横井英樹 ホテルニュージャパン火災事件で晒した卑小な悪人の素顔
- 2023/11/15
昭和57年(1982)2月8日、赤坂にある一流ホテル「ホテルニュージャパン」で火災が発生しました。都内では戦後最大規模の火災で33人が死亡、28人が負傷してしまったのです。これほどの大火災になったのはスプリンクラーが設置されていない、防火扉がない、適度な湿度を保つための空調装置が止められていて館内の空気が異常なまでに乾燥していた、宿泊客数に対して従業員数が少なすぎ避難誘導ができなかった、等が原因でした。
当時でも、これらの防火設備を設置することはホテルにとって義務であり、管轄の麹町消防署も点検において不備を指摘し、改善を勧告していたのですが、何の改善も行われていなかったのです。テレビでは燃えさかる部屋から脱出しようと10階の窓の外へ出て、僅かにあった外壁のでっぱりに足をかけて火災から逃れようとする男性の姿が実況中継され、その火災の凄まじさが伝えられました。
そしてホテルニュージャパンの社長である横井英樹氏がテレビに登場。蝶ネクタイをした小さい体の横井氏は
と言いました。これが世間の人々が「横井英樹」という人物を知る最初のきっかけとなりました。その後、横井氏は「火事は出火元となった部屋の泊り客が原因であり、その人物に賠償させる」と言いだし、世間のヒンシュクを買うことになります。
実は、この横井英樹という人物は財界では有名な人物でした。”悪い意味で有名” だったのです。「のっとり屋」「銭ゲバ」と呼ばれ、最後まで悲願であった「一流の財界人」にはなれず、「卑小な悪人」として一生を終えた、その人物像を追ってみましょう。
当時でも、これらの防火設備を設置することはホテルにとって義務であり、管轄の麹町消防署も点検において不備を指摘し、改善を勧告していたのですが、何の改善も行われていなかったのです。テレビでは燃えさかる部屋から脱出しようと10階の窓の外へ出て、僅かにあった外壁のでっぱりに足をかけて火災から逃れようとする男性の姿が実況中継され、その火災の凄まじさが伝えられました。
そしてホテルニュージャパンの社長である横井英樹氏がテレビに登場。蝶ネクタイをした小さい体の横井氏は
横井:「誠に申し訳ない気持ちです。出来るだけの償いをさせて頂きます。防火設備については次第に整えていく予定で1年後には完備するはずでした。」
と言いました。これが世間の人々が「横井英樹」という人物を知る最初のきっかけとなりました。その後、横井氏は「火事は出火元となった部屋の泊り客が原因であり、その人物に賠償させる」と言いだし、世間のヒンシュクを買うことになります。
実は、この横井英樹という人物は財界では有名な人物でした。”悪い意味で有名” だったのです。「のっとり屋」「銭ゲバ」と呼ばれ、最後まで悲願であった「一流の財界人」にはなれず、「卑小な悪人」として一生を終えた、その人物像を追ってみましょう。
【目次】
少年時代
横井英樹氏は大正2年(1913)7月1日に愛知県中島郡平和村に生まれました。父は足が悪く仕事ができないため、朝から酔っぱらって道路の真ん中に寝そべり、通る人にいちゃもんを付けて小銭をたかる、という人物であり、実質的な家計は母が小さな畑から得られる収穫物を売ることによって、かろうじて成り立っているという赤貧の家庭でした。尋常小学校では成績は良く、特に書がうまく、後に彼の書道の才を見込んだ寺の住職が高等学校に行かせてくれる、という程だったそうです。一方でガキ大将であり、乱暴者でもありました。父親は家でも母と彼に暴力をふるい、英樹少年は酒を憎みました。
横井英樹氏は成人してからも ”酒” を嫌い、決して飲もうとしなかったのは、このときの思いが心にこびりついていたからだと言われています。
丁稚奉公と独立 そして太平洋戦争
15歳になった英樹少年は一人、上京し日本橋の渡辺商店という、メリヤス問屋に丁稚奉公に入ります。現在ではあまり使われていませんが、メリヤスというのは機械編みによる薄地の肌着・靴下などの伸縮性を求める繊維物を言います。そして英樹少年は早くも2年後には独立して「横井商店」を開業します。やはり商才があったのでしょう。
しかし昭和16年(1941)12月8日に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争へと突入していきます。すると横井氏は海軍の某中将とコネを作り、海軍の陸戦隊が着る防暑服の生産を一手に請け負い、横井商店を廃業して昭和17年(1942)に横井産業を立ち上げます。
横井産業は陸海軍、軍需相の管理会社となり、あっという間に全国に工場を構え従業員3000人以上を抱える大企業となりました。当時の横井氏を知る人の話では「人が入れる位の大きさのリュックサックに百円札(当時の最高額紙幣)を詰め込んで家に帰っていた。横井の家には、そんなリュックサックが10個以上あった」とのことです。
余談になりますが、かの政商・小佐野賢治氏も戦争が始まる直前に、それまで営んでいた自動車部品店を閉店し、やはり陸軍の嘱託となって陸軍に自動車部品を納入する仕事を請負い、巨富を築いています。
小佐野氏は体格がよく徴兵検査で「甲種合格」であったために戦争開始とともに徴兵されたのを、うまく除隊してきましたが、横井氏は徴兵されてはいません。横井氏も年代的には徴兵検査を受けているはずですが、記録には残されていません。のちの横井氏の姿を見ると決して体格が良いとは言えない点から察するに「乙種、丙種合格」であったのではないかと推測されます。ですので、開戦当初、横井氏は徴兵されなかったと考えられます。
また、軍需相の管理会社の社長であれば、その後も徴兵を免除されたでしょう。しかし横井氏も小佐野氏もまさに ”機を見るに敏” であったことは間違いありません。有事の際は軍事需要に応える商売が最も儲かる、ということのようです。日本が敗戦してから経済復興が本格的に始まるのは、昭和25年(1950)に発生した朝鮮戦争で、米軍が必要とする軍需品を、日本が生産して供給したことがきっかけとなり、「神武景気」と呼ばれる空前の好景気が起こってからなのです。
終戦とGHQ
日本が敗戦し、GHQが進駐してくると、横井氏はGHQにうまく取り入り、「GHQ御用達」の商人となります。変わり身の速さも凄いですが、なんと横井氏はGHQ相手の商売を暫くすると止めてしまうのです。その理由は自分自身が営んできた、繊維業界の先行きを不安視してのことでした。明治開闢以来、日本からの輸出品は生糸などの ”繊維製品” が中心でした。つまり、それまでの日本の経済は「生糸」と「綿」で回っていたのです。しかし、戦争が終わると繊維業界には陰りが見え始めていました。
とはいっても、実際に繊維業界に本格的な危機が訪れるのは、まだまだずっと後年の話なのですが、横井氏は早くから繊維業界の衰退を感じ取っていたのです。この先取り感覚だけは凄いと言わざるを得ません。
不動産業界への進出
これから日本が復興への道を歩む、と言う時に横井氏が目を付けたのは ”不動産” でした。それも一流の不動産ばかりを買い漁ったのです。田園調布の自宅、鎌倉、熱海にあった旧梨本宮邸、池田山にある通産大臣官邸、軽井沢にあった旧伏見の宮別邸、銀座のビル群など…。横井氏はメリーカンパニーという会社を作り、銀座一丁目に本社を構えました。
横井氏の予想は的中。彼は不動産を「5年割賦の月払い」で買ったのですが、不動産の値段はあっという間に急騰し、払い終わる前に既に巨額の差益が出ている状態になっていたのです。
少し話はそれますが、この時代に米穀店を営んでいた森泰吉郎氏も虎ノ門周辺の土地などの東京港区の焼けビルを買い占めました。それが現在の「森ビル」の土台となります。
ここまでの横井氏の人生は、まさに順風満帆と言って良いでしょう。丁稚奉公から始まり、あっという間に巨万の富を築きあげたのですから。しかし、当時の財界での彼に対する評価は”成り上がり者”でした。
これは事実そうなのだから仕方ないのですが、横井氏はこれに反発します。本業を地道に発展させていけば自然に評価も段々と変わってきたのでしょうが、横井氏は一発逆転を狙ってしまうのです。
白木屋争奪戦
現在、東京、日本橋に「日本橋一丁目ビルディング」というビルがあります。このビルの前身は「東急百貨店日本橋店」であり、それ以前には「白木屋」というデパートがありました。白木屋は江戸時代から続く300年もの歴史を持つ老舗で三越と並ぶ「名門デパート」です。横井氏は白木屋の経営権を奪取すべく、白木屋の株の買い占めを開始します。要するに、白木屋の経営者となれば ”一流財界人の仲間入り” であり、”成り上がり者”などとは言われない、という思いからでした。後に「乗っ取り屋横井」と言われる、きっかけとなった出来事でした。
昭和25年(1950)から開始した白木屋株の買い占めは、昭和28年(1953)の1月には全発行株数の1/4を超える102万8千株となっていました。当時、相場好きだった映画会社、日活の堀久作社長も白木屋株の買占めを行っており、横井氏と手を組むことにしました。横井氏と堀社長の持ち株を合わせると、過半数に近い株数になっていたのです。
慌てた白木屋側は、堀社長の提案で、にっかつホテルの一室で会合を持つことにします。しかし席上、白木屋側は横井氏をけなしまくりました。やはり老舗のプライドが ”成り上がり者” の横井氏を許せなかったのでしょう。
堀社長は元々、白木屋の経営権には興味はなかったので白木屋側に持ち株を譲り、戦線離脱を表明します。つまり利益が上がればそれでよかったのです。一方で横井氏は1人きりになっても株の買占めを進めました。そして同年12月には「過半数の株を握った」という記者会見を行いました。
年が明けて昭和29年(1954)3月、いよいよクライマックスとなる白木屋の株主総会が開かれます。白木屋陣営と横井陣営は錚々たるメンバーを従えて株主総会に臨みました。ちなみに「そのメンバー」を列挙してみましょう。
- 白木屋陣営:殉国青年隊、新田組、力道山
- 横井陣営 :安藤組、古荘四郎彦(千葉銀行頭取)、山崎種二(山種証券社長)、森脇正光(高利貸)、鈴木一弘(のちの買占王)
この時代を知る人が見たら驚くようなメンバーでした。
安藤組というのは渋谷を中心に活動していた暴力団ですが、組長の安藤昇氏はのちに映画プロデューサーに転身、また組員から後に作家となる安部譲二氏が出るなど、非常にインテリジェンスが高いメンバーが多いことで有名な、一風変わった暴力団でした。
古荘四郎彦氏は千葉銀行頭取でありながら、ずさんな融資を繰り返し行ない、千葉銀行を危機においやった経営者、そして森脇正光氏は佐藤栄作幹事長の逮捕を「指揮権発動」でかわした造船疑惑の発端となった人物です。
山崎種二社長も証券業界では知らぬものはいない有名人であり、「売りの山種」と言われ、「最後の相場師」と言われた佐藤和三郎氏(小説、大番のモデル)の終生のライバルであった人物でした。
力道山は周知のとおり、戦後の日本で「最も活躍したプロレスラー」として有名な人物です。
こうして始まった株主総会は荒れに荒れて、ついに法廷闘争にまで発展します。それでも決着は付きませんでした。さしもの横井氏も資金的に行き詰まってきていました。一方、白木屋はデパートと言う実業があるので行き詰まることはありません。そうしているうちに、横井陣営のメンバーも段々と経済的に苦しくなり、離脱していきました。
過半数を超えたにも関わらず、経営権は手に入りません。かといって横井氏が持ち株を売りに出したら白木屋株は大暴落することは目に見えていました。その結果、横井氏は破滅的な損害を被ることになってしまいます。
残された手は、誰かに持ち株をまとめて引き取ってもらうことしかありませんでした。そこで横井氏は ”最後の頼みの綱” として東急グループの総帥・五島慶太氏に助を求めます。
別名「強盗慶太」とも呼ばれたほどの凄腕経営者である五島氏ですが、最初は横井氏を全く相手にしませんでした。しかし、横井氏が雨の日も風の日も毎日、五島氏宅に日参し、お願いし続けたことで数か月後、ついに五島慶太氏も折れて、「1株350円」という条件で横井氏の白木屋株の引き取りを承諾したのです。
こうして白木屋は東急グループの一員に組み入れられ、店舗は東急日本橋店となります。この争奪戦で横井氏は5億8千万の損失を出す結果となりました。とにもかくにも白木屋争奪戦はこれで幕となり、横井氏は五島慶太氏を師として仰ぐようになります。
横井:「今後は地道に事業に打ち込んで行きたい。東洋精糖の問題が片付いたら兜町からは足を洗います」
と語っていた位です。
当時、横井氏は蜂須賀元侯爵から3000万円を借りて東洋精糖という会社ののっとりも進めていました。しかし、この東洋精糖のっとりが横井氏に思わぬ災難をもたらします。
安藤昇氏との対決
横井氏は蜂須賀元侯爵から「年2割の利息を払う」と言う条件で3000万円を借り、東洋精糖と言う会社の株を買占めにかかっていました。しかし、年2割の利息は一向に支払われず、業を煮やした蜂須賀元侯爵は全額返済を求めます。すると横井氏は1000万だけ返済し、その後は音沙汰なしでした。そうしているうちに蜂須賀元侯爵が死去。相続した夫人が2000万の返済を求めて裁判を起こします。横井氏はこれに敗訴しても一向に返済をしませんでした。その後に差押えが実施されますが、横井氏は自分の財産を「弟の名義」にしており、差し押さえできたのはわずかに3万9千円。困り果てた夫人は古い知り合いである元山氏に相談します。そこで元山氏は安藤組の安藤昇氏とともに横井氏の事務所を訪れることにしたのです。
いくら白木屋の件で損をしたといっても、横井氏の財産は半端な額ではありません。箱根や那須に豪華な別荘を持ち、キャデラックを数台乗り回していました。横井氏所有の遊覧船「興安丸」一隻でも数十億円なのです。なのに2000万円を返そうとしない横井氏が相手では、元山氏も自分一人では手に余ると考えたのでしょう。そこで安藤氏に同行を求めたのです。
安藤組は白木屋の株主総会のときには横井陣営でしたが、今回は立場逆転という訳です。元山氏から「蜂須賀侯爵の件だが」という言葉が出ると、横井氏の顔から笑顔が消えました。そして安藤昇氏との会話が始まります。
そのときの会話は横井英樹という人物を良く表していると思いますので原文のまま、載せてみます。
横井:「日本の法律って奴は借りた方に便利にできてるんだ。なんなら君達にも金を借りて返さない方法を教えてやろうか」
安藤:「横井! てめぇ、それでも人間かい!」
横井:「てめぇとはなんだ! 俺はお前達に "てめぇ" 呼ばわりされる覚えはない!」
安藤:「何をぬかしやがる。てめぇがいくら銭を持っているか知らねぇが、もう少し人間らしいことをしてみやがれ。そうすりゃ社長らしい口も聞いてやるが、てめぇみたいな野郎は ”てめぇ” だってもったいねぇや!」
そして安藤氏はテーブルの上にあった大きなガラスの灰皿に手をかけます。横井氏の顔から一瞬にして血の気が引きました。
横井:「まあ、そう興奮しないで、コーヒーでも飲んで下さい」
そして横井氏は自分のコーヒーカップに手を伸ばし、下品な音を立てて、コーヒーを啜り、吐き捨てるようにつぶやきました。
横井:「まったく、うちじゃ、借金取りにまでコーヒーを出すんだから」
これを聞いた安藤氏の怒りは頂点に達し、コーヒーカップをわし掴みにして床に叩きつけます。
安藤:「てめぇんとこのコーヒーなんか飲めるかい!」
横井:「元山さん、あんたは、なんでこんなチンピラを連れて来たんだ!」
元山:「横井さん、あんたは、この安藤さんを知ってるでしょう。白木屋の時に世話になったはずだ。」
横井:「あの時、私についてくれた人がなんで、今度は敵に回るんですか?」
安藤氏「てめぇの根性や正体を知って頭に来たんだよ。株の買い占めをやる金があるなら2000万くらいのはした金、返しやがれ。おまえのために首を吊った人間が何人いると思うんだ!」
横井:「何人、首を吊ろうが、手をくくられようが俺の知ったこっちゃない」
安藤:「てめぇとこれ以上、話しても埒があかねぇ。おい、横井、いま、お前が言ったことをよく覚えてろよ!」
横井:「ああ、いいとも。覚えといてやらぁ」
この後、安藤組長は千葉一弘という組員にブローニング32口径のピストルを渡し、横井襲撃を命じます。ただし「殺すなよ。痛い目に合わせるだけで良い」という命令でした。そこで千葉組員は右肩を狙おうと決めました。右肩なら多少、ずれても心臓から遠いので致命傷になることは無いからです。
そして、夜7時少し前に横井氏のいる社長室のドアを開けます。ちょうど4人が会議中でした。横井氏の顔を知らなった千葉組員は
千葉組員:「横井ってどいつだ?」
横井:「横井は俺だが」
すると千葉組員はブローニングを取り出し、横井氏の右肩を狙いました。
横井:「おいっ!」
横井氏はとっさによけようとしますが、銃弾は左肩に命中。横井氏はテーブルの上に倒れこみました。千葉組員はすぐに逃走しましたが誰も追わず、救急車が呼ばれました。
病院に運ばれた横井氏は重症でした。銃弾は心臓をわずかにそれ、左肺と肝臓を貫き、右のわき腹にまで達していたのです。出血は3000ccに及びましたが1時間半に及ぶ手術で一命は取り止めました。
しかし銃弾は複雑に入り込んでおり、手術でも取り出すことはできませんでした。この結果、安藤組長と千葉組員は逮捕され、それぞれ懲役8年、懲役6年の刑に服すことになりました。
そして横井氏に不運がさらに襲い掛かります。横井氏が「師」と仰ぎ、唯一、尊敬していた五島慶太氏が急逝してしまったのです。そして東急グループの新総帥となった五島昇氏から横井氏は「五島家への出入り禁止」を言い渡されてしまったのです。
小佐野賢治との対決
箱根の宮ノ下に富士屋ホテルという高級ホテルがあります。高位者を常連客に持ち、国賓も止まる高級ホテルで、帝国ホテルと比肩されるほどの格を持っているホテルです。富士屋ホテルは代々、山口家が経営しており、山口堅吉氏が社長をしていましたが、堅吉氏は山口家の長女の婿養子でした。しかし長女が亡くなった後、堅吉氏は別の女性と再婚していました。
要するに山口家の血筋の人から見ると「山口家とは血のつながりの無い人物」が、富士屋ホテルの経営をしている状態であり、納得できるものではありませんでした。そこで山口家の人達は横井氏に協力を求めたのです。
超一流ホテルとなれば横井氏も食指が動きます。すぐにその話に乗り、富士屋ホテルの株の買占めを開始し、1/4の株を買い占めて開かれた株主総会において累積投票権の行使を行い、山口家の人間4人を役員として送り込むことに成功。その後すぐに役員会が開かれ、堅吉氏の社長退陣が決定させています。
さらに横井氏は右翼の大物中の大物、児玉誉士夫氏を役員に入れます。その目的は堅吉氏の反撃を抑えるためでした。政財界の裏を仕切るドン、として児玉誉士夫氏の名前は知れ渡っていたので、児玉氏がいるとなれば誰も手出しは出来ないだろうと踏んだ訳です。
しかしここで思わぬ敵が現れました。”政商”こと小佐野賢治氏です。追い出された堅吉氏は小佐野氏に依頼をしたのです。
山口堅吉:「自分の株は全部、渡す。山口一族も出来る限り切り崩し株を集める。私は経営しなくてもいい。とにかく横井を追い出してくれ!」
と。
世間ではロッキード事件で印象の良くない小佐野賢治氏ですが、実は小佐野氏は ”一本、芯の通った人物” であり、自分に厳しい反面、他人には優しい面を持っていました。横井氏に出入り禁止を食らわせた五島昇氏も小佐野賢治氏を尊敬しており、経営者の鏡としていたそうです。そして”名門好き”でも有名でした。小佐野氏が帝国ホテル、日本航空など、名門会社の大株主であることは、よく知られた事実です。
そんな小佐野氏にとって富士屋ホテルは願ってもない話でした。そして1年が過ぎると山口一族の人達は、ほぼ全員が小佐野賢治側についてしまいます。その理由は
「小佐野さんの方がスケールが大きい。横井はケチだが小佐野さんは気前が良い。もちろんそれは ”より大きな利益” を狙ってのことなんだけど、小佐野さんだと納得できちゃうんですよ。人物の大きさの違いですかね。」
というものでした。
そして児玉誉士夫氏も小佐野賢治側に付きます。というより元々、児玉誉士夫氏と小佐野賢治氏は旧知の間柄であり、横井氏と比べたら小佐野氏との縁の方が遥かに深いのです。ですので「やれやれ、やっと時期が来たか」という感じであったと思われます。
完全に横井氏の敗北でした。
ホテルニュージャパンの社長就任と逮捕、収監
その後、横井氏はホテルニュージャパンの株式の70%を買い占め、社長に就任します。ホテルニュージャパンは現在のホテルニューオータニ、ホテルオークラと並び称される高級ホテルでした。元は藤山コンツェルンと言う財閥の2代目であり、政治家としても活躍した藤山愛一郎氏が経営していたホテルで格式のあるホテルでした。
しかし横井氏は就任演説で言ったのです。
横井:「お金を払う者だったら、ゴロツキでもヤクザでもいい。客として取れ!」
横井:「ストライキをやるならやれ。スト破りの人間を外から連れて来てやる!」
横井:「俺は柔道5段、剣道の錬士だ。若い者なぞ怖くもなんともない!」
そして、2年半の間に440人いた従業員のうち270人を退職に追い込みます。消防署から指摘された防火設備の不備は「金がかかる」という理由で無視しました。
スプリンクラーは天井にスプリンクラーのヘッド部分だけを付けて、設備したように見せかけ、空調設備の加湿装置も ”電気代がムダ” と言う理由で止めさせました。そのため、館内は火災警報が出てもおかしくないレベルの異常乾燥状態となっていたのです。火事が起きたら大惨事になることはまさに「火を見るより明らか」でした。
そして昭和52年(1982)2月8日の未明、泊り客のタバコの不始末から出火し、大惨事となってしまいます。通常、火事で号外は出ませんが、ホテルニュージャパンの火事は死亡者が24人(最終的には33人)と、あまりに多く、号外が出されました。
火災が発生した時、非常事態であるにもかかわらず、横井氏が部下に下した命令はなんと、
横井:「ルイ14世を運び出せ!」
というものでした。
ここでいう ”ルイ14世” というのは、フランスの皇帝、ルイ14世が宮廷芸術家に作らせた4点セットの高級家具のことで、660万円の価値があるものでした。
横井氏は業務上過失致死傷罪で逮捕されますが、裁判は最高裁までもつれ込み、有罪が確定したのは火災発生から11年も経ってからです。平成5年(1993)に禁錮3年の判決が最高裁で確定。平成6年(1994)から八王子医療刑務所で服役、平成8年(1996)に仮釈放となり、平成9年(1997)には刑期を終えました。
ホテルニュージャパンの火災後、跡地は放置されたままでした。場所は赤坂の一等地です。当然、凄い値段が付きます。さらに1986年から始まったバブル景気のため、ホテルニュージャパンの跡地は「高値で買いたい」という希望が横井氏の元にたびたび、あったそうです。
しかし横井氏は「もっと高くなる」と踏んでいたようで、売りませんでした。しかし1991年にバブル景気が破綻して地価も一気に下落します。1996年に仮釈放された時、横井氏の資産は破格の安値で売りに出されますが、既に世間では「横井英樹」というだけで蛇蝎のように忌み嫌われており、田園調布の家も超安値にもかかわらず「横井英樹の家」というだけで買い手は現れませんでした。
ホテルニュージャパンの跡地は横井氏に多額の貸付があった千代田生命保険が担保として取得しましたが、こちらも因縁のある場所、ということで買い手は現れず、今度は千代田生命保険が2000年10月に経営破綻し、最終的にプルデンシャル生命の所有となりました。
どちらの不動産もバブル期であれば高値で買いたいと言う人はいたのに「まだ高くなる」と売り惜しんている間にバブルが崩壊。更に悪名が広がってしまい、破格の安値でも買い手がいなくなってしまったのです。
そして平成10年(1998)11月30日の朝、横井氏は昏睡状態に陥って病院に運ばれますが虚血性心不全より死亡。85歳でした。
荼毘に付された遺骨からは蝶ネクタイを止める金具と弾丸が一個出てきました。
【主な参考文献】
- 大下英治 『最後の銭ゲバ横井英樹の奇矯な生涯』 現代1999年2月号 講談社
- 大下英治 『梟商 小佐野賢治の昭和戦国史』 講談社
- 朝日新聞 号外 1982年2月8日発行
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