物部守屋が仏教に反対した理由とは? 天皇家に並ぶ「もう一つの天孫」のプライド
- 2025/09/18

古代日本で王権を支えた有力氏族の中でも、ひときわ特異な存在として知られるのが物部氏(もののべし)です。彼らは神話に祖を持ち、軍事と祭祀の両面で政権の中核を担いました。しかし、6世紀後半に仏教の受容をめぐって蘇我氏と対立し、歴史の表舞台から姿を消します。
この記事では、物部氏とその最後の指導者である物部守屋に焦点を当て、その歴史を紐解いていきます。
この記事では、物部氏とその最後の指導者である物部守屋に焦点を当て、その歴史を紐解いていきます。
もう一つの「天孫降臨」
物部氏の歴史を知る上で欠かせないのが、平安時代初期に編纂されたとされる史料『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』です。この書物には、この世の誕生から推古天皇の世になるまでの社会の変貌が記されており、古代の在り方を知る上で貴重な資料の一つとなっています。物部氏のことが特に多く書かれているため、物部氏の誰かが編纂に関わっているのではないかと言われています。
物部氏の祖とされるのは、饒速日命(にぎはやひのみこと)という神です。彼は『日本書紀』において、邇邇芸命(ににぎのみこと。神武天皇の曽祖父にあたるとされる神様)とは別に天から地上へと降臨した「もう一つの天孫」として描かれています。
饒速日命は神武東征よりも先に、天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国に降臨した後、大和地方に降り、長髄彦(ながすねひこ)の妹と婚姻して地上の支配権を得たと言われています。
物部氏は、この神を自らの始祖とすることで、「天つ神の血を引く氏族」としての正統性を主張しました。これにより、物部氏は大和政権内で天皇家に準ずるような由緒を持ち、特に軍事・祭祀の分野で強い影響力を持つことになったのです。
「武力」と「宗教」を司る存在だった物部氏
物部氏の「物(もの)」とは、武器や神宝といった呪力を持つ「モノ」を意味すると言われています。彼らは朝廷の軍事・武器管理を担う一方で、神祇の祭祀を司る存在でもありました。これは、戦争と宗教が未分化だった古代において、軍事力と呪術的な力を併せ持つ、極めて重要な役割だったと考えられます。その職能は、後世の武士や神職にも通じるものであり、物部氏はまさに古代における「武力と宗教の象徴」と言える存在だったのではないでしょうか。6世紀半ばに仏教が伝来すると、朝廷内ではその受容をめぐって激しい対立が起こります。この時、物部氏の最後のリーダーとして登場したのが、物部守屋(もののべのもりや)です。

守屋は大連(おおむらじ)という官職に就き、朝廷の軍事を握る実力者として君臨していました。当時、蘇我氏が仏教の受容を強く推進していたのに対し、守屋は徹底して反対しました。理由は、単に神道を守りたいという考えだけでなく、深い政治的背景があったと考えられます。物部氏が担っていた神道における祭祀の正統性が、仏教の受容によって揺らぐことを恐れたのです。さらに、仏教勢力が宗教の後ろ盾を得て、朝廷内の勢力図を変えようとしていることにも危機感を持っていたのではないでしょうか。
587年(元号不明)、対立はついに「丁未の乱(ていびのらん)」と呼ばれる武力衝突へと発展します。蘇我馬子が崇仏派として軍を率いて挙兵。『日本書紀』によると、守屋は河内国渋川で軍を集めて徹底抗戦しましたが、楼閣の上で指揮を執っていた際に弓矢に倒れ、のちに斬首されたといいます。
この敗北によって物部氏の中枢勢力は壊滅し、蘇我氏が政権を握り、仏教が国家宗教として制度化されていく道が開かれることになります。守屋の死は、神道中心の古代体制から、仏教国家へと向かう歴史的な転換点でした。
守屋の人物像と物部氏のその後
物部守屋について、さまざまな評価がされています。神道を守ろうとするあまり、仏像を海に投げたり、仏塔を破壊したりしたほか、敏達天皇の葬儀中に宿敵である蘇我馬子とお互い罵り合ったことや、三人の尼僧の衣をはぎ取り鞭打ちの刑にした挙句に市内を引き回したといった逸話があります。『日本書紀』では頑迷で排他的な人物として描かれている一方で、一族を率いた軍事力と忠誠心は高く評価されています。彼の滅亡は、時代の大きなうねりに飲み込まれたがゆえの悲劇だったのではないでしょうか。
彼の死を悼んだ人々が、守屋を「大連守屋大神」として祀る地域が全国各地に残されていることからも、彼がただの横暴で過激な権力者ではなかったことがうかがえます。
丁未の乱以降、物部氏の名前は歴史の表舞台から消えますが、その系譜や影響が完全に消えたわけではありません。一部の家系は「石上氏(いそのかみし)」や「弓削氏(ゆげし)」と名を変え、地方の神職や武士として存続しました。
奈良県天理市にある「石上神宮」は、今も物部氏ゆかりの聖地として知られ、古代祭祀の伝統を今に伝えています。また、武具や神器を通じて神と繋がるという思想は、後の武士道や神道にも深く影響を与えたとされているのです。
おわりに
物部守屋は、時代の流れに抗って敗れた人物ですが、その存在は単なる過去の豪族に留まりません。彼の信念は、古代日本の信仰と政治のあり方を根本から問うものであり、宗教と国家の関係が大きく変わる転換点に立ち会った存在だったのではないでしょうか。現代の私たちが神社仏閣を当たり前のように目にできるのも、先人たちの戦乱と苦悩の歴史があったからだと思います。時には身近なものの歴史を辿ってみるのも面白いのではないでしょうか。
【参考文献】
- 篠川 賢『物部氏 古代氏族の起源と盛衰』(吉川弘文館、2022年)
- 瀧音能之監修、水谷千秋監修 『古代史の定説を疑う』(宝島社新書、2022年)
- 戸矢 学『ニギハヤヒ『先代旧事本紀』から探る物部氏の祖神』(河出書房新社、2016年)
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