「戸籍」を辿って見えてきた! 古代日本のリアルな暮らしと家族のヒミツ
- 2025/12/05
みなさんは「戸籍」について、じっくり考えたことはありますか? 普段の生活では、ほとんど意識することがないかもしれません。しかし戸籍は、私たちの出生や家族のつながりを証明する、国が管理する極めて重要な公的文書です。
自分がいつ生まれ、どんな家族とつながっているのか。ときには何世代も遡り、自分のルーツを辿れるのが戸籍の最大の魅力です。また、相続や扶養、親権など、法律的な場面でも戸籍の存在は欠かせません。
今回は、そんな身近な戸籍の歴史を遡り、古代の戸籍を手がかりに、当時の人々の暮らしや社会の仕組みに触れてみましょう。
自分がいつ生まれ、どんな家族とつながっているのか。ときには何世代も遡り、自分のルーツを辿れるのが戸籍の最大の魅力です。また、相続や扶養、親権など、法律的な場面でも戸籍の存在は欠かせません。
今回は、そんな身近な戸籍の歴史を遡り、古代の戸籍を手がかりに、当時の人々の暮らしや社会の仕組みに触れてみましょう。
【目次】
古代の戸籍はなぜ作られた? その目的と最古の記録
日本の戸籍制度は、もともと中国から伝わった文化です。もともとは、国家が人々の数や身分を正確に把握し、税金を集めたり、兵士を集めたりするために使われていました。日本で本格的な戸籍制度が始まったのは飛鳥時代です。「大化の改新」の時代に、670年には「庚午年籍(こうごねんじゃく)」、690年には「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」という戸籍が作られました。これらには、名前、年齢、身分、所属する氏(うじ)などが詳しく記録され、国家運営の基盤となっていたのです。
奈良時代に入ると、戸籍はさらに整備され、税の徴収や兵役、土地の配分など、さまざまな行政に使われました。しかし、平安時代に入ると、戸籍に載らない浮浪人が増えたり、虚偽の登録が横行したりして、戸籍制度は次第に衰えていったようです。
現存する最古の戸籍は、大宝2年(702)のものです。奈良の正倉院に保管されていた文書から発見されました。江戸時代の天保年間(1830年代)に穂井田忠友という人物がこれらを整理したことで、古代の戸籍が再び注目を集めることになり、その後は阿波国(徳島県)や周防国(山口県)、讃岐国(香川県)など全国各地でも古代の戸籍文書が見つかっています。
戸籍からわかる! 古代日本の意外な人口規模
古代の戸籍は、当時の「人口」を知る貴重な手がかりです。もちろん正確な数は不明ですが、現存する戸籍や当時の記録をもとに、歴史学者たちが様々な研究を行っています。その中で有名なのが、歴史学者・鎌田元一氏の研究です。奈良時代の戸籍に記載された良民の数や、賤民との比率などから推定し、奈良時代初期の人口を約450万人と見積もりました。さらに、当時の米の貸付制度「出挙(すいこ)」の記録などから、9世紀初頭には約540万〜590万人の人口がいたと推測されています。
これは2025年現在でいうと、兵庫県(約520万人)や千葉県(約600万人)に近い人口数です。もちろん律令国家の支配の及ばない地域に住む人々も少なくないと考えられますが、今の日本の総人口と比べるととても少ないですよね。多くの自然に囲まれ暮らしていた当時の人々の姿が、少し身近に思えてくるようです。
古代の10代婚と、一般的だった「再婚」のリアル
戸籍からは、結婚や家族構成についても興味深い事実が読み取れます。当時の法律「戸令(こりょう)」には、「聴婚嫁条(ちょうこんかじょう)」という決まりがあり、男性は15歳、女性は13歳から結婚しても良いとされていました。現代の感覚では驚くほど早い年齢ですが、当時はそれが一般的だったのです。
また、現在の岐阜県富加町にあたる「半布里(はにゅうり)」という地域の戸籍には、ある家の戸主が68歳、妻が45歳、そして嫡子が43歳と記録されています。妻と子の年齢差がわずか2歳。このことから、子どもは現在の妻の子ではない、つまりこの夫婦は再婚して一緒になったことがわかります。
こうした再婚の例は他にも複数見つかっており、古代では再婚が一般的だったと考えられています。当時の平均寿命は30代とされており、配偶者との死別が多かったことや、夫婦が別々に暮らす「通い婚」という形態があったことが、再婚の多さに関係していたと考えられています。
堅いイメージの戸籍ですが、当時の結婚生活まで想像できるのは面白い発見ですよね。
わずかな記録から読みとれる古代人の過酷な生活
戸籍やその関連文書を見ていくと、当時の人々の暮らしぶりや季節ごとの出来事も浮かび上がります。例えば、天平11年(739)に作られた「備中国大税負死亡人帳(びっちゅうのくにたいぜいふしぼうにんちょう)」という記録があります。これは、税金を払う前に亡くなってしまった人々の名前を記録したものです。この帳簿に載ると、残された家族は免税されていました。
この記録に残された127人のうち、5月に亡くなった人が特に多いことがわかっています。旧暦の5月は、現代の暦では5月下旬から7月上旬頃にあたります。この時期は、重労働である田植えの季節で体力を消耗する上、梅雨に入って食料が傷みやすく、飢饉や疫病(えきびょう)が広まりやすい時期でした。こうした理由から、免疫力が落ちた人々が命を落としやすかったのではないかと考えられています。
ほんの一枚の記録からでも、当時の人たちの過酷な生活と苦労が伝わってきますね。
おわりに
普段何気なく存在する戸籍ですが、その歴史を遡ると、古代の人々の暮らしや考え方が鮮明に見えてきます。結婚、家族、人口、健康状態まで、戸籍には時代を超えた人々の営みが詰まっているのです。過去の記録を辿ることは、当時の人たちがどんな思いで生き、どんな社会の中で暮らしていたのかを知る旅です。今を生きる私たちにとっても、自分のルーツや社会の成り立ちを知ることは、未来を生きる上での力に繋がるのではないでしょうか。
戸籍という記録の中には、人々の繋がりが息づいています。時には、自分のルーツを辿る旅に出て、新たな発見をしてみてはいかがでしょうか。
【参考文献】
- 今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』(吉川弘文館、2019年)
- 丸山裕美子『正倉院文書の世界: よみがえる天平の時代』(中央公論新社、2010年)
- 富加町HP 奈良正倉院に残る最古の戸籍
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この記事を書いた人
学生時代、高橋克彦さんの「火怨」「炎立つ」を読んでから東北史にどハマり。
大学では古代東北史を研究しました。
現在は在宅勤務の傍ら、暇があれば図書館に通い詰めています。
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