春を売るだけにあらず 江戸の色町・吉原を陰に日向に支えた仕事の数々

『東都名所 吉原年礼ノ図』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『東都名所 吉原年礼ノ図』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 吉原遊郭は徳川幕府公認の色街。お歯黒どぶを巡らす大門の内側は「男の極楽」「女の地獄」と謳われ、十年に一度の頻度で大火を出しています。

 そんな悲喜こもごもの吉原ですが、妓楼で働く遊女の他にも、様々な商いをする人々が出入りしていた事実をご存知ですか?今回のコラムでは陰に日向に吉原遊郭を支えた、知られざる仕事の数々をご紹介します。

髪を洗えるのは月一度 「湯屋」は遊女の社交場だった

 遊女の一日はそれは過酷なものでした。多額の借金を背負った彼女たちは、大抵夜遅くまで客を取ります。午前6時に客を送り出したあとは二度寝し、午前10時頃に起床するのが常でした。

 起きたらまず妓楼の内湯で身を清めます。入る順番は遊女の位に準じ、最上級の大夫が優先されました。格式高い大見世には大抵内湯が備わっていたものの、吉原内の湯屋を別途利用する遊女もおり、愛用の糠袋でお肌に磨きを掛けたと言います。

 わざわざ湯屋に赴く理由は気分転換、あるいは内湯の混雑を嫌って行き帰りの荷物は禿(かむろ。遊女に使われる少女のこと。)が持ち、姐さんの背中を流しました。湯銭は一回8文(200円)と手頃です。商売柄デリケートゾーンのお手入れも徹底し、二枚貝で毛を挟んで抜いたり、毛切石と呼ばれる尖った石で腋毛を剃りました。これらのグッズは吉原内の小間物問屋で売られていたそうです。

 吉原の湯屋は各郭に属する遊女の社交場として機能し、活発な情報交換が行われました。遊女たちはどこそこの誰誰が足抜けした、誰誰が性病を伝染されたと噂話に花を咲かせます。

社交の場としても利用されていた湯屋(『肌競花の勝婦湯』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
社交の場としても利用されていた湯屋(『肌競花の勝婦湯』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 脱衣所から男湯女湯に分かれているのもポイント。これは吉原を訪れた男性が稀に入る為で、湯女を置いてないぶん風紀は律されていました。

 洗髪が許されたのは毎月27日のみ。これにはちゃんと理由があり、当時の女性は日本髷を結っていた為、髪を固める油を落とすのが大変だったのです。

遊女発のヘアスタイル・勝山髷 「女髪結い」の腕の見せ所

 江戸のファッションリーダーたる遊女は髪にもこります。勝山髷は江戸時代初期に実在した遊女・勝山が始めた髷の結い方。元禄年間には武家の奥方も真似るほど流行しました。簪の数や材質・形状にもこだわり、花魁道中では前に8本後ろに8本、そこに櫛を2・3本追加して笄(こうがい)で飾り立てたそうです。

 江戸中期の遊女が好んだ髪型は兵庫髷・島田髷・勝山髷・笄髷。この中でさらに細分化されるときて、覚えるだけでさあ大変。とはいえ自分で結うのは至難の業、禿に手伝わせてもこんがらがるだけで八方塞がりです。

 そんな経緯を経て安永年間に登場したのが結髪のプロフェッショナル・女髪結いたち。人の行き来を厳しく監視する吉原ですが、数少ない例外として、女髪結いの出入りは許可されていました。

 最初の女髪結いは上方歌舞伎の女形上がり、山下金作。江戸深川に移住後芝居に用いる鬘を結い上げていた所、その器用さに惚れ込んだ深川の芸妓が「私もやって」と懇願。金作が結った髷は案の定素晴らしい出来栄えで、連日客が詰めかけたそうです。

 女髪結いは楼主や遊女のオファー受け、髷を結いに通って来ます。彼らにかかれば安永のモード、灯籠鬢(とうろうびん)も何のその。原則店は持たずデリバリーに徹し、1回200文で結髪を請け負いました。

 当初の女髪結いは男性が多数派を占めていましたが、途中から女性が参入し、徐々に女性の専門職へと移り変わっていきます。女性の技能職が産婆と髪結いの二択の時代、女髪結いには優れたスキルと知識が求められました。故に腕利きは引く手数多で、世話した遊女はご祝儀を弾んでくれます。

 松平定信は寛政の改革の一環として女髪結いを禁じたものの、文化文政の頃には再び流行り出し、今度は老中・水野忠邦による天保の改革で槍玉に上げられました。

 手に職付けたい孤児や後家が髪結いを目指す一方、高給取りの女房のスネを齧る、髪結いの亭主が沢山いたのは困りものでした。

花街に料理を届けた「棒手振り」

 棒手振りは巨大な天秤を担ぎ、両端から吊るした桶に野菜や鮮魚を入れて売り歩きます。

 ある時は遊女に頼まれた仕出し料理を届け、ある時は自ら売り付けに行くのが彼等のスタイル。寿司や天ぷらの販売も行い、美味しそうな匂いで空腹を誘いました。

 一説によると、出前文化の起源は吉原にあるとされます。普段から楼主の監視下に置かれ、大門はおろか、郭からも出られぬ遊女たちは、食べたい物を食べることすら難しい身の上。したがって空腹時はうなぎの蒲焼やそばの出前をとり、舌鼓を打ちました。

 言わずもがな、そんな贅沢が許されたのは稼ぎ頭のみ。普通の遊女はほぼ一日一食一汁一菜の粗食に耐え、慢性的な栄養失調に陥ってました。『新書版性差の日本史』掲載の遊女の献立を見ると、香々とお茶漬けが連続しており、食生活の貧しさが伝わってきますね。運が良ければ御膳を下げる際に残り物を摘まめたものの、到底足りません。

 なお、夏の季語に定められた金魚売りと風鈴売りも棒手振りの商売に由来しています。

吉原名物「けんどんそば切り」とは?

 吉原名物と聞いてあなたは何を思い浮かべますか?世間にはあまり知られてない話ですが、享保年間に突入するまで、そば屋は「倹飩屋」ないし、「慳貪屋」と呼ばれていたのでした。

 倹飩(けんどん)とは上下と左右に溝が彫られ、蓋や戸の嵌め外しが可能な箱。これにそばを盛って提供したのが倹飩屋の由来、というのが一説。片や、慳貪(けんどん)は横柄でそっけない物言いをさし、突っ慳貪と意味合いを同じくします。

 江戸にそば屋が初出店したのは寛文4年(1664年)四代将軍・徳川家綱の治世、場所は吉原でした。その店はけんどんそば切りで評判を呼び、大いに繁盛したと伝えられています。そば切りはそばがきと異なる細く切った麺をさし、これをけんどん箱に乗せて出したから、「けんどんそば切り」の呼び名が定着したのでした。翻り慳貪屋の方は、人気そば屋信濃屋の親父が、大変な頑固者だった逸話に由来しています。

 そばは江戸っ子のソウルフードと言っても過言ではありません。江戸中期には夜間営業のそば屋台が急増し、夜鷹がよく食べていたことから夜鷹そばと名付けられました。その夜鷹そばが客寄せを兼ねて屋台に鈴を括り付けた為、転じて夜鳴きそばと呼ばれるようになったのです。はてさて遊郭帰りの男たちは、件の夜鳴きそばを啜ったでしょうか?名前が夜鷹そばのままだったら、馴染みの遊女に操を立て、避けて通ったかもしれませんね。

おわりに

 以上、様々な商売が営まれていた事実がおわかりいただけたでしょうか?他にも遊女を診る医者や客を接待する幇間など、そこでは実に多種多様な人々が生計を立て、お互いに交流していたのでした。

 遊女の暮らし向きは想像を絶する過酷さですが、暑気払いに訪れた金魚売り風鈴売りと戯れ、湯屋で一緒になった友人と他愛ないお喋りを楽しむひとときには、せめてもの慰めがあったと思いたいですね。


【主な参考文献】
  • 国立歴史民俗博物館(監修)『新書版 性差の日本史』(集英社インターナショナル、2021年)
  • 安藤優一郎監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活』(カンゼン、2016年)
  • 田中優子『遊廓と日本人』(講談社、2021年)
  • 堀口茉純『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭』(PHP研究所、2018年)

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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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