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【トンデモ伝説】鬼神を従え、海を歩いたという修験道の開祖・役小角の謎

  • 2025/12/03
役行者倚像(奈良国立博物館蔵、出典:ColBase)
役行者倚像(奈良国立博物館蔵、出典:ColBase)
 皆さんは役小角(えんのおづぬ)をご存じですか?曲亭馬琴『南総里見八犬伝』にも登場した彼の正体は、飛鳥時代に実在した史上最強の行者です。

 彼が開いた修験道とは、日本の山々を修行の場とし、仏教や日本の古来の山岳信仰などが融合した独自の宗教のこと。その開祖として多くの弟子を導き、前鬼・後鬼と名付けた鬼神を従え、時の権力者・藤原鎌足の病を癒した伝説はあまりに有名です。

 今回は波乱万丈な謎に満ちた、役小角の生涯に迫っていきたいと思います。

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大化の改新の指導者・藤原鎌足の病を摩訶不思議な法術で治す

 役小角が生まれたのは634年(舒明天皇6年)、現在の奈良県に当たる大和国葛上郡茅原郷(ちはらごう)です。父は出雲から婿入りした神官・役大角(えんのおおすみ)、母は白専女(しらとうめ)と言われています。後年は役行者(えんのぎょうじゃ)や神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)とも呼ばれました。

 小角の生い立ちには不思議な逸話があります。

 ある日のこと、母・白専女が、金剛杵(こんごうしょ)という仏具が天から下りてきて口に入る夢を見ました。後日妊娠が発覚し、月満ちて子を産むも、赤子の様子が普通と違っていたのを気味悪がり、山に捨ててしまいます。しかし赤子は雨にも露にも濡れず、獣や鳥に見守られて健やかでいた為、白専女は改心して家に連れ帰ったそうです。

 生後すぐに捨てられるとは、なかなかハードな幕開けですね。一説によると赤子の額には小さな角が生えており、母はこれに怯えて捨てたと言われ、小角の名前もそこから来ています。また、胎内にいた時から神々しい光を放っていたと聞けば、母親が慌てたのも理解できます。

 なお、両親の名前は平安時代成立の『日本霊異記』と『役行者本記正系紐』で異なり、後者における父の名は高賀茂十十寸麿と記され、日本神話の英雄・須佐之男命(スサノオノミコト)が先祖にいます。動物に無条件に好かれる所や夢のお告げのエピソードが、釈迦の誕生秘話と似通っているのはご愛敬でしょうか。

 さて、幼少期の小角ですが、大変な神童で誰にも教わらないうちから梵字を書き、周囲の大人たちを驚かせました。その一方で野生児のような活力を併せ持ち、昼は山野を駆け回り滝に打たれ、獣たちと戯れていたそうです。

 元興寺の僧・慧灌(えかん)は小角の才能を認め、山で身を護る呪法である「孔雀明王経」を伝授。弱冠17歳で弟子入りした小角は、師のもとで学ぶ傍ら、山岳修行に明け暮れ、大自然の中で逞しく生きる知恵を培います。22歳の春には滝行の最中にインドの高僧・竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の化身と遭遇し、密教の奥義を授かりました。

山にこもって修行する修験者「山伏」のイラスト
山にこもって修行する修験者「山伏」のイラスト

 その後は葛城山や熊野・大峰の山々で30年にも及ぶ過酷な修行に取り組み、吉野の金峯山(きんぷせん)にて金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)を感得し、今日の修験道の基礎を築きました。

 金剛蔵王大権現とは釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊が合体したものとされ、修験道の本尊として崇拝されています。さらには大化の改新の指導者・藤原鎌足の病気を祈祷で癒す手柄を立て、その法力の凄まじさを世に知らしめました。

過酷な修行のはてに鬼神を従えて

 昔々、摂津国(現在の大阪府北部)の箕面山(みのおさん)に、人を獲って食べる鬼の夫婦が住んでいました。その悪行を風の噂で聞き及んだ小角は、すっかり人肉の味を覚えてしまった夫婦を懲らしめようと考え、鬼の子供を法術でどこかに隠してしまいます。

 あちこち探し回ったものの見つからずに悲嘆に暮れる夫婦に対し、小角は「殺しをやめて粟(あわ)を食べると約束すれば子供を返す」と持ち掛けます。夫婦がこの条件を飲んだと見るや、たちまち2匹を人間の姿に戻し、約束通り子供を返してやりました。以降、元鬼の夫婦は小角に仕え、前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)と名前を改めたそうです。

 これは追い剥ぎを働く山伏や山の民を諫めた話が起源とも言われています。山を活動の場とする小角にとって、山中で出会った人々に仏の教えを説き、傘下に加えていったとしても不思議ではありません。

 追記すると前鬼が夫、後鬼が妻となり、彼らは小角の死後に大天狗となり、修験道の信仰神に祭り上げられました。葛飾北斎の『北斎漫画』にも、前鬼と後鬼を従えた役小角の雄姿が描かれています。同時代に書かれた『南総里見八犬伝』では、伏姫に仁義八行の数珠を渡すキーパーソンを担いました。

役小角と前鬼・後鬼(『北斎漫画』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
役小角と前鬼・後鬼(『北斎漫画』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 小角は前鬼・後鬼夫妻の他にも複数の鬼神を使役しており、彼等が逆らおうものなら術で縛り、自在に操ったと語り継がれています。日頃から水汲みや薪割りを命じていた所は、式神(しきがみ)に雑用を任せる安倍晴明に近いかもしれません。

伊豆大島へ流刑されるも懲りずに海を歩いて富士山へ

 役小角伝説はまだまだ続きます。

 ある時、ふと葛木山(かつらぎやま)と金峯山の間に石橋を架けようと思い立った役小角。諸国の神々に協力を請い、下僕の鬼神たちに工事を急がせるものの、葛木山を治める神・一言主(ひとことぬし)は自分の醜い姿を恥じ、夜しか働こうとしませんでした。これに怒った小角が一言主を折檻(せっかん)を加えます。

 主人の仕打ちに耐えかねた一言主は天皇に「役行者に叛心あり」と密告し、母親を人質にされた小角は敢え無く朝廷に捕まり、遠く離れた伊豆大島へ流されてしまいました。しかし当の本人はまるで懲りず、夜な夜な海を歩いて富士山に登り、かと思えば熱海の伊豆山で温泉を掘り当てたりと、悠々自適な隠居ライフを送っていたそうです。

 全く神出鬼没ですね。

 上記のエピソードは文武天皇3年(699)の流刑の史実をもとにしており、この時の罪状は「詭弁を弄して人心を惑わした為」となっています。2年後の大宝元年(701)には流刑を解かれ帰郷したものの、同年6月に箕面山瀧安寺の奥の院にて永眠。享年68歳、平均寿命が短い当時としては大往生です。

 一方で死後も目撃談が絶えず、

・日本から中国に留学した僧・道昭が新羅の山中で見かけた
・若い頃修行した石鎚山(いしづちさん)で天狗に化けている

などと噂されました。

おわりに

 以上、役小角のトンデモ伝説でした。

 一部の記述は後世の創作の可能性が高いですが、小角が偉大な人物である事実は変わりません。たった2年であっさり流刑地から戻ってこれたのも、文武天皇の枕元に童子が現れ、「小角を陥れた報いを受けよ」と戒めたことに起因するとか。

 皆さんはどこまで信じますか?


【参考文献】
  • 藤巻一保『役小角読本』(原書房、2001年)
  • 銭谷武平『役行者伝記集成』(東方出版、1994年)
  • 黒須紀一郎『役小角: 異界の人々』(作品社、1996年)
  • 銭谷武平『役行者伝の謎』(東方出版、2018年)

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  この記事を書いた人
読書好きな都内在住webライター。

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