【べらぼう】稀代の浮世絵師・喜多川歌麿が蔦屋重三郎と決別した要因は何だったのか?
- 2025/10/14

大河ドラマ「べらぼう」第39回は「白河の清きに住みかね身上半減」。浮世絵師・喜多川歌麿は蔦屋重三郎の後援があったからこそ、その才能を全面に開花させることができました。
天明2年(1782)、歌麿は上野の料亭で錚々たる戯作者(恋川春町・大田南畝ら)や浮世絵師(北尾重政・鳥居清長ら)を招き酒宴を開きますが、その裏には重三郎がいたと考えられています。まだヒット作もない当時の歌麿が前述の人々を招待することなど普通は考えられないので、裏で重三郎が糸を引いていたというのです。歌麿と前述の戯作者らを引き合わせ、親交を深めさせようとしたのでした。
蔦屋は数多くの狂歌絵本を刊行していますが、その図(絵)を描いたのが歌麿でした。その事からも重三郎が如何に歌麿を信頼し、仕事を任せていたかが分かりますが、そうした両者の蜜月時代も終わりを迎える時がやって来ます。寛政6年(1794)頃から、歌麿は蔦屋以外から多くの作品を発表していくようになるのですが、それが両者の関係が冷え込んでいた証とされるのです。
2人の間に何があったのか?諸説ありますが、重三郎が謎の絵師として有名な東洲斎写楽に入れ込んでいたことが要因とされます。重三郎が写楽の才能に惚れ込み、写楽への傾斜を強めていったために歌麿がそれに反発し、蔦屋から離れていったとの説です。逆に歌麿への他版元からのオファーが多くなり、歌麿は蔦屋から遠のいていき、重三郎は写楽に重きを置くようになったとの見解もあります。
歌麿は人一倍自意識が強いと評されることがありますので、重三郎が写楽への傾斜を強めたとすればそれに我慢ならなかったのかもしれません。かつて歌麿は版元の西村屋が浮世絵師・鳥居清長に入れ込んだことがきっかけで西村屋を去り、蔦屋に足を向けたと言われています。それと同じようなことが繰り返されたと言えるでしょうか。
【主要参考文献】
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
コメント欄