織田家の基礎を築いた、織田信長の父・信秀はどういう人物だったのだろうか?

萬松寺所蔵 織田信秀木像(イラスト)
萬松寺所蔵 織田信秀木像(イラスト)
 織田信長の天下人としての姿を見ると、その出自が尾張の小さな勢力だったとは想像しにくい。信長は天下人になるため、数多くの大名と戦ったが、父の信秀から家督を継いだ時点ではまだ家中の統制に苦労した。それゆえ当初は、同じ織田家の一族・縁者と激しい抗争を繰り広げたのである。

 織田家の基礎を築いたのは、信長の父の信秀だった。今回は、初期段階における織田家の流れに加えて、信秀の生涯を取り上げることにしよう。

複数あった織田氏の家

 もともと織田氏は幕府の管領を務め、尾張や越前などの守護を務めた斯波氏の配下にあった。織田氏は尾張の守護代を任されていたが、15世紀以降は2つに分裂したのである。

 織田大和守敏定の系統は、尾張南部の半国の四郡の守護代として、清須城(愛知県清須市)に本拠を定めた。一方、織田伊勢守敏広の系統は尾張北部の半国の四郡の守護代として、岩倉城(同岩倉市)に本拠を定めたのである。

斯波氏と各織田氏の支配関係(※戦国ヒストリー編集部作成)
斯波氏と各織田氏の支配関係(※戦国ヒストリー編集部作成)

 永正8年(1511)、信長の父・信秀は信定の子として生まれた。信秀が属した織田氏は、織田大和守敏定の系統の一族であり、その配下の三奉行の1人に過ぎなかった。最初、信秀は弾正忠を官途にしていたが、のちに備後守に改めたのである。

 信秀が家督を継承したのは、大永6年(1526)4月から翌年6月までの間と指摘されている。信秀は、まだ元服を終えたばかりの十代半ばの若者だった。

 信秀の家は「弾正忠」や「備後守」という官途を用いていたので、「弾正忠家」と呼ばれるようになった。しかし、当時の信秀の立場は清須三奉行の1人にすぎず、まだまだ影響力は小さかったのである。

 信秀は清須城の西に位置する、勝幡(愛知県稲沢市から愛西市またがる地域)を本拠としていた。勝幡は水上交通の要衝であり、経済的に豊かな土地だった。こうした経済基盤が、のちの信秀の飛躍につながったのである。

台頭した信秀

 天文年間以降、清須三奉行に過ぎなかった信秀は急速に台頭し、主家の守護代家を圧倒するようになった。当時、織田家は清須城の守護代家と岩倉城(愛知県岩倉市)の織田伊勢守とが、互いに争っていたのである。

 こうした内乱状態の中、清須三奉行の力が大きくなっていた。やがて信秀は清須三奉行の中から抜け出し、主家を凌ぐ威勢を獲得したのである。信秀は主家の争いに乗じて、確固たる地位を築き上げたといえよう。

 信秀が一歩抜け出した理由としては、勝幡城の近くにあった津島社の湊町や門前町として栄えていた津島にあったといわれている。信秀は津島を支配したことで、大きな経済力を保持することになった。信秀は、次第にほかの織田一族を凌駕した。

 信秀は居城を勝幡城から那古野(名古屋市中村区)、古渡(名古屋市中区)、末森(名古屋市千種区)へと移動しながら、徐々に勢力範囲を拡大した。もちろん、移動したのには大きな意味があった。

 たとえば、天文8年(1539)、信秀は古渡城に拠点を移した。信秀の経済的基盤となったのは、近隣の熱田神宮の門前町、港町でもある熱田だった。その前の本拠だった那古野城は、子の信長に譲ったのである。

信秀の居城(青マーカー)マップ。1~4は移転順(※戦国ヒストリー編集部作成。© OpenStreetMap contributors)
信秀の居城(青マーカー)マップ。1~4は移転順(※戦国ヒストリー編集部作成。© OpenStreetMap contributors)

国外に攻め込んだ信秀

 信秀は伝統と権威を重んじており、天文2年(1533)7月に蹴鞠の宗家・飛鳥井雅綱を京都から招き、山科言継も交えて勝幡城で蹴鞠会を開催した。その後も清須城において、多くの見物人や客を集めると、蹴鞠会を連日のように催したのである。信秀は京都の文化に敏感だったが、理由はそれだけではないだろう。

 信秀は伊勢外宮に銭700貫、禁裏築地(御所を囲む塀)修理料として4000貫をそれぞれ献上し、積極的に朝廷に近づいた。この功績により、信秀は後奈良天皇から綸旨、および勅撰集の一つ『古今集』を与えられた。信秀は教養豊かな人物でもあり、朝廷に奉仕する気持ちは、子の信長にも受け継がれたのである。

 信秀は版図を拡大するため、国外へ積極的に攻め込んだ。三河の松平氏とはたびたび戦うことになった。天文9年(1540)、信秀は安祥城(愛知県安城市)を攻略すると、子の信広を城主にしたのである。

 天文11年(1541)、信秀は駿河の戦国大名である今川義元と小豆坂(愛知県岡崎市)で戦った。天文16年(1546)になると、信秀は松平忠広を降伏に追い込み、三河方面に進出する勢いだったのである。

 信秀は美濃の斎藤道三とも果敢に戦い、斎藤勢の尾張を阻止しようとした。天文13年(1542)、信秀は斎藤氏に敗戦したが、のちに道三の娘の帰蝶(濃姫)と信長を結婚させることで和睦を成立させたのである。

 天文17年(1546)、一族の織田信清(犬山城主・愛知県犬山市)、織田寛貞(楽田城主・同上)が謀反を起こしたものの、信秀は鎮圧することに成功した。いかに一族とはいえ、決して油断できなかったのである。

 天文18年(1547)3月、今川氏は信秀を討つべく、約1万の軍勢を編成し、太原雪斎を大将として織田方の手に落ちた西三河の安祥城に送り込んだ。城主の信広は今川勢と戦い、一度は攻撃を退けたが、ついに敗北を喫したのである。

 同年9月、今川氏は再び安祥城に出陣した。織田家の家臣・平手政秀は援軍として安祥城へ向かったが、安祥城は同年11月に落城し、信広は捕らわれの身となった。その後、信広は織田家の人質となっていた徳川家康と交換され、織田家に戻ったのである。

 天文20年(1549)3月3日、信秀は末森城で亡くなった。葬儀は萬松寺(名古屋市中区)で行われ、僧侶300人が参列した壮大なものだったと伝わるが、没年については、天文18年(1547)、同21年(1548)説もある。

 信秀の葬儀の際、異様な風体で参列した信長は、抹香を手につかむと仏前に投げつけたという。この話は『信長公記』に書かれたものである。

まとめ

 信秀は、まさしく織田家の中興の祖であった。信秀が基盤作りをしっかり行ったので、信長は天下統一に邁進できたのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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