秀吉の「墨俣一夜城」はウソ!?秀吉伝説が誕生した驚愕のメカニズムとは
- 2025/11/07
戦国時代、豊臣秀吉が築いたと言われている墨俣城(すのまたじょう・岐阜県大垣市)。当時、敵対する美濃国の斎藤竜興との最前線であったこの地に城を築くのは非常に困難で、多くの家臣らが次々と築城に失敗してしまいました。
そんな中、秀吉は計略を駆使して、わずか一夜で築き上げたと言います。近くを流れる木曽川の上流で木を切り出して加工し、それを下流の墨俣まで送って一気に組み立て、一夜城を完成させたのでした。
かくして墨俣城は美濃攻めの重要な戦略拠点となり、秀吉は出世の足がかりとした……。と言われているエピソードですが、実はこれは後世の創作に過ぎません。なぜそう言い切れるのか、史料を紐解いてみましょう。
そんな中、秀吉は計略を駆使して、わずか一夜で築き上げたと言います。近くを流れる木曽川の上流で木を切り出して加工し、それを下流の墨俣まで送って一気に組み立て、一夜城を完成させたのでした。
かくして墨俣城は美濃攻めの重要な戦略拠点となり、秀吉は出世の足がかりとした……。と言われているエピソードですが、実はこれは後世の創作に過ぎません。なぜそう言い切れるのか、史料を紐解いてみましょう。
秀吉築城以前から既に存在していた墨俣城
前提として、秀吉が墨俣城を築いたとされるのは永禄9年(1566)。この説の出元は、江戸時代初期に成立した小瀬甫庵の歴史書『太閤記(甫庵太閤記)』です。『太閤記』によれば、秀吉は敵地である美濃国内で新たに築いた城を任されたと記述されています。しかし、この城について具体的な場所や地名などは記されていません。
そう聞くと、「この城が墨俣城だったのだろう」と思うかも知れませんが、墨俣の地名は何度も登場しており、この「地名が記されていない城」は墨俣と別の場所(木曽川流域)にあったと考えるのが自然でしょう。たまたまその時だけ墨俣の地名が抜け落ちていただけかも……と考えるのも早計です。
実はそれ以前から墨俣城は存在していました。織田信長の側近である太田牛一が記した『信長公記』によると、信長が永禄4年(1561)に洲股(すのまた。墨俣)の要害を修築するよう命じた記録が残っています。
修築を誰が担当したかは言及されていませんが、この時点で信長が墨俣に手を加える足がかりを確保していました。そこから考えると、まだ斎藤竜興との戦いが続く中で墨俣の要害を放棄し、5年後に再び一から城を築くとは考えにくいでしょう。
「秀吉が築いた」説は江戸時代後期に誕生
現代で広く知られる「秀吉が永禄9年(1566)に墨俣城を築いた」という説は、明治時代の歴史学者・渡辺世祐(よすけ)が複数の史料を複合して提唱したものです。当時の主な史料の記述は以下の通りです。
- 太田牛一『信長公記』(1610年頃成立):信長が築城者不明の洲股要害を修築するよう命じた。
- 小瀬甫庵『信長記(甫庵信長記)』(1611年頃成立):墨俣城は信長が永禄5年(1562)に築いた。
- 小瀬甫庵『太閤記(甫庵太閤記)』(1626年成立):信長が永禄9年(1566)に美濃国某所で城を築き、秀吉に預けた。
- 遠山信春『総見記(織田軍記)』(1685年頃成立):信長が永禄5年(1562)に墨俣城を築き、秀吉に預けた。
- 武内確斎『絵本太閤記』(1797年成立):墨俣城は永禄5年(1562)に秀吉が奇策をもって築いた。
渡辺は、これらの史料の中から、築城年を『甫庵太閤記』の永禄9年、築城者と築城方法を『絵本太閤記』の秀吉の奇策という形で組み合わせました。
かくして、現代でも広く知られている「墨俣一夜城」伝説が完成したのです。
偽書『武功夜話』による喧伝
それからおよそ半世紀、昭和34年(1959)に『武功夜話(前野家文書)』なる「古文書」が「発見」され、話題となりました。文中には秀吉が一夜で墨俣城を築いたことが記されているほか、城郭の間取り図や素材に至るまで、具体的に記されています。これが事実であれば大発見ですが、現代的な言葉づかいや絵画表現(断面や矢印)など、発表当時から偽書の疑惑が持たれていました。
さらには信憑性を持たせようとする余り、当時の当事者が知り得なかった重要機密を盛り込み、漏洩のリスクも恐れずに明文化してしまうあたりも疑問です。第三者に説明しようと、当事者間なら暗黙の了解だったであろうことまで詳しく書いてしまったのでしょう。そして今回のテーマである墨俣城の図面を見ると……かなり問題点の多い構造でした。
ざっくりまとめると、こんな感じです。
- 地形(背後を流れる川など)を活かせていない。
- 四方をきっちり土塁と堀で囲むことにこだわり、工数や費用がかさむ。
- 特に攻撃が集中しやすい大手門(正門)や搦手門(裏門)の構造が単純≒守りが手薄。
本当に秀吉のような知略に長けた人物がこれを考え、築いたのか?と首をかしげてしまいます。しかし、当時のマスコミは『武功夜話』を大々的に報じ、大河ドラマなどでも秀吉が墨俣一夜城を築いたことが半ば事実として、描写されていました。
終わりに
今回は秀吉が築いたとされる墨俣城について、その歴史を紹介してきました。墨俣城はその後、天正14年(1586)の木曽川大氾濫によって川の流れが変わったことから、その戦略的価値が損なわれてしまいます。ほどなく墨俣城は廃止されたのでしょう。現代は公園・史跡となっており、園内には天守閣を模した墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)が建てられています。
また、近くに秀吉を祀る豊国神社が鎮座し、多くの参拝者が訪れます。秀吉の天下獲りにあやかろうと願っているのでしょうか。いまだ謎の多い墨俣城(城址)、是非とも見学してみたいですね。
【参考文献】
- 鈴木眞哉『戦国時代の大誤解』(PHP研究所、2007年)
- 藤本正行・鈴木眞哉『偽書 武功夜話 の研究』(洋泉社、2014年)
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