伊達政宗は死装束姿で「黄金の十字架」を背負ったこともあった!?
- 2019/02/19
伊達政宗という武将が人気を博している要因の一つは、彼にまつわるエピソードのインパクトが影響していると思います。特に豊臣秀吉の配下に降る際の、政宗の「死装束」姿は現代でも語り継がれています。
しかし、政宗が「綱渡り」を余儀なくされた際に、死装束をまとうなどのパフォーマンスを実行したという記録は、豊臣政権の小田原攻めのときの1度だけではありません。そこで、まず小田原遅参の際にまとった死装束にどれほどの効果があったのかを検証したのち、他に政宗がみせた同様のパフォーマンスについても紹介していきたいと思います。
しかし、政宗が「綱渡り」を余儀なくされた際に、死装束をまとうなどのパフォーマンスを実行したという記録は、豊臣政権の小田原攻めのときの1度だけではありません。そこで、まず小田原遅参の際にまとった死装束にどれほどの効果があったのかを検証したのち、他に政宗がみせた同様のパフォーマンスについても紹介していきたいと思います。
世に名高い「小田原の死装束」は秀吉の心を変えたのか
さて、本論に入る前に、まずは「死装束」そのものについて解説していきましょう。死装束そのものは世界中にみられる文化ですが、武士の世界において死装束とは、切腹の際に着用する白い衣装を指すことが多かったとされています。したがって、切腹以外の場面で死装束をまとうことは、「切腹をする覚悟がある」ということを外部に示すという効果がありました。
この死装束によるパフォーマンスを用いた代表的な武将が政宗です。
詳細は下記で述べますが、豊臣家に対する数々の「挑発行為」をしたのち、時勢を鑑みて小田原攻めに加勢することを決断した政宗は、秀吉に今までの「挑発行為」を水に流させる必要がありました。そこで、死装束をまとうことで自身の覚悟を伝え、秀吉はその意気に免じて政宗を許した、というのが小田原遅参での死装束パフォーマンスの通説でした。
しかし現代の定説では、この政宗の死装束は一種の儀礼的なパフォーマンスであり、小田原参戦前にはすでに政宗の処遇は決まっていた、という見方が一般的です。
そもそも、豊臣家への「挑発行為」とされたものは、天下をほぼ手中に収めた秀吉が大名の私戦を禁じる「惣無事令」の趣旨を提示したにも関わらず、その後に湊合戦と磨上原合戦を起こしたためでした。これは、そもそも実質的に北条氏や伊達氏に対して命じられたといっても過言ではない「惣無事令」を破ったことは明らかで、豊臣政権への挑戦状であると解釈されました。
さらに、豊臣に下った蘆名や佐竹を攻めたという事実も問題視されたため、『上杉家文書』によると、会津を返上しない限り成敗も辞さないという意向が示されていたようです。ただし、その後は浅野長吉や前田利家のとりなしによって何とか征伐を回避できました。以降、政宗は秀吉の北条氏攻めによってさらなる好機を迎えることになります。
おそらく秀吉にとって、北条氏と戦をかまえるにあたり、伊達家との敵対は望ましいものではなかったのでしょう。そのため、利家らからの書状には、「小田原に参戦して関係性を改善するべき」といった内容が記されていました。
この際には、北条氏からも使者が送られてきていましたが、政宗は小田原への参戦を決断します。しかし、母保春院の置毒事件によって参戦を延期した政宗は、その後何度も出陣を偽装するなど、参戦に時間をかけることになりました。そうこうしているうちに、戦の形勢がほぼ確定したタイミングでの参戦、つまり遅参が決定的になってしまいました。
もちろん、事前に態度は表明していましたが、まだ予断を許さない状況であることは明らかでした。そこで、政宗は「死装束」をまとうことで秀吉本人や臣下たちに覚悟を伝えるというパフォーマンスをするに至ったのです。
結論からいえば、死装束が秀吉の心を変えたわけではなさそうですが、無礼を詫びるという効果はてきめんで、特に臣下の武将には心情的に大きな影響があった可能性はあります。
政宗第二の危機!一揆扇動の疑惑に黄金の十字架で対抗
さて、小田原への参戦で本領を安堵された政宗は、秀吉による奥州仕置に直面していました。仕置に際しては、会津黒川城に蒲生氏郷が入城し、大崎氏と葛西氏は小田原に参戦しなかったことにより、所領を召し上げられ木村氏が入封されていました。しかし、大崎・葛西の両氏から所領を引き継いだ木村氏は領内を統治することができず、一揆衆が暴徒化し、木村氏が領内を追い出されると反乱は奥州全体に拡散していきました。ここに、氏郷と政宗の関係性が影響を与えます。彼らは言うまでもなく会津の覇権を争うライバルであり、氏郷はこの一揆の黒幕であるという「疑心」を政宗に抱くことになりました。その情報源は伊達氏の家臣須田伯耆という人物で、一揆扇動の証拠となる密書を氏郷に届けました。その後、氏郷はこの疑いを秀吉に上申すると、両者に上洛の命令が下りました。
そこで、政宗は再び死装束をまとい、さらに今回は黄金の磔柱を先頭に上京するという「奇策」に打ってでます。その後の沙汰の詳細な内容はわかっていませんが、最終的には「白」と判断され、処罰どころか恩賞に預かったとされています。しかし、氏郷側も罰せられていないという点から、政宗の行動をたたえて「白」という「ことになった」可能性も指摘されています。
近年の研究では、実際のところは政宗が一揆の扇動をしたかどうかについては定かではないものの、一揆衆が葛西晴信の家臣であること、晴信と政宗は近しい関係にあったことは明らかな事実であり、一揆の扇動をしていたとしても不自然ではないとされています。
また、この記事では触れませんが、後には秀次事件への関与を疑われるという一幕もあります。そこでも、政宗は「家来とともに京で暴れまわる」という噂や、政宗や最上義光の謀反をほのめかす立て札を立てられるなどの危機的状況に陥りますが、最終的には政宗赦免を知らせる『豊臣秀吉諚意覚書』によって危機を脱しています。
政宗は遅刻常習犯?近年新たに見つかった「大ピンチ」
ここまで、「豪気」な政宗のエピソードを紹介してきましたが、2015年には政宗に関する新たな書状が発見されています。これは、栃木県立博物館が発見した政宗が秀吉に宛てた書状で、時系列としては小田原参戦後、奥州仕置までの間に起こった「宇都宮仕置」の際のものと推定されています。この書状では、秀吉が宇都宮城に大名を集めた際、彼が東北に赴く際の先導役として指名されていたにも関わらず、どうにも集合日時に間に合いそうもない政宗が秀吉に宛てた「言い訳」が記されています。本来であれば先導役の遅参は許されるものではありませんが、最終的には秀吉から甲冑を賜るなど、むしろ上機嫌な対応を受けたということが記されています。
その中では、「荷物が到着しておらず、今夜出発しあす午前10時には参上できる」という内容が含まれており、遅刻に焦る政宗が徹夜で宇都宮に急行している様子が浮き彫りになっています。しかし、実際のところは領内の反乱によって遅参したとされており、その遅参理由を明かせなかった政宗の「言い訳」が「荷物が届いていない」というものだったようです。ここには、宇都宮仕置をめぐる政宗の駆け引きがみてとれます。
ただ、どちらにせよ政宗が必死の言い訳をしているのは事実であり、やはり政宗といえども二度目の「大遅刻」には肝を冷やしたものと推測できます。先ほどまでの「豪気」なエピソードとは少し異なりやや格好が悪いようにも感じられますが、死後400年近くたっても「らしい」エピソードが発見されるあたりに、政宗が愛される理由が見て取れるようにも思えます。
【主な参考文献】
- 小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年。
- 高橋富雄『陸奥伊達一族』吉川弘文館、2018年。
- 中田正光『伊達政宗の戦闘部隊:戦う百姓たちの合戦史』洋泉社、2013年。etc…
- 『「宇都宮仕置」駆け引き記載 県立博物館、政宗の書状16日から初公開』産経ニュース、2015年8月14日付。
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