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「西郷は恐ろしいが、象山はホラ吹き」勝海舟が身内も政敵もメッタ斬り!衝撃の人物評

  • 2025/12/31
 江戸時代末期から明治にかけて活躍した徳川幕府幕臣の勝海舟。晩年に勝が思いのままに語った談話録が『氷川清話』のタイトルで残されました。

 勝は、幕末維新という同じ時代に生きた人々、日本や東アジアの歴史上の人物について、独自の目線で評価しています。そのいくつかを『氷川清話』から拾ってみました。

勝海舟の生涯と『氷川清話』

 勝海舟は文政6年(1823)に生まれ、 明治32年(1899)に亡くなっています。江戸時代末期から明治時代中頃までにあたり、幕末から維新にかけては幕臣として、徳川幕府の幕引きに尽力しました。

 江戸時代は幕臣として咸臨丸で渡米し、神戸に海軍操練所を創設。さらに戊辰戦争では幕府方の代表として、新政府軍の西郷隆盛と談判し、江戸城無血開城を決断。江戸の町を戦火から守りました。

 明治政府では元老院議官や枢密顧問官を歴任し、晩年は東京都心の氷川に住んでいました。『氷川清話』は勝の座談をまとめたもので、明治30年(1897)に初版が出版され、以降、続編・続々編が刊行されました。

 『氷川清話』を通して勝は、いわゆる「ご意見番」として、人物評価だけではなく、明治政府の政治や経済・外交など、言いたい放題語っています。

織田信長の評価

 まずは、歴史上の人物評のなかから、戦国時代の武将を何人かピックアップしてみましょう。

 『氷川清話』では、古来民政のよく行き届いたところとして、織田氏の尾張、武田氏の甲斐、そして北条氏の小田原を挙げ、それぞれ織田信長、武田信玄、北条早雲の遺徳がいまだに人民に慕われているらしいとしています。

 専制君主というイメージがある信長について、勝は「民政のことには深く意を用いて、租税を軽うし、民力を養い、大いに武を天下に用うる実力を蓄えた」と見ています。

 そのうえで、「当時の善政良法が、今なお歴々として残っていることを見出すだろう」と、信長の領国経営を模範とするよう促しているようにも思えます。

武田信玄の評価

 武田信玄については「かの地の人は、今でも信玄を神として信仰している」と、民政や人心掌握ぶりをたたえたうえで、信玄の兵法についても「規律あり節制ある当今の西洋流と少しも違わない」と高く評価しています。

 勝は幕府で軍艦奉行を務め、西洋流の操練にも詳しく、兵法には一家言ある人物です。その勝が、信玄流の槍の訓練を例に挙げながら「すこぶる実用にかなっていることを知った」と、信玄の先見性を認めています。

 また、武田軍の代名詞で、後に井伊家が受け継いだ「赤備え」についても、敵の目を奪い、味方の士気を鼓舞する姿が「大いに西洋風にかなっている」としています。

北条早雲の評価

 戦国時代前半に活躍し、下剋上を体現した人物とも言われる北条早雲。勝は早雲を「非凡の政治家だ」と評価しています。

 その理由として、もともと関東は室町幕府の直轄領で租税が過酷な地だったことを踏まえながら「法を三章に約し、大いに租税を軽減したものだから、民のこれに従うことは、水の低きにつくようだった」と分析しています。

 「法を三章に約し」とは中国の故事で、簡潔で分かりやすい法律にするという意味。理想的な政治の例えとして使われるもので、早雲の優れた領国経営や領民の人心掌握ぶりを端的に言い表したわけです。

 豊臣秀吉の小田原征伐(1590)によって北条氏が滅び、秀吉は徳川家康に関東への移封を命じました。この措置について勝は、全国一地租の安い旧北条氏領に家康を移すことで「名を与えて、実をうばう政策に出た」とみています。

 そのうえで「さすがに徳川氏だ。少しも早雲の遺法をくずさず、従来のしきたりに従って、これを治めたのである」とまとめました。間接的な言い回しながら、ちゃっかり徳川家康も持ち上げていたんですね。

西郷隆盛、横井小楠の評価

 次に、幕末の主な人物を紹介しましょう。

 勝の人物評で最も有名なのが西郷隆盛です。勝は「天下で恐ろしいものを二人みた」として、西郷と横井小楠の名を上げています。

 西郷と面会した時の印象では、意見や議論は自分の方が勝るとしつつ、「天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ」と評したのです。

 弟子である坂本龍馬が西郷の人物像を語ったエピソードも紹介しています。

 龍馬は「少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と語ったそうで、勝は「坂本はなかなか鑑識のあるやつ」と、内心ほくそ笑んでいたのではないでしょうか。

佐久間象山、藤田東湖、木戸孝允の評価

 一方、手厳しい評価をされた人物もいました。

 勝の妹婿であり、学問の師匠筋にもあたる佐久間象山については、物知りで学問もでき、見識も多少持っていたとしながら「どうもほら吹きでこまるよ」とチクリ。さらに、横井小楠と人物を比較して「たいへんな違いさ」とまで言い切っています。

 水戸藩で尊王攘夷の指導的役割を果たしてきた藤田東湖については、いきなり「おれはだいきらいだ」とバッサリ。「本当に国を思うという赤心がない」「書生を多勢集めて騒ぎまわるとは、実にけしからぬ男」と激しく非難しています。

 長州藩のリーダーである木戸孝允は、西郷と比較して「非常に小さい」と評されます。一方で「しかし緻密な男」だとして、使いようによっては使える奴だったと振り返っています。

小栗忠順の評価

 幕臣の中で勝のライバルとされた小栗忠順についても語っています。

 政敵なので、さぞやこき下ろしているかと思いきや、「精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士」と、誉め言葉を並べています。
 
 ただ、三河武士の長所と短所を両方兼ね備えていたとしたうえで、「度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった」と、批評も忘れてはいません。

 幕府崩壊後、小栗が斬首刑に処せられたことには、財産を狙おうとした者が官軍に讒言(ざんげん)したからだと断じ、最後に「あの男は案外清貧だったということだよ」としのんでいます。

おわりに

 『氷川清話』では、同じ幕臣の山岡鉄舟、大久保一翁について「ともに熱性で、切迫の方だったから、かわいそうに若死をした」と簡単に触れ、その続きに「おれはただずるいから、こんなに長生きしとるのさ」と自嘲気味に語っています。

 幕末維新に活躍した、どの英傑たちよりも長寿だったからこそ、ユニークであり、辛辣でもある人物評が書けたのではないでしょうか。

※参考文献
『氷川清話』付勝海舟伝 勝部真長編

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  この記事を書いた人
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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