織田信秀・信長父子による朝廷への財政支援…織田家と朝廷が接点をもった経緯とは
- 2025/03/19

織田信長は永禄11年(1568)に軍勢を率い、足利義昭を連れて上洛。義昭を15代将軍に就任させています。以降は朝廷とは切っても切れない関係となり、それは終生続きました。
ドラマや書籍でのワンシーンで、信長と朝廷の場面が描かれるときは、永禄11年の上洛以降の話になることが多いかと思います。しかし、それ以前も信長と朝廷の接触がなかったというわけではありません。そもそも織田家自体、信長の父・織田信秀の時代から朝廷との接点はあったのです。
そこで今回は、財政支援(献金)をキーワードに、信長が上洛する以前の織田家と朝廷について深掘りしたいと思います。
ドラマや書籍でのワンシーンで、信長と朝廷の場面が描かれるときは、永禄11年の上洛以降の話になることが多いかと思います。しかし、それ以前も信長と朝廷の接触がなかったというわけではありません。そもそも織田家自体、信長の父・織田信秀の時代から朝廷との接点はあったのです。
そこで今回は、財政支援(献金)をキーワードに、信長が上洛する以前の織田家と朝廷について深掘りしたいと思います。
莫大な金額を献上した信秀
織田信秀と朝廷との関係については、以前に執筆した記事で、公卿の飛鳥井雅綱と山科言継が尾張に下向した様子を取り上げました。この下向の際に信秀は豊富な資金力を背景に、彼等を手厚くもてなしていました。(詳細は以下、ご参照下さい)この下向は尾張国内の情勢と公家側の思惑が絡み、両者の利害が一致したため、実行されたもの思われますが、少なくとも信秀はある程度、朝廷に対して敬意を持っていたと考えられます。
飛鳥井雅綱等の尾張下向から10年後、信秀は朝廷に御所の修理費を献上したことがわかっています。天文12年(1543)1月12日、信秀は室町幕府と摂関家の近衛氏を通じて、禁裏の修理費用の献上を申し入れました。
一般的に、朝廷と直接交渉ができる武家は室町将軍(幕府)のみでした。信秀も尾張国内では実力者でしたが、幕府からみれば、地方の有力者の1人に過ぎません。当時の通例に則り、信秀は幕府を通じて朝廷とやり取りをしていたとみられます。
また、当時の足利将軍(12代義晴)の正室は近衛氏の出身であり、足利氏と近衛氏は婚姻関係を通じて、密接な関係にありました。そのため、近衛氏は幕府の政権運営にも大きく関与していたと言われています。
幕府と近衛氏が、信秀からの禁裏の修理費献上の申し入れを仲介したのは、以上のような事情があったためです。ちなみに、献金先となる朝廷は、信秀の申し出を歓迎していたそうです。つまり、朝廷はそれだけお金に困っていたのだろうと思います。
ところで、このときの信秀はどのくらいの金額を献金したのでしょうか? 奈良の興福寺の日記(『多聞院日記』天文12年2月14日条)によると、信秀が「四千貫」を献上したという噂が流れており、それが事実であるならば驚愕である、とする記述が残っています。
しかし驚くべきことに、実際の献金額は10万疋(1万貫)もありました。『お湯殿の上の日記』天文12年4月30日条・5月1日条によれば、信秀は使者として平手政秀を上洛させ、10万疋(1万貫)を朝廷に献上。これに対して、朝廷は小御所に政秀を招き、もてなしをして太刀を贈答しています。
この莫大な金額には、信秀の経済力の豊かさが垣間見えます。中世の破壊者のイメージが強い信長ですが、その父・信秀からはそのようなイメージは伝わって来ないかと思います。
では、息子の信長はどうだったのでしょうか?
信長と朝廷の初めての接点
まず、信長と朝廷の最初の接点はいつなのか、検討してみましょう。天文20年頃(1551)、信秀は亡くなったとされています。家督を継承した若き日の信長を待ち受けていたのは親族や家臣などの相次ぐ裏切りでした。信長は同母弟の信勝を誅殺する等して、尾張国内を安定化させていき、そうした中の永禄2年(1559)2月に上洛をしています。つまり、永禄11年(1568)以前にも上洛していたのです。
さて、このとき上洛では当時の将軍・13代足利義輝に謁見したとする記録が残っていますが、朝廷と接触した記録は確認されていません。義輝との会見が上洛の目的であったとみられます。このため朝廷とは接触しなかったのでしょう。
信長が朝廷と接触したことが確実にわかる初見の時期は、永禄9年(1566)4月です。4月11日、信長から馬・太刀・銭3000疋が朝廷に献上されたことが、朝廷の記録から確認でき、献上された銭は公家衆に下賜されたとあります。
このときの信長のねらいはよくわかっておりません。当時の信長は美濃の斎藤氏と全面対決の最中であり、斎藤氏との戦いを有利に進めるための献金だったかもしれませんが、確たる史料は残っておりません。
この翌年、信長は斎藤氏を滅ぼして美濃国を支配下とし、稲葉山城を「岐阜城」に改名して居城としました。そして美濃を手に入れた信長の下に、突如朝廷から使者(勅使)が訪ねてくるのです。
正親町天皇からの綸旨
朝廷から支援を要請される信長
信長を訪ねてきた勅使は正親町天皇の綸旨を携えていました。綸旨には信長の美濃攻略を称賛したうえで、信長に3つの支援要請がありました。具体的には以下3点の資金援助です。- 1、誠仁親王の元服費用
- 2、御所の修理費用
- 3、美濃・尾張国内の御料所(禁裏領)の回復
1つずつ取り上げたいと思います。まず誠仁親王(さねひとしんのう)は正親町天皇の第1皇子で、事実上の皇太子でした。朝廷の記録によると、天皇は当時16歳だった誠仁親王の元服を急いでいたことがわかっています。
永禄10年時点で正親町天皇は51歳。当時の常識からみると正親町天皇は高齢者に分類される年齢でした。現在の日本の平均寿命は80歳以上ですが、当時は50歳前後が平均寿命だったと言われていました。このため、自身の死後に皇位を継承する予定の誠仁親王の元服を急いだとみられます。これは正親町天皇の親心だったのでしょう。
誠仁親王は元服するにはちょうど良い年齢でしたが、当時の朝廷はとにかくお金に困っていたので、信長に元服費用の支援を要請したと考えられます。
2点目の御所の修理費献上も、朝廷の財政状態の窮乏化を示す事例の1つになります。
3点目も同様に、朝廷の困窮を示す事例になります。美濃・尾張国内に点在する禁裏領(御料所)からの税収が途絶えていたため、美濃・尾張の支配者である信長に、御料所からの税収を復活するよう求めたのでした。
以上、3点の支援要請をみてきました。
なお、信長に支援要請をした理由について、朝廷は、過去に信秀からの御所の修理費献上(おそらくは前述の10万疋献上)があったため、としています。
信長の返答と対応
朝廷からの要請を受けて、信長は返書を認めました。この中で、要請内容については承諾しましたが、いつ献金するかについてはこれから検討すると返答しました。実際にこのときに献金を行った記録は見当たりません。ただし、信長が足利義昭とともに上洛した永禄11年(1568)以降に、誠仁親王の元服費用と御所の修理費を献上したことがわかっています。美濃・尾張の御料所の回復については実行されませんでした。その理由は御料所の回復対象地が信長の家臣の領地になっていたためと思われます。御料所を回復するためには、家臣の領地を没収する必要がありますが、さすがにそれはできなかったのでしょう。
しかし信長は、天正3年(1575)に朝廷関係者を対象とした徳政令や新地給与を実施しています。 美濃・尾張国内の御料所の回復は難しかったですが、その代替策として徳政令や新地給与を実施したものと考えられます。
(詳細は以下、ご参照下さい)
おわりに
ここまで、信秀・信長親子2代による朝廷の財政支援について取り上げてきました。足利義昭と上洛する以前の時期を中心に取り上げましたが、意外にも朝廷と織田家は接点がありました。個人的には、朝廷は信秀の先例をしっかり把握したうえで、信長に資金援助を求めた事例がなかなか興味深く感じました。【主な参考文献】
- 谷口克広『天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』(祥伝社、2017年)
- 横山住雄『織田信長の尾張時代』(戎光祥出版、2012年)
- 奥野高広『織田信長文書の研究』(吉川弘文館、1988年)
- 『言継卿記』(続群書類従完成会、1999年)
- 『お湯殿の上の日記 続群書類従 補遺三』(八木書店、2013年)
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