柴裕之『青年家康-松平元康の実像―』(KADOKAWA、2022年)
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