江戸の銭湯文化 最盛期550軒の銭湯が教えてくれる、日本人の”お風呂好き”の原点
- 2026/03/06
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江戸時代には銭湯文化が花開き、庶民の社交場として特別な空間へと変わっていきました。現代の感覚とは似て非なる、驚きに満ちた江戸の銭湯事情。その熱気あふれる実態に迫ってみましょう。
銭湯のはじまり
日本における「風呂」の習慣はいつから始まったのか?その歴史は古く、奈良時代に仏教の伝来とともに訪れたとされています。天平2年(730)には、光明皇后が自ら施薬院(貧しい病人を治療する病院)を作り、その隣に浴室を設けました。最大で1千人の垢をこすったそうですから、かなり大規模な浴室だったのでしょう。
中世に入ると、武家や公家の邸宅にも風呂が設けられるようになり、同時に寺院の浴室で施浴(せよく)する風習も広まりました。当時は「蒸し風呂」が基本ですから、煮立った釜から立ち上る蒸気を浴室へ送り込み、体をしっかり蒸してから垢を掻き取る手順になっていました。肌がきれいになったら湯を浴び、体を清めていたようです。
山東京山(山東京伝の弟)が記した『歴世女装考』によれば、天正18年(1590)に大坂で生まれた風呂屋が日本初となり、その翌年には江戸で「銭湯風呂屋」が開業しました。いずれも客から入浴料を取る営業形態だったようです。しかし、鎌倉時代の文献に「浅湯草履」という言葉があり、室町時代の京都にも「町湯町風呂」が存在したことから、実際にはもっと早い段階で原型が出来上がっていた可能性も否定できません。
江戸における銭湯の開祖として名を残しているのが、伊勢の与一という人物だそうです。客が不慣れなために湯気で火傷しただの、熱くて入れない客が入り口に立って迷惑したといった話が記録に残っています。当時はまだ、蒸し風呂が一般的だったのでしょう。
やがて江戸の町の発展とともに銭湯は増えていき、承応2年(1653)には、幕府から初めて銭湯に関する規定が定められました。
「湯屋風呂屋、明け六つ刻より暮六つ刻までにて焚仕舞申候事」
当時は銭湯と言わず、江戸では「湯屋」、上方(大阪・京都)では「風呂屋」と呼ばれていました。ここで言う「明け六つ」とは午前6時を指し、「暮六つ」とは午後6時を意味します。つまり、銭湯の営業時間は「明け方から日暮れまでにせよ」と決められたわけですね。
繁盛する江戸の湯屋事情
当初、銭湯へ入る際には、男は「湯褌(ゆふんどし)」、女は「湯巻(ゆまき)」を付けるのが一般的でした。やがて江戸時代中期の宝永年間には、男女とも素っ裸で入るようになったそうです。また、初期の銭湯を「戸棚風呂(とだなぶろ)」といい、蒸し風呂と洗い場を兼ねた構造になっていました。洗い場の引き戸を開けて中へ入るのですが、湯は30センチ程度の深さしかないため、お湯に浸かるというよりは、下半身を浸しながら蒸気で全身を温める形でした。
ところが人気のあまり、客の出入りが激しくなると、蒸気が逃げて風呂の温度が下がりやすくなる欠点が生じました。それを防ぐために考案されたのが「柘榴口(ざくろぐち)」です。これは出入り口に板戸を張っておき、その下部を90センチほど開けておくというもの。客は深くかがんで入る必要がありますが、風呂の温度は下がりにくくなったのです。
銭湯の普及速度は凄まじく、江戸時代後期の天保年間でおよそ470軒、幕末の慶応3年(1867)には550軒にまで達しました。さらに特筆すべきは、その料金の安定性です。入浴料は、寛永元年(1624)~明和9年(1772)に至るまで、ほとんど値上げされることはありませんでした。この間、諸物価が3倍に跳ね上がったことを考えれば、まさに庶民の憩いの場だったことが頷けますよね。
現在のように湯をたっぷり張る浴槽が登場するのは、江戸時代後期の文化年間まで待たねばなりません。それ以前は浴槽付きの屋形船を運行しつつ、港や河岸で商売をしたようです。江戸は水路の町ですから、客を乗せながら風呂を提供していたのでしょう。
これを「行水船」といい、湯船の語源になったとも言われています。当時は一般の銭湯よりも安く、しかも川の風情も楽しめるため、非常に人気が高かったとか。やがて浴槽に湯を張る銭湯が増えてくると、行水船は次第に姿を消していきました。
江戸の銭湯を語る上で欠かせないのが入込湯(混浴のこと)の文化です。現代人の感覚からすれば驚きですが、当時の世相を反映した川柳に「念のため湯屋で仲人を見合いさせ」というものがあるように、江戸っ子にとって、男女が同じ湯船に浸かることは至極当たり前だったようです。
しかし、この光景を快く思わなかったのが幕府です。寛政3年(1791)、時の老中・松平定信は「風紀を乱す」として、入込湯の禁止を命じました。のちに天保の改革を主導した水野忠邦も同様の禁止令を出していますが、あまり守られることはなかったようです。
江戸時代中期に登場した男風呂と女風呂
当初、銭湯の客層は男性が圧倒的で、女性の利用はほとんど無かったようです。おそらく自宅で行水程度の入浴を行っていたのでしょう。しかし、江戸時代中期の宝暦年間(1750年代)には世相も変わり、徐々に女性の利用が増えたといいます。寛政の改革によって男女入込湯が禁止されたことで、経営者側も知恵を絞ります。「女湯仕分之儀云々」とあるように、まずは日を定めて男湯と女湯を分けるようにしました。しかし、この形式では銭湯としても商売が上がったりです。そこで考案されたのが、一つの銭湯に男湯と女湯を併設することでした。最初は一つの浴槽に申し訳程度の仕切り板を設置していましたが、やがて脱衣場から洗い場、浴槽に至るまでを完全に壁で分ける「男女併設型」のスタイルを確立させたのです。
また、地域住民の居住形態に合わせて、女客専用の銭湯も登場します。例えば女性奉公人を雇う商家がある地域、あるいは芸妓や娼妓の多いエリアなどでは、この種の銭湯が繫盛したそうです。こうした女湯の風景は浮世絵の題材としても好まれ、華やいだ江戸文化の一翼を担いました。
ちなみに銭湯といえば、三助という職があるのをご存知でしょうか?彼らの本来の役割は、釜を焚いて湯を沸かしたり、客の下駄や草履を整理するのが仕事ですが、有料で客の背中を流すというサービスも行っていました。収入の一部は三助の実入りになりますから、資金を貯めて独立する者が多かったといいます。
過剰なサービスで人気になった「湯女風呂」
江戸では一般銭湯のほか、「湯女風呂(ゆなぶろ)」という特殊浴場があり、主に神田界隈や鎌倉河岸など、武家屋敷の周辺に集中していました。そのターゲットは、地方から単身赴任で江戸に来ていた多くの武士たち。というような感じでしょうか。家族と離れて寂しい思いをしている彼らにとって、湯女風呂は最高の癒やしのスポットだったのです。
湯女風呂とは、その名の通り、銭湯に湯女(遊女)を置いてサービスする業態のことで、慶長19年(1614)に出版された『慶長見聞集』によると、当時から15~20文くらいで客を入れたそうです。普通の銭湯なら1文で入れる時代なので、湯女風呂の料金はとてつもなく高かったわけですね。
最初は茶や菓子を出し、客の垢を指で掻き出す程度が湯女の仕事でしたが、客の数をこなすほど店も女性も潤うため、そこに湯女たちの競争原理が働くのは当然でしょう。いつしか湯女のサービスは過剰となり、遊女とほぼ変わらなくなったのです。
湯女風呂の営業形態は、極めて独特でした。銭湯としての通常営業は七つ(午後4時)に終了。すると脱衣場を座敷に模様替えした上で、金屏風などを置いて煌びやかな空間に模様替えされます。やがて湯上がり客がやって来ると、隣に侍って酒や料理を勧め、三味線を鳴らしたり、小唄をうたうなど、遊郭と同じ接待を提供したといいます。もちろん湯女が性的なサービスを施したことは言うまでもありません。
湯女風呂の最盛期は寛永年間(1624~1643)、その数は200軒以上にも上りました。1軒につき20~30人の湯女がいたそうですから、吉原遊郭を凌ぐほどの一大性産業が江戸に存在したわけです。追い風になったのは寛永6年(1629)に吉原遊郭の夜間営業が禁止されたことです。吉原の遊女はただでさえ気位が高く、さらに揚代も目が飛び出るほどに高い。そうなると男性諸氏がこぞって湯女風呂へ通うのは当然でしょう。
しかし、その栄華は長くは続きませんでした。
あまりの私娼化と治安の悪化を危惧した幕府は、厳しい弾圧に乗り出します。寛永14年(1637)には「湯女の数は1軒につき3人までにせよ」という触れが出され、違反者には磔(はりつけ)という厳しい罰則が課されました。幕府としては、安価な湯女風呂に客を取られ、寂れかけている吉原を救う目的もあったようです。
さらに決定的だったのが、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火です。これを好機と見た幕府は、吉原以外の私娼町を摘発することに踏み切ります。200軒あった湯女風呂すべてが廃業へ追い込まれ、捉えられた600人の湯女たちは、ほとんどが新吉原へ送られることになったそうです。
ただ、江戸時代後期には再び流行し、天保年間(1831~45)まで湯女ブームが続いたといいます。本来あった湯女風呂は姿を消したものの、どうやら一般の銭湯で湯女を働かせる店があったのでしょう。
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