織田信長「無神論者」説を再検証 彼が信仰した神仏とは何か
- 2025/12/02
渡邊大門
:歴史学者
織田信長は、「神をも恐れぬ無神論者だった」とよく言われる。だからこそ、本願寺と死闘を繰り広げ、比叡山を焼き討ちにした――そんなイメージが広く定着している。
しかし、近年の研究では、そうした見方が必ずしも正しくないことが明らかになってきた。信長は、本当に無神論者だったのだろうか。以下、詳しく検討することにしよう。
しかし、近年の研究では、そうした見方が必ずしも正しくないことが明らかになってきた。信長は、本当に無神論者だったのだろうか。以下、詳しく検討することにしよう。
信長は無神論者だったのか?
かつての信長像は、「中世的なものを打ち壊し、近世への道を切り開いた革新者」として描かれてきた。宗教との関わりについても同様で、「信長=無宗教」というイメージが定着していたといえよう。古代から中世にかけて、人々は神仏に強い畏敬の念を抱いていた。平安末期に武家が台頭しても、それは変わらなかった。たとえば比叡山延暦寺が抗議のために神輿を担いで入洛すると、どんな荒くれの武士であっても手出しはできなかった。それに逆らうことは、命がけの行為だったのだ。
信長が「無神論者」とされる最大の根拠は、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』の次の一節にある。
「彼(信長)は理性にすぐれ、明晰な判断力を持ち、神および仏への礼拝・尊崇、さらにはあらゆる異教的占卜や迷信的慣習を軽蔑していた。」
この記述から、信長は合理主義者であり、神仏への信仰や占いなどを軽蔑していたと受け取れる。
当時は「神慮に委ねる」という考えから、くじ引きで重要な決定を行うことも珍しくなかった。六代将軍・足利義教もくじによって選ばれている。そうした時代にあって、信長は合理的な思考を貫いた人物といえる。
さらに『日本史』の別の箇所では、こうも書かれている。
「(信長は)霊魂の不滅や来世の賞罰などは存在しないと考えていた。」
つまり、来世や霊魂の存在を信じるのが一般的だった当時において、信長はそうした信仰を否定していたという。徹底した合理主義者――まさに「異端児」としての信長像が浮かび上がってくる。
フロイスの『日本史』は信用できるのか
ただし、信長を無神論者と明記しているのは、フロイスの『日本史』だけである。日本側の史料には、そのような記述は見られない。強いて類例を挙げるなら、『信長公記』にある父・信秀の葬儀の逸話くらいである。異様な服装で現れた信長は、いきなり父の位牌に抹香を投げつけたという有名な逸話だ。この行為は「神仏を恐れなかった証拠」とも取れるが、真意は定かでない。ましてや、一次史料(同時代の史料)で裏付けることもできない。
そもそも、フロイスの『日本史』とはどんな書物なのか。
フロイスはポルトガル出身のイエズス会宣教師で、天正十一年(1583)以降、ザビエルの布教以後の日本史をまとめるよう命じられた。『日本史』は全三巻(うち一巻は断片的に現存)で、天文十八年(1549)から文禄三年(1594)までの日本を描いている。
彼は一日に十数時間も執筆するほどの熱心さで、膨大な記録を残した。だが、その内容があまりに膨大だったため、検閲役ヴァリニャーノが短縮を命じたところ、フロイスは拒否した。結局、原稿は本国に送られず、マカオの修道会に埋もれたままとなった。原本は1853年の火災で焼失し、現在残るのは写本だけである。
フロイスは観察眼に優れており、戦国武将から庶民の風俗に至るまで詳細に書き残したため、『日本史』は一級史料として高く評価されている。実際、日本の史料では知りえない情報が満載である。
しかし、近年の研究では、この史料の利用には注意が必要だといわれている。フロイスはキリスト教に好意的な大名を高く評価し、そうでない人物には辛辣な筆を向ける傾向があったと指摘されている。
つまり、『日本史』を無批判に信じるのは危険だが、日本側の史料と突き合わせることで信頼できるか否かを確認する必要がある――というのが現在の評価である。
仏教を信仰していた信長
フロイスの記述に一定の限界がある以上、「信長=無神論者」という説には慎重であるべきだと考える。実際、『日本史』には次のような記述も見える。
「当初、名目上は法華宗に属しているように見せていたが、右大臣となった後は自惚れ、自らをすべての偶像より上位に置き、若干の点で禅宗の考えに同意していた。」
この一節から、信長は法華宗を信仰しているように見せつつ、実際には禅宗の教えに共感していたことがうかがえる。
天正四年(1576)に安土城(滋賀県近江八幡市)を築いた際、信長は自身の菩提寺として臨済宗妙心寺派の摠見寺を城下に移築した。もし無神論者であれば、わざわざ菩提寺を建てる必要はない。つまり、信長もまた当時の人々と同じように、仏教を信仰していたと考えてよい。
また、信長は「南無妙法蓮華経」と記した軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選んでいた。本能寺の変の舞台となった本能寺も、法華宗の寺院である。
まとめ――無神論者ではなかった信長
こうした日本側の史料を総合すれば、信長が神仏を信じていたことは明らかであり、「無神論者」とするのは行きすぎた解釈といえるだろう。つまり、信長は無神論者でも何でもなく、当時の戦国大名と同じく、普通に神仏を信仰していたことになろう。- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...
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