「音のする駒は本物の将棋ではない」 浪速が生んだ伝説の棋士・坂田三吉のストイックな将棋哲学
- 2025/11/20
皆さんは浪速の将棋名人、坂田三吉をご存じですか?戯曲『王将』、そしてそれを原作とする映画の大ヒットにより、彼の名は一躍有名になりました。彼は、大阪府堺市の被差別部落に生まれ、極貧という逆境に決して負けず、将棋の道を極めた人物でもあります。
今回は、日本が誇る偉大な将棋名人、坂田三吉の知られざる素顔に迫ってみたいと思います。
今回は、日本が誇る偉大な将棋名人、坂田三吉の知られざる素顔に迫ってみたいと思います。
【目次】
貧しい生まれと「縁台将棋」での才能開花
坂田三吉は、明治3年(1870)7月1日、堺県大鳥郡舳松村(現・大阪府堺市堺区協和町)で生を受けました。父は坂田卯之吉、母はクニ。8人きょうだいの長男(3番目)であることから「三吉」と名付けられたそうです。生家は草履作りで生計を立てていましたが、暮らしは厳しく、三吉自身も幼い頃から家業を手伝っていました。そのため尋常小学校は半年で辞めてしまい、覚えた漢字は自分の名前の「三」と「吉」、そして「馬」のみで、ほとんど読み書きができませんでした。本人も勉学は性に合わず、もっぱら将棋を好んでいたといいます。
明治19年(1886)、16歳で日本橋の履き物問屋へ丁稚奉公に出ます。仕事は主に子守。日課となっていたのが、夕涼みを兼ねて縁台でさす「縁台将棋」への飛び入りでした。これは「下手の横好き」同士がさす将棋の隠語でもありましたが、三吉はここで天才的な才能を発揮し、相手の大人たちを次々と打ち負かします。
一方、将棋に夢中になると周りが見えなくなるのが彼の欠点でした。ある日、三吉は勝負にのめり込むあまり、おぶっていた子どもを落とし、怪我をさせてしまう不手際を犯します。それが原因で暇を出され実家に帰った後は、家業を手伝いながら賭け将棋に明け暮れ、連戦連勝のアマチュア将棋指しとして評判を取りました。
同時期に父の卯之吉が亡くなった為、三吉は大黒柱として家族を養っていかねばならなかったのです。
そんな三吉に、運命の出会いが待ち構えていました。
宿敵・関根金次郎、師匠・小林東伯斎と出会い、プロの道へ
明治24年(1891)、堺の料亭「一力」で三吉は”ある男”と対局しました。その名は関根金次郎……のちの十三世名人であり、当時はまだ駆け出しの棋士でした。結果は三吉の惨敗。余程悔しかったのか、以降は本気でプロの道を目指し、師匠の教えを仰ぎました。三吉が関根を通じて弟子入りを果たした小林東伯斎は、「大阪名人」と呼ばれたプロ棋士でした。彼は天野宗歩四天王の一人で、関根が見せた三吉の棋譜に惚れ込み、自ら弟子に欲しいと申し出たと言います。東伯斎の指導を受けた三吉はみるみる実力をつけ、四段に昇段。将棋界の頂点を取るべく快進撃を続けました。
明治16年(1903)には、七段に昇格した関根と再戦し、引き分けに終わります。しかし実際は関根側から一方的に勝負を打ち切られたようで、この結果に闘志を奮い立たせた三吉は、妻のコユウに
「天下の七段が四段の素人に大人げない」
「今日からホンマの将棋指しになる」
と宣言したといいます。
その後も強敵と戦いながら順調に段位を上げ、明治43年(1910)7月に、坂田を盟主とする関西将棋研究会が発足します。同時に、大阪朝日新聞紙上で「ワシは七段の実力があるからおのれに七段をくれたる」と発表し、異存があれば誰とでも手合わせに応じると啖呵を切りました。
三吉と関根はまさに生涯のライバルでした。対戦成績は三吉の5勝4敗で、大正7年(1918)の対局が最後とされます。自伝『将棋哲学』で当時を回想した三吉は、関根に最大の敬意を表しています。
「ワシの魂の眼を開いてくれた。将棋に活を入れてくれた。 関根さんはこの意味からわたしの恩人である、導師である。」
東京将棋連盟との確執と孤立、寂しい晩年
季節は巡って大正14年(1925)。京阪神の財界人80名に推薦された三吉は、パトロン・柳沢伯爵の後押しを得て、将棋界の最高権威者に与えられる終身位・名人を名乗りました。ところが東京将棋連盟はこれを認めず、名人を「僭称した」として三吉を痛烈に批判し、連盟から追放してしまいます。この事件を境に彼は完全に孤立し、長い不遇の時代を過ごすことになりました。三吉が連盟に逆らってまで名人を自称したのは、連盟が東京棋界再編に関与した木見金治郎・大崎熊雄・金易二郎・花田長太郎に対し、その見返りとして昇段を認めたからだと言われています。純粋に実力で勝ち上がってきた三吉にとって、政治的な立ち回りの上手いメンバーを優遇する連盟のやり方は、許しがたいものだったのではないでしょうか。
プロ棋士引退後は隠居を決めた三吉でしたが、晩年は人と将棋をさす機会もめっきり減り、「ホンマの将棋がさしたい」とこぼしながら、折り畳みの将棋盤でひとり将棋をしていたそうです。
結局、その願いは叶わず、第二次大戦から間もない昭和21年(1946)7月23日、食当たりが原因で命を落としました。死亡記事はたった10行……かつての名人とは思えぬほど、粗略な扱いです。
新国劇の演劇『王将』で人気再燃!大阪の伝説となる
しかし、彼の人気は北条秀司脚本の新国劇の演劇、そしてそれを映画化した『王将』の大ヒットにより再燃します。昭和44年(1969)には大阪市浪速区の新世界通天閣に王将碑が建立され、三吉の命日である7月23日が「王将忌」に制定されました。この王将碑があちこち欠けているのは、お守りとして石片を持ち帰る棋士見習いが絶えないからだとか。罰当たりなのかすごいのか、判断に困りますね。
三吉の自伝『将棋哲学』には数多くの名言が収録されています。中でも印象的だと感じたのは次の言葉です。
「音のする駒はその人の将棋がほんものになってない証拠」
下手に力んで叩き付けるのではなく、そっと駒を置くのが本物の将棋であると説いており、彼のストイックな人柄がうかがえますね。
また、影ながら夫を支え続けた妻・コユウの存在も忘れてはいけません。生活苦から一度は鉄道自殺を図ったコユウが、臨終の際に
「お父ちゃん、あんたは将棋が命や。どんなことがあってもアホな将棋は指しなはんなや。」
と三吉を叱ったエピソードには、夫婦の深い絆を感じて涙腺が緩みます。
おわりに
以上、伝説の将棋名人・坂田三吉の波乱万丈な生涯を辿りました。映画や演劇では破天荒な勝負師の面が目立ちますが、実際は大変礼儀正しく、白い羽二重に墨で「馬」と「三」の字を書いた、紋付き羽織りの袴を愛用していたそうです。反骨の精神と純粋な将棋への愛を貫いた彼の生き様は、棋士ならずとも憧れる気持ちがよくわかります。
【参考文献】
- 織田作之助、藤沢桓夫、村松梢風『王将・坂田三吉』(中央公論新社、2021年)
- 中村 浩『棋神・阪田三吉』(小学館、2002年)
- 巌崎健造、小野五平ほか『囲碁の談 将棋の談』(小澤書房、2014年)
- 大山勝男『反骨の棋譜 坂田三吉』(現代書館、2014年)
- 阪田三吉『将棋哲学』(小澤書房、2014年)
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