大河ドラマ「べらぼう」 稀代の浮世絵師・喜多川歌麿と鳥居清長…歌麿が蔦屋重三郎と出会った訳
- 2025/05/06

大河ドラマ「べらぼう」第17回は「乱れ咲き往来の桜」。江戸時代の有名な浮世絵師・喜多川歌麿の登場前夜が描かれました。
歌麿を演じるのは俳優の染谷将太さんです。江戸時代の謎の絵師としては東洲斎写楽が有名ですが、歌麿の生い立ちもよく分かっていません。生年も確定されておらず、文化3年(1806)に54歳で亡くなったことから、宝暦3年(1753)に生まれたとされています。また歌麿の出生地についても川越(埼玉県)説、江戸説、京都説など複数あるのです(江戸説が有力)。
我々は「喜多川歌麿」とよく言いますが、これは本名ではありません。長じて後に付けた画姓・画号であります。歌麿の本姓は北川氏、名は勇助といいました。歌麿は幼い頃から絵に関心があったようで、年少の頃に画家の鳥山石燕(1712〜1788)に師事します。石燕は狩野派の絵師でありましたが「百鬼夜行」(1776年)などの妖怪画を描いたことで知られています。また石燕は歌麿はじめ恋川春町・栄松斎長喜・歌川豊春などの戯作者・浮世絵師を育成しているのでした。さて歌麿は当初、北川「豊章」という画号を用いて、黄表紙に挿絵を書いています(安永年間)。
例えば、西村屋与八という江戸の有力版元が出す黄表紙に挿絵を描いていた訳ですが、やがて歌麿は西村屋から離れていきます。その大きな要因が西村屋が歌麿ではなく、鳥居清長という絵師を重用したことにあるのではと推定されているのです。清長は鳥居派の絵師であり「六大浮世絵師」(鈴木春信・喜多川歌磨・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重)の1人に数えられる実力派でした。歌麿は強烈な自意識と自信を持っていたと言われますので、自身の処遇に我慢できなかったのでしょう。西村屋に「目に物見せてやる」くらいの想いがあったかもしれません。
そんな歌麿が足を向けたのが蔦屋重三郎でした。重三郎も才能ある浮世絵師を求めていましたから、歌麿の来訪を歓迎したことでしょう。そして重三郎と歌麿を繋げる役割を果たしたのが、浮世絵師の北尾重政だったとされます。重政にとって歌麿は「弟子同前」の人物であり、歌麿が浮世絵界に入るのにも重政の後援があったのではと言われています(歌麿の師・石燕と重政も親交がありました)。重政は重三郎が企画した錦絵本『青楼美人合姿鏡』の制作にも携わっています。そうした縁から歌麿と重三郎の出会いと関係強化に重政が一役買っていたと推測されるのです。
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