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「100億稼いで、30歳で破産」伝説の相場師・鈴木久五郎。日露戦争の狂乱に賭けた男の天国と地獄

  • 2025/12/25
 「一夜大尽(いちやだいじん)、一夜乞食」。 相場師とは、まさに天国と地獄が隣り合わせの稼業です。かつて明治の兜町を疾風のごとく駆け抜け、“伝説”と語り継がれた男がいました。その名は鈴木久五郎。富と欲望が渦巻く時代に、彼は何を掴み、何を失ったのでしょうか。

一代分限者の背中を見て

 明治10年(1877)8月23日、現在の埼玉県春日部市の裕福な家に生まれた久五郎。父の代で家運は傾きますが、祖父が造り酒屋で再興し、大邸宅を建てるまでの成功を収めます。幼少期から祖父の武勇伝を聞かされた久五郎が「自分も一旗揚げてやろう」と野心を抱くのは、必然だったのかもしれません。

 久五郎の上京後、奉公先の「上清」という米穀店の主人もまた、焼き芋屋から身を起こし、一代で100万円(現在の数十億円相当)を築いた猛者でした。久五郎も堅実な性格ではなかったようで、身近な成功者たちに触発されて時流を掴む勝負師の道を歩み始めます。

 明治31年(1898)、久五郎は心配性な兄を説得し、21歳の若さで埼玉県越谷に鈴木銀行を設立。わずか数年で鳩ヶ谷・草加の二支店を加え、預金高70万円を達成します。これを足掛かりに、一発狙いの久五郎は兄に東京進出を持ちかけ、ついに兜町と米穀取引所の中間地点に支店を開くのです。

株に手を出し、兜町に進出

 明治37年(1904)、日露戦争が勃発します。戦況に一喜一憂する世相の中、久五郎はこれを千載一遇の好機と見定めます。買いか売りか…。相場師は一般株主のようにその会社の成長を見込んで株を買うのではなく、一瞬の値動きで利鞘を稼ぐのが目的です。

 「相場の暴れん坊」と言われた根津嘉一郎は、既に買いに回っています。久五郎も日本と運命を共にする気で買い方に回り、一時は株価が高騰しますが、戦争の講和条約の結果が期待を下回ると株価は大暴落、一時は鈴木銀行が取り付け騒ぎに見舞われる窮地に陥ります。

 しかし、久五郎はこの暴落騒ぎでも株を手放さなずに不屈でした。やがて企業の中国への商圏拡大や米英からの外資導入など、株価の好材料が出てきて株価上昇がはじまりますが、それでも軽々しくは動きません。そして本格的に相場へ乗り込む準備を始め、株仲買店「丸吉」を設立し、住友銀行東京支店の支配人・滝沢三郎を引き抜いて代表者に据え、自らは黒幕に徹する作戦です。

 明治39年(1906)、「丸吉」は、日に日に出来高を更新する兜町に進出しました。

 細かい利鞘などは無視の久五郎は、兄が聞き込んできた東鉄・東京市街鉄道の好情報を得て、滝沢に「いくらでも買えるだけ買え」と命じます。滝沢も素人ではありません。わずか10分の間に70円ほどの株を1万3千株も買い集めました。これは当時の取引所史上最大の記録でした。

 翌日の新聞は「この怪物は何者か」と騒然となります。『中外商業新報(現日本経済新聞)』だけが久五郎を言い当てました。こうなると仲買人が連合で売りを浴びせてくる恐れがありますが、久五郎は万一の場合の融資を頼みに銀行を回って防衛策を講じるなど機敏に動きます。最終的に株価が87円になったところで売り抜けた久五郎は、28万円(現在の数億円以上)もの利益を手にし、その名は一躍全国に轟きました。

 この成功に味を占めた久五郎は、今度は日糖(現:大日本精糖株式会社)に目をつけます。1万2千株を買い占めて合併を迫りますが、社長の鈴木藤三郎が反対。久五郎は他の株主と図り、不信任状を手に株主総会に乗り込んで全役員を辞職に追い込みました。

 この強引な手法で役員を一掃し、巨利を手にした久五郎ですが、この合併に絡んで政治家の買収や財界人の自殺を招き、世間からは冷ややかな視線を浴びるようにもなりました。

遊びに嵌る久五郎

 600万円(現在価値なら数百億円)ともいわれる総資産、各地に広大な山林や埋立地を所有する「成金王」となった久五郎。連夜、新橋・赤坂・浜町といった花街を飲み歩き、その遊びぶりは常軌を逸していました。

 料亭の障子を破いては高額な10円札を糊代わりに貼り付けて修繕したり、大勢の芸妓を集めて金貨入りの汁粉を振る舞ったりと、財力に任せた奇行を繰り返したり、座敷に5円・10円札をばら撒いて、全裸・目隠しさせた女性たちに口で拾わせたり──。

 当時は小学校教員の初任給が10円、米10キロが1円50銭程の時代ですから、その異常さがうがかえます。

 一方で、本業の方も手を抜きません。相場師は時間が命です。東京で一番早い人力車夫を抱えて自宅と兜町の間を飛び回り、他の車と衝突して道路に投げ出されたこともありました。当時の『国民新聞』の実業家十傑にも、「煙草王」と呼ばれた村井吉兵衛、「鐘紡(かねぼう)」の武藤山治、炭鑛汽船会社の井上角五郎らと共に選ばれています。

栄光の終焉と、孫文との絆

 しかし、栄華は長く続きません。明治39年(1906)の鐘紡株買い占めに絡んで労働者の抵抗にあった久五郎。株は手にしたものの経営権を失って乗っ取りに失敗します。加えて久五郎の駆け出し時代に世話になった片野重久の日本刀による自刃事件も発生。久五郎の勢いに陰りが見え始めました。

 日露戦争後の軍需景気がはじけ、明治40年(1907)年明け早々から大阪株式取引所は下げ相場に転じます。久五郎は一人強気で買い方に回りますが、玄人筋も有力筋もみな売り方にまわり、大量の売りを浴びせられた久五郎は支えきれずに遂に破産に追い込まれました。

 この大暴落で何人もの人間が自殺しています。この時の久五郎はまだ30歳でした。

 そんな久五郎の意外な一面が、革命家・孫文との交流です。隣国の革命運動など、ろくに知らない久五郎でしたが、孫文に次のように言われ、親しみを持ちます。

孫文:「革命も投機の一種ですから、あなたが相場をやる気持ちはわかります」

中華民国の創始者として国父と称された孫文(出典:wikimedia Commons)
中華民国の創始者として国父と称された孫文(出典:wikimedia Commons)

 続けて孫文は日中貿易の将来性を話しますが、鈴木直輸出入会社を開き、中国市場の研究を始めていた久五郎は孫文に興味を持ちます。

孫文:「革命の軍資金を融通して欲しい」

 そう言われ、久五郎はその場で10万円もの軍資金を差し出していました。

 大正2年(1913)、中華民国の臨時大統領となった孫文は、郵船「春日丸」を借り切り、親族や部下を引き連れ国賓として来日します。この時、すでに破産して「尾羽打ち枯らした」状態にあった久五郎の元にも、孫文から一通の招待状が届きました。

 指定のホテルへ出向いた久五郎を、孫文は最高級のもてなしで迎えます。

孫文:「昔ご恩になった御礼がしたい」

 そう切り出した孫文の視線が、久五郎の着ている色褪せた紋付き袴に注がれていました。生活に窮していた久五郎は、その喉元まで出かかっていた援助を願う言葉を飲み込みます。

久五郎:「もうすぐ子供が生まれます。男にせよ女にせよ、貴方の名前の一字を頂きたい」

孫文:「それはめでたい。どうぞお使いください」

 孫文は快諾し、後に生まれた女の子に、久五郎は“文子”と名付けました。

 しかし、その後の生活は困窮を極めます。文子さんは後に、貧窮時代の一家を回顧しています。

「物心ついてからずっと貧乏でした。お正月だと言うのに電気もガスも止められ、お餅どころか一袋四銭のお多福豆さえ買えませんでした」

 昭和18年(1943)8月16日、久五郎は66歳でこの世を去ります。太平洋戦争の戦局が悪化し、国民に余裕がなくなる中、かつて明治の兜町を騒がせた相場師の死など、誰も気にも留めませんでした。

おわりに

 春日部の高額納税者に名を連ね、選挙権も持っていた男を祖父に持つ久五郎は、成金ではなかったかもしれません。しかしその相場師としての派手な行動、度を超えた花柳界での乱痴気騒ぎ、あっと言う間の没落ぶり。世間から見れば久五郎も立派な成金でした。


【参考文献】
  • 芳賀登(編)ほか…『日本人物情報大系』(皓星社 2000年)
  • 鍋島高明『一攫千金物語: 日本相場師群像』(河出書房新社 2009年)
  • 今井清一(編)『日本の百年5 1912~1923 成金天下』(筑摩書房 2008年)
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  この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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